第一槽の奔流
ごうっ、と、獣の咆哮みたいな音が貯水槽の底で唸った。
閉じていたはずの水門の継ぎ目から、白く泡立つ水が一気に噴き出してくる。
最初は細い筋だった。けれど、それはほんの一瞬で終わった。
ずるり、と鉄と石が噛み合う重たい音が響いた次の瞬間、水門が半ばまで開き、濁流がそのまま貯水槽の底へ叩き落とされた。
「うわっ……!」
カナンが思わず一歩引く。
足場が揺れる。
古い石壁に水しぶきが叩きつけられ、青白い魔道灯の光がばらばらに砕けた。
人質たちの悲鳴が上がる。
縛られたまま柱のそばに置かれていた大人たちが、迫る水音に身を縮めた。左端の荷棚の陰にいた子ども二人も、口を塞がれたまま必死に身をよじっている。
「ルークさん!」
レイナの声には、もう迷いがなかった。
「人からです!」
「分かってる!」
ルークは叫び返した。
正面の足場を水が走る。
まだ膝下ほどだ。だが、あの勢いで来れば、一瞬で足を取られる。
「カナン!」
「言われなくても行く!」
カナンはもう動いていた。
右手の短剣を逆手に持ち、足場の手すりを蹴って一段下の通路へ飛び降りる。狙うのは、人質のすぐそばにいた黒外套の二人だ。
「お前ら、こっち見ろ!」
叫びと同時に投げナイフが飛ぶ。
一人目が肩を押さえてよろめき、二人目が咄嗟に身を引いた。
そのほんの一瞬で十分だった。
ルークは足場の縁へ走りながら、両手を水門へ向ける。
(入るか……?)
物なら入る。死体も、生きた魔物も、荷車も、木箱も入った。
なら、水はどうだ。
理屈の上では“物”だ。
けれど、目の前で押し寄せる量は、今まで扱ったどんなものより桁が違う。
「ルークさん、無茶は――」
レイナの言葉が途中で切れる。
ルークはもう決めていた。
「収納展開!」
水門の真正面、噴き出す濁流の前に巨大な光の口が開いた。
次の瞬間、白い奔流がごっそりと消える。
「っ……!」
ルークの全身に、ぞわりとした重圧が走った。
重い、というより、押される。
大量の水が《無限インベントリ》の向こうへ流れ込んでいく感覚は、今までの収納とはまるで違った。
「え、うそだろ」
カナンが、足場の途中で目を剥く。
「水まで食うのかよ!」
「食べてない!」
ルークは叫んだが、余裕はない。
完全には止めきれない。
開いた収納口の左右から、水はまだ貯水槽へ流れ込んでいる。
けれど、勢いは半分以下に落ちた。
「今のうちです!」
レイナが走る。
真っ先に向かったのは、左端の荷棚の陰にいた子ども二人だった。
「大丈夫、大丈夫ですからね! 今すぐ助けます!」
口布を外そうとした瞬間、子どもの一人が涙目のまま首を横に振る。
「ん、んんっ!」
「え?」
よく見ると、縄の端が荷棚の脚に巻きついていた。しかも、その下を水がもう走り始めている。無理に引けば、細い体ごと荷棚に引っ張られる。
「ルークさん!」
「行く!」
ルークは水門への収納を維持したまま、左手だけをそちらへ向けた。
「部分収納!」
縄の結び目だけを消す。
ぱん、と軽い音がして、子どもの体が前へ倒れた。
レイナが両腕で抱きとめる。
「よし……! もう一人も!」
「すぐ!」
その横を、水が唸りを上げて流れていく。
冷たい飛沫が、ルークの頬にまで届いた。
◇ ◇ ◇
一方、中央の足場ではカナンが二人を相手にしていた。
「こっの……!」
黒外套の男が棒を振り回す。
カナンは体を半身にしてそれをかわし、足首を狙って刃を走らせる。
「重い武器持つなら、せめて狭い足場で振るなよ!」
「黙れ!」
「お前がな!」
言いながらも、カナンの目は笑っていない。
片方の男を崩した瞬間、もう片方が人質の方へ回り込もうとする。
「させるか!」
カナンは踏み込み、肘で喉元を打った。
男が苦鳴を漏らして崩れ落ちる。
だが、その背後から、マルクが現れた。
「外の斥候風情が、邪魔をするな」
低い声。
短剣の切っ先が、青白く光を拾う。
「書記くずれに言われると腹立つな」
カナンが吐き捨てた。
「でもまあ、王都の裏切り補助員って肩書きの方がだいぶ格好悪いぞ」
「……黙れ」
マルクの表情が初めて歪んだ。
その一瞬を、カナンは見逃さない。
だが、先に踏み込んだのはマルクだった。
速い。
補助員の動きじゃない。
短剣が、足場の狭さを知っている人間の角度で滑ってくる。
「ちっ!」
カナンが刃を受け、火花が散る。
「ほんとに書類仕事だけしてたわけじゃねえな」
「お前のような場当たりの斥候と一緒にするな」
「言うじゃねえか……!」
二人の刃が、細い足場の上で何度もぶつかった。
◇ ◇ ◇
「ルークさん、二人確保します!」
レイナが叫ぶ。
子ども二人はもう腕の中だ。
怯えきっているが、生きている。怪我も重くはない。
ルークはすぐに頷いた。
「少しだけ暗いところに入るけど、安全だから!」
子どもたちが涙目のまま頷くのを確認し、《無限インベントリ》の安全区画へ収める。
これで、まずは二人。
だが、中央の柱のそばにはまだ大人が五人縛られている。
そのうち一人は水が足に当たり始め、必死に身をよじっていた。
「そっちも行く!」
レイナが走ろうとした、その時。
「待て!」
上から、白布の女の声が落ちてきた。
彼女が指を軽く振ると、上段の足場にいた作業着姿の男たちが、一斉に滑車の方へ走った。
「第二段、落としなさい」
「っ、まだ何かあるのかよ!」
ルークが顔を上げる。
滑車の横には、太い鎖とは別に、細い鉄棒が並んでいる。男たちはそれを抜き、何かの留め金を外そうとしていた。
「カナン!」
「見えてる!」
だが、マルクが執拗に立ちはだかる。
足場の幅は二人分あるかないか。押し切るには危ない。
その間にも、水位は少しずつ上がる。
「ルークさん!」
レイナの声に振り向くと、彼女は柱の人質へ向かっていた。
だがその手前で、別の黒外套が一人、棒を持って立ち塞がる。
「近づくな!」
「どいてください!」
レイナが珍しく強い声を出す。
男は怯まない。
むしろ彼女を狙って一気に踏み込んできた。
「《ライト》!」
レイナの杖先から光が弾ける。
男が目を細める。
それでも足を止めない。
そこでルークは、ほとんど反射で手を伸ばした。
「任意座標展開!」
男の膝の前に、小さな収納口が開く。
踏み込んだ脚が、突然消えた床に空を切る形になり、男はそのまま前へつんのめった。
「え?」
男が間の抜けた声を出した次の瞬間、レイナの杖がその肩へ叩きつけられる。
「ごめんなさい!」
謝る声とは裏腹に、かなりしっかりした一撃だった。
男が崩れる。
ルークは思わず目を丸くした。
「……レイナさん、今の」
「あとで謝ります!」
そう言いながら、彼女はもう人質の縄を見ていた。
さっきより余裕がない。
水が足元を流れ、柱の根元へぶつかっている。
「ルークさん、縄お願いできますか!」
「全部切る!」
ルークは水門への収納を一瞬だけ狭め、両手を柱の方へ向けた。
「部分収納!」
五人分の縄が、まとめて消える。
人質たちの体がぐらりと傾く。
レイナが叫ぶ。
「立てる人から立ってください! 転ばないで!」
だが、一人の青年が足を滑らせ、そのまま流れへ持っていかれかけた。
「危ない!」
ルークが叫ぶより早く、レイナが飛びつく。
腕を掴んだ。だが、彼女自身も引っ張られる。
「レイナ!」
ルークの喉がひりつく。
次の瞬間、水門側から飛んできた一本の縄が、青年の胴に巻きついた。
「引け!」
カナンの声だった。
いつの間にかマルクを蹴り離し、片手で足場の支柱へ縄を固定していたのだ。
ルークはすぐにその意図を読んだ。
「収納、解除!」
青年の足元の流れだけを、一瞬だけ光へ飲み込む。
空白ができた、その一瞬でレイナが渾身の力で引き戻す。
青年が足場の上へ転がり込んだ。
レイナも、その上に覆いかぶさるように倒れる。
「……っ、は……」
「レイナさん!」
「だ、大丈夫です……!」
顔を上げたレイナの頬は真っ青だった。
でも、ちゃんと笑おうとしている。
「今のはちょっと、冷たかったです」
「そこ!?」
ルークが思わず叫ぶ。
カナンが遠くで叫び返した。
「感想それなのかよ!」
それでも、その一言で少しだけ呼吸が戻った。
五人は助かった。
ルークはすぐに彼らを順に安全区画へ収める。
これで、見えていた人質七人全員を確保した。
◇ ◇ ◇
「チッ……」
上段から、白布の女が初めてはっきりと舌打ちした。
ほんのわずかだが、感情が見えた。
「本当に面倒ね、あなたたち」
「褒め言葉なら受け取っておく」
ルークが言い返す。
女は、そこで初めて少しだけ笑ったように見えた。
それは愉快そうな笑みではない。
獲物の動きを見て、予定を切り替える時の顔だ。
「なら、次はこれでどうかしら」
彼女が指を鳴らす。
その直後、上段の作業着姿の男たちが、さっき外しかけていた細い鉄棒を一気に引き抜いた。
がきん、と大きな音がして、滑車の奥で別の機構が動く。
水門ではない。
もっと近い、頭上のどこかだ。
「何した……?」
ルークが顔を上げる。
貯水槽の天井近く、古い配水管の束が並ぶ場所で、太い鉄管のひとつがゆっくりと下向きに傾いていた。
「まさか……」
レイナの顔から血の気が引く。
その鉄管の先端に、赤黒い液がべっとりとこびりついているのが見えたからだ。
次の瞬間。
どぼっ、と鈍い音とともに、その管から濁った液体が貯水槽の水へ流れ落ちた。
「薬液か!」
カナンが叫ぶ。
広がるのは、一瞬だった。
濁流に混ざった赤黒い液が、貯水槽の底全体へ一気に拡散していく。
ルークはぞっとした。
もし、さっきまで人質たちがあそこに残っていたら。
もし、自分たちが足をつけたまま戦い続けていたら。
想像したくもない。
「ルークさん!」
レイナが鋭く声を上げる。
「水そのものが危ないです!」
「分かってる!」
だが、その返事をかき消すように、貯水槽の底で何かが動いた。
ひとつじゃない。
ふたつ、みっつ。
水の中で、赤い光がぽつ、ぽつと灯る。
「……嘘だろ」
カナンの声が、今度こそ本気で引きつった。
赤い目だ。
沈んでいた何かが、薬液の混じった水の中で目を開けていく。
魚じゃない。
もっと大きい。
犬でも狼でもない、水に棲む別の何か。
青白い灯りの下、貯水槽の濁った水面が、ぼこりと大きく膨らんだ。




