古い貯水槽の底
青白い光は、排水路の先でゆらゆらと揺れていた。
月明かりじゃない。
魔道灯だ。
それも、王都の街路で使われているような暖かい色じゃなくて、倉庫や地下施設でよく使われる、冷たく白い光。
「……こういう灯りって、だいたい嫌な場所ですよね」
レイナが小声で言う。
その声はかなり控えめだったのに、湿った石壁に反響して、少しだけ長く残った。
先頭を歩くカナンが、振り返らずに手だけ振る。
「分かる。雰囲気からしてもう良くない」
「なんで言うんだよ。余計に嫌な感じになるだろ」
ルークが返すと、カナンは肩をすくめた。
「でも、ルークも同じこと思っただろ?」
「……思った」
「ほら見ろ」
「そこ、得意げになるところじゃありません」
レイナの即答に、カナンが小さく口元をゆるめる。
そのやり取りで、張りつめていた心がほんの少しだけ動いた。
怖い。
嫌な予感しかしない。
でも、こうしていつも通りに短い会話ができると、逆に頭が冷える。
ルークは壁に手を添えながら、慎重に前へ進んだ。
足元の水は浅い。
でも、水音はやけに響く。
排水路は途中からわずかに上りになっていて、やがて人が屈まずに立てるくらいの高さへ変わった。
そこでカナンが足を止める。
「前、開けてる」
声が変わる。
軽口の時のそれじゃない。
完全に斥候の声だ。
ルークとレイナもすぐにしゃがみ込んだ。
少し先、排水路の終わりに鉄格子がはまっている。
だが格子の向こうは、もうただの排水路ではなかった。
広い。
いや、広すぎる。
「……これ」
ルークは思わず息を呑んだ。
古い貯水槽だ。
地下にぽっかりと空いた巨大な空間。丸く深い石造りの底に、今は半分ほどまでしか水が入っていない。周囲には古い足場と細い通路が張り巡らされ、何本もの鎖と滑車が天井近くから垂れている。
そして、その足場の上には人がいた。
ひとり、ふたりじゃない。
見えるだけで十人以上。
黒い外套の者。
作業着の者。
救援印のついた上着を着ている者までいる。
木箱も山のように積まれていた。
薬箱。食料箱。毛布。樽。
その中には、ベルクハイムで見たものと同じ形の細長い箱もある。
「……本命って、こういうことか」
カナンが低く言う。
「集積場も水車小屋も、全部前段階だ」
レイナの視線が、貯水槽の中央付近で止まった。
「あれ……人、ですよね」
ルークも見た。
足場の一角、太い柱に沿って、数人が座らされている。手を後ろで縛られ、口元まで布で押さえられている。男も女もいる。全員、ぐったりしてはいるが、死んではいないように見えた。
「多いな……」
ルークが呟く。
「思ったよりずっと」
「助けるなら、ここ全部まとめてだな」
カナンも珍しく軽口を挟まなかった。
その時、足場の奥から見覚えのある人影が現れた。
「……マルク」
ルークの声が、少しだけ低くなる。
東部詰め所の補助員。
リーナが信じていた相手。
火を放ち、札を流し、ここまで逃げた男。
マルクはもう補助員の顔をしていなかった。
外套は脱いでいる。動きやすい暗い服の上に革の胴当てを着け、腰には短剣。右頬には、集積場でついたのか浅い切り傷が走っていた。
「生きてたか」
カナンが小さく言う。
「しぶといな」
「嬉しくない感想だな……」
ルークが答えた、その直後だった。
マルクの奥、さらに高い足場から、別の声が落ちてきた。
「遅いわね」
女の声だ。
低くはない。
でも、やわらかくもない。
薄い刃物みたいに冷たい声だった。
ルークたちは反射的に身を低くする。
青白い灯りの下、高い足場の手すりに、一人の女が立っていた。
黒い長衣。
口元は白い布で隠している。
細い体に見えるのに、妙に存在感がある。
年齢は分からない。
でも、若すぎはしない。
彼女は足場の下を一瞥して、マルクへ言った。
「東の集積場は?」
「押さえに来た連中とぶつかりました。番犬は使いましたが、完全には止めきれません」
「……役立たず」
その一言は静かだった。
けれど、マルクがほんのわずかに肩を強張らせる。
上下がある。
ここで指示しているのは、あの女だ。
「ですが、時間は稼げました」
マルクはすぐに言い足す。
「東部詰め所も火で混乱しています。追ってきても、ここまで真っ直ぐは来ないはずです」
女は何も返さなかった。
代わりに、ゆっくりと足元の箱へ視線を落とす。
「ベルクハイムの損失分は」
「薬箱四、鎮静剤二、保存瓶十六。人員は三」
「足りないわね」
「次の便で補います」
「その次の便が通ると思ってるの?」
冷たい言い方だった。
マルクが、今度ははっきりと黙る。
ルークはそのやり取りを見ながら、胸の奥がざわつくのを感じていた。
ただの密輸じゃない。
誰かが、かなり計画的に人と物を動かしている。
それも、王都とベルクハイムを繋いで。
「ルークさん」
レイナが、ほとんど息だけで呼ぶ。
「うん」
「左端の荷棚の陰……」
言われて目を凝らすと、荷棚の陰にも人がいた。
小さく見える。
子どもだ。
「……っ」
ルークの喉がつまる。
子どもは二人。
どちらも膝を抱えるように座らされ、口を塞がれている。
しかも、そのそばに置かれている木箱には、王都ギルドの救援印が焼き付けられていた。
助けるための物資の隣に、攫われた人が置かれている。
その光景が、たまらなく嫌だった。
「おい」
カナンが低く言う。
「怒るのは分かるけど、顔に出すなよ」
「そんなに分かる?」
「さっきよりさらに分かる」
「ルークさん、今かなり目が怖いです」
レイナまで言うので、ルークは一瞬だけ息を吐いた。
「……ごめん」
「謝らなくていいです。でも、落ち着いてください」
その声は静かで、強かった。
ルークは頷く。
腹は立つ。
でも、ここで感情だけで動いたら終わる。
見えている敵だけで十人以上。
人質は少なくとも七人。
しかも、上の女がどこまで戦えるかも分からない。
「どうする?」
カナンが聞く。
「正面からやれば、さすがに無茶だぞ」
「うん。分かってる」
ルークは貯水槽の中をもう一度見渡した。
正面の足場。
人質。
木箱。
そして、巨大な鎖と滑車。
さらに奥には、古い水門のようなものが見える。
いまは閉じているが、その向こうにまだ水が溜まっているのか、低くごうごうと鳴っていた。
「……あの鎖、何を動かしてるんだ」
ルークが呟くと、カナンが目を細めた。
「水門じゃないか? 古い貯水槽なら、水位調整の仕掛けがあってもおかしくない」
「それ、開いたらどうなるんですか」
レイナが聞く。
「知らん。でも、良いことにはならなそうだな」
「良いことじゃないわよ」
上から、女の声が落ちてきた。
三人の背筋が一斉に凍る。
見つかった。
ルークが顔を上げると、白布の女が真っ直ぐこちらを見ていた。
距離はある。
暗がりもある。
それでも、分かったのだ。
「いつからいたの?」
女は手すりに肘を置くようにして、楽しげでもなく、ただ事実確認みたいに言った。
「排水路の音で途中から気づいていたけど、もう少し見てからにしようと思って」
カナンが小さく舌打ちした。
「最悪だ」
「同意」
ルークも短く返す。
でも、見つかったからにはもう隠れる意味は薄い。
ルークはゆっくりと立ち上がった。
レイナとカナンも合わせる。
「その人たちを離せ」
ルークが言う。
声が、自分でも驚くくらいまっすぐ出た。
女は少しだけ首を傾げた。
「嫌よ」
「即答かよ」
カナンが吐き捨てる。
「分かりやすくて助かるだろ」
女の返しは、薄く乾いていた。
笑っているわけじゃない。
でも、こちらを怖がってもいない。
「ルーク・フレイアス」
女が、その名を呼ぶ。
ルークの目が細くなる。
「……僕を知ってるのか」
「知ってるわ。王都東部で邪魔をした収納持ち。ベルクハイムでも余計なことをした。思ったより早く戻ったのは計算外だったけど」
マルクが、上の足場を見上げる。
「どうしますか」
女は少しだけ考えるような素振りを見せた。
それから、さらりと言った。
「第一槽を開けなさい」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「は?」
カナンが間抜けな声を出す。
だが、次の瞬間には足場の端にいた男たちが、一斉に太い鎖へ取りついていた。
がちゃがちゃと、鉄の噛み合う嫌な音が響く。
「ちょ、待て待て待て!」
カナンが叫ぶ。
「それ、絶対ろくでもないやつだろ!」
「ええ、ろくでもないわよ」
女は平然と答えた。
「証拠も、人も、侵入者も。まとめて流れてしまえば早いもの」
ルークの血の気が引く。
「ふざけるな!」
「ふざけてない」
女の声は、冷たく澄んでいた。
「私はいつも真面目よ」
鎖が引かれる。
重い滑車が軋む。
貯水槽の奥で、何か巨大なものがずるりと動く音がした。
ごおおお……、と、低い水の唸りが一段高くなる。
「ルークさん!」
レイナの声が震える。
「水、来ます!」
貯水槽の奥、閉じていたはずの巨大な水門の継ぎ目から、白く泡立つ水が噴き出し始めていた。
少しじゃない。
最初から、もう勢いが違う。
あれが完全に開いたら、この空間全部が一気に水で満たされる。
「おいおいおい、そういうのは先に言えよ!」
カナンが叫びながらも、もう短剣を抜いて駆け出していた。
ルークも走る。
レイナも杖を握り直す。
人質がいる。
子どももいる。
そして相手は、最初から全部流すつもりだ。
青白い灯りの下、貯水槽の底で、水が牙を剥いた。




