燃える逃げ道の先
前からも、後ろからも、熱い風が吹き込んできた。
狭い通路の中で、それはただの風じゃない。火に押し出された空気だ。
じわっと頬が熱くなる。鼻の奥に、焦げた木と油の臭いが刺さった。
「……挟まれた」
カナンの声から、さっきまでの軽さが完全に消えていた。
ルークは即座に前後を見た。
通路の先――さっき通ってきた東部詰め所側の入口の向こうが、もう赤くなっている。
誰かが油でも撒いたのか、火の回り方が早い。
振り返れば、通路の奥――マルクが逃げた先からも、別の火がこちらへ伸びてきていた。
「二方向から……!」
レイナが息を呑む。
「誰かが火をつけたんですね」
「たぶん、マルクだな」
ルークが低く言う。
「追われるより、ここで焼く方が早いって判断した」
「性格悪すぎだろ、それ!」
カナンが吐き捨てるように言った。
だが、怒っている時間はない。
火はもう見えている。
しかも、この通路は細い。煙もすぐに溜まる。
「ルークさん、どうします!?」
「まず、息を守る!」
ルークは《無限インベントリ》に手を伸ばした。
「布と水、出す!」
ばさっ、と腕の中に布束が現れる。
続いて水袋を二つ。
ルークはすぐに布を裂き、水をかけた。
「口と鼻を覆って!」
「はい!」
レイナがすぐに従う。
カナンも受け取って口元を押さえながら、少しだけ目を丸くした。
「こういう時の対応まで早いの、ほんと反則だな」
「褒めるなら後!」
「はいはい!」
言い返しながらも、カナンはすでに壁を叩いていた。
こん、こん、と音を確かめるように拳で打つ。
「……こっちは詰まってる」
反対側を叩く。
「こっちは少し空洞っぽい」
「空洞?」
ルークもその壁へ手を当てた。
たしかに、熱の伝わり方が少し違う。
石壁の向こうに、何か隙間があるような感触だ。
「ここ、昔の排水路かもしれません」
レイナが言った。
「湿気が強いです。少しだけ冷たい風も来てる」
ルークは目を細める。
言われてみれば、火の臭いに混じって、水気のある空気が流れている。
「出口になるかは分からんが、他に道はないぞ」
カナンが短く言う。
「前も後ろも、このままだと持ってかれる」
「……やるしかない」
ルークは頷いた。
「レイナさん、少し下がって。カナンは横へ」
「了解」
「分かりました」
ルークは壁の一部に手をかざした。
全部を壊す必要はない。
継ぎ目の脆い部分だけを狙う。
「部分収納」
淡い光が走る。
石がいくつか、音もなく消えた。
その瞬間、小さな隙間から冷たい空気が一気に吹き込んでくる。
「当たりだ!」
カナンがすぐに膝をつき、手を差し込む。
「まだ狭いけど、人ひとりなら……いや、もう少し広げりゃ行ける!」
「続けます!」
ルークはさらに周囲の石を選んで収納した。
ごっそりではない。
必要な分だけ、通れる幅だけ。
やりすぎれば、逆に天井が落ちるかもしれない。
「ルークさん!」
レイナが短く叫ぶ。
振り向くと、通路の向こうから煙が押し寄せてきていた。
火そのものより先に煙が来る。
まずい。
「あと少し!」
ルークは歯を食いしばり、最後の石を消した。
人が横向きなら通れるくらいの穴が開く。
その向こうは真っ暗だった。
「カナン、先に見て!」
「任せろ!」
カナンは迷わずその穴へ身体を滑り込ませる。
少しの沈黙。
すぐに向こうから声が返った。
「空間ある! 狭いけど抜けられる! たぶん古い排水路だ!」
「よし、レイナさん先!」
「え、でも――」
「いいから!」
レイナは一瞬だけためらったが、すぐに頷いた。
「……分かりました!」
ルークが肩を支えると、彼女は横向きになって穴をくぐる。
その間にも熱が増す。
通路の天井から、ぱらぱらと焦げた埃が落ちてきた。
「ルーク!」
向こうからカナンが叫ぶ。
「早くしろ!」
「今行く!」
ルークは最後に振り返った。
後ろの火がもうかなり近い。
前の火も迫っている。
完全に、殺すための火だ。
「……ほんとに性格悪いな、マルク」
そう吐き捨ててから、ルークも穴へ身体を滑り込ませた。
◇ ◇ ◇
穴の先は、本当に古い排水路だった。
腰をかがめなければ進めない高さで、石壁は湿っており、足元には浅い水が流れている。
だが、火の熱は一気に遠のいた。
「……はぁっ」
レイナがようやく大きく息をつく。
「助かった……」
「まだ油断するな」
カナンが前方を睨んだまま言う。
「こういう抜け道があるってことは、向こうも使ってる」
「だよね」
ルークも呼吸を整えながら頷いた。
火から逃れるためだけの偶然の穴じゃない。
元から、誰かが出入りするために使っていた可能性が高い。
「熱はもう来ません。でも煙は少し流れてきてます」
レイナが後ろを見た。
たしかに、薄く白いものが穴の方から押し込まれてくる。
「長居はだめですね」
「じゃあ進むしかない」
カナンが先へ足を踏み出す。
「こっち、少し上りになってる。どこか別の出口に繋がってるはずだ」
歩きながら、ルークはふと気づいた。
「……マルクも、こっちに来たのかな」
「来てるだろ」
カナンが即答する。
「さっきの火、あいつが“こっち側も押さえてる”からできたんだ。出口を知ってる前提の動きだ」
「じゃあ、追いつけるかも」
ルークが言うと、カナンはちらっと振り返った。
「いい顔になったな」
「なにが」
「さっきまで“逃げ道探す”顔だったのに、今は“追いかける”顔だ」
「……そんなに分かりやすい?」
「かなり」
そこでレイナが小さく言う。
「ルークさん、ちょっと目が鋭いです」
「レイナさんまで……」
「でも、その方がいいです」
暗い排水路の中で、レイナの声だけが不思議と落ち着いて聞こえた。
「ここで逃がしたら、また誰かが傷つきますから」
「うん」
ルークは短く答えた。
その時、前を歩いていたカナンが急に手を上げる。
「止まれ」
三人同時に足を止めた。
前方、暗闇の中に、微かな灯りが揺れた。
人だ。
「……一人?」
ルークが囁く。
「たぶんな。でも」
カナンが目を細める。
「動き方が変だな」
次の瞬間、その灯りがふっと揺れ、こちらへ向かって走ってきた。
「来る!」
ルークが構える。
だが現れたのは、マルクではなかった。
「た、助け……!」
若い男だった。
補助員の服を着ている。
顔も煤だらけで、片足を引きずっている。
「待って、止まって!」
レイナが声をかける。
男は数歩進んだところで限界がきたらしく、そのまま水路の中へ崩れ落ちた。
「大丈夫ですか!?」
レイナが駆け寄る。
ルークも膝をついた。
「誰ですか、あなた」
男は荒い息の中で答える。
「……トーマス……東部詰め所の補助員……」
ルークとレイナが顔を見合わせる。
補助員。
つまり、リーナやマルクと同じ詰め所の人間だ。
「どうしてここに?」
ルークが問うと、トーマスは苦しそうに喉を鳴らした。
「マルクに……呼ばれた……。帳簿の運び替え手伝えって……でも、倉庫の奥で急に火が……」
「マルクは?」
カナンが鋭く聞く。
トーマスの顔がびくっと強張る。
「行った……先に……。荷を持って……“本命はもう動いた”って……」
その言葉に、ルークの背筋が冷える。
「本命?」
「ち、地下の……集積所じゃない……。もっと東……古い……」
そこでトーマスが咳き込む。
レイナがすぐに背を支え、回復魔法を流した。
「無理しないでください。ゆっくりでいいです」
淡い光に包まれて、トーマスの呼吸が少しだけ整う。
「……古い、何?」
ルークが静かに聞く。
トーマスは、震える唇で答えた。
「古い貯水槽……」
ルークの目が見開かれる。
貯水槽。
それは、ベルクハイムで見た水路の話とも繋がる単語だった。
「東の外れにある……昔の大きな貯水槽だ……。もう使ってないはずなのに……あそこに、人も荷も……全部集めてる……」
「全部……?」
レイナの声が小さくなる。
トーマスは必死に頷いた。
「荷車が消えたのも……救援印の箱も……。あそこに運ばれてる……。マルクが……“今夜のうちに次をまとめる”って……」
水路の中の空気が、一気に冷えた気がした。
古い貯水槽。
王都東部のさらに外れ。
もしそこが本命なら、今まで見てきた倉庫や集積場は全部その手前の拠点にすぎない。
「……おい」
カナンが低く言った。
「こういうの、だいたい嫌な予感当たるんだよな」
「僕も今、同じこと思ってた」
「全然嬉しくない一致だな」
それでも、答えはもう出ている。
向かう場所は一つだ。
◇ ◇ ◇
トーマスをそのままにしていくわけにはいかなかった。
ルークは彼を安全区画へ収める。
「少しだけ暗いところに入りますけど、安全です」
「た、助かる……」
そう言い残して、トーマスの身体は光に包まれて消えた。
カナンが壁に手をつき、少しだけ顔をしかめる。
「なあ、ルーク」
「うん?」
「その力、今さらだけどほんとに旅で最強じゃないか?」
「今さらだね」
「今さらだよ。人も運べる、荷も運べる、火から逃げる穴まで開ける。やってることがだいたい反則」
「褒めてるんだか文句なんだか」
「半々だ」
その返しに、レイナがくすっと笑う。
「でも、助かってるのは本当です」
「レイナさんにそう言われると、ちょっと照れるな」
「そこ、今拾うとこ?」
「今拾わないと損するだろ」
こんな状況でも、会話が途切れない。
それが妙にありがたかった。
重たい話の中で、三人の息がちゃんと合っている証拠みたいで。
「行こう」
ルークが前を見る。
「古い貯水槽だ」
「王都の地理はまだ怪しいけど、東へ抜けるならこの水路が一番早いかもな」
カナンが言う。
「地上より見つかりにくいし」
「レイナさん、大丈夫?」
「はい。行けます」
その目はしっかりしていた。
疲れていないはずがない。
でも、止まる気はない。
三人は再び排水路を進み始めた。
足元の水音だけが、小さく響く。
その少し先、暗闇の向こうから、ごう……と低い水の唸りが聞こえ始めた。
普通の水路の音じゃない。
もっと大きな空間に、水が落ちる音だ。
「……近いな」
カナンが言う。
ルークは息を整えた。
古い貯水槽。
そこに、人も荷も集めている。
そしてマルクは、そこへ向かった。
排水路の先に、ぼんやりと青白い光が滲む。
出口だ。
だが、その光は月明かりじゃなかった。
もっと人工的で、冷たい光だ。
まるで、誰かが地下で灯りを焚いて待っているみたいに。




