本物の通行札の名
古い集積場の中は、戦いのあとの熱と、まだ抜けきらない薬臭さでむっとしていた。
倒れた木箱。割れた瓶。壁に残る爪痕。
そして床の上には、リーナが拾い上げた本物の補助札――王都東部支援用の通行札が、妙に重たいものみたいに置かれている。
「……本物、なんですね」
レイナが小さく言った。
「はい」
リーナは札を両手で持ったまま、すぐには顔を上げなかった。
「偽物なら、まだ話は単純でした。似せて作った、盗んだ、流れ着いた……いくらでも可能性はあります。でも、これは違います」
彼女は札の裏面を指で示した。
「見てください。ここ、発行番号があります」
ルークも覗き込む。
小さく、几帳面に刻まれた数字と記号。
気づかなければただの傷に見えたかもしれない。
「東部支援の通行札は、一枚ごとに番号管理してます。誰に渡したか、いつ切ったか、控えが残るように」
「つまり」
カナンが腕を組んだまま言う。
「誰の札か、割れるってことか」
「そういうことです」
リーナの返事は短かった。
だが、その短さの中に、緊張が滲んでいる。
気のせいじゃない。
今、ここにあるのはただの証拠じゃない。
王都の中にいる“誰か”へ直接つながる鍵だ。
◇ ◇ ◇
その間に、衛兵たちは集積場の中を押さえ、建物の外も囲っていた。
レイナは保護した三人を順に《無限インベントリ》の安全区画から出し、広間の隅に毛布を敷いて座らせている。
「大丈夫ですか? 気分が悪かったり、息苦しかったりしませんか?」
年配の男が、まだ青い顔のまま頷く。
「……助かった。正直、もう駄目だと思ってた」
「無理に立たなくていいです。今、水を持ってきます」
レイナが言うと、その男は目をぱちぱちさせた。
「水まで出るのか?」
「水は私じゃなくてルークさんです」
その言い方に、ルークは少しだけ苦笑した。
「なんか僕だけ便利袋扱いされてない?」
「便利袋ってお前、自分で言うとちょっと安っぽいな」
カナンが口を挟む。
「もっとこう……歩く補給庫とか、移動式倉庫とか」
「それ、褒めてるようであんまり嬉しくない」
「じゃあ何がいいんだよ」
「普通にルークでいいよ」
「贅沢だなあ」
そんなやり取りの最中でも、レイナの手は止まらない。
水を渡し、手首の痣を見て、呼吸を確かめる。
さっきまでの戦闘の緊張がまだ完全には抜けていないはずなのに、こういう時の彼女は本当に落ち着いていた。
リーナは、その様子を一瞬だけ見てから、小さく息を吐いた。
「……よかった」
「何が?」
ルークが聞き返す。
「ルークさんが無事でよかったのも、レイナさんが無事でよかったのも、カナンさんが変な大怪我してなくてよかったのも、全部です」
「まとめて言うなよ。俺だけ雑じゃないか?」
カナンが言うと、リーナは真顔で返した。
「さっきまで知らない人でしたし」
「うわ、理屈として強い」
ルークが思わず吹き出すと、カナンがじろっと見た。
「笑ってる場合か?」
「いや、ちょっとだけ面白かった」
「王都の受付嬢、やっぱり刺し方が柔らかいのに痛いな……」
ぼやきながらも、カナンは完全に拗ねているわけではない。
むしろ少しだけ気が緩んだ顔をしていた。
この場の空気が、張りつめきって壊れないように、自分でも半分くらいは意識して軽口を叩いているのかもしれない。
◇ ◇ ◇
「リーナ、その札」
重い声がした。
広間の奥から歩いてきたのは、ギルド長ラザン・ヴェルグロスだった。
彼が一歩入ってくるだけで、場の空気がすっと引き締まる。
「はい」
リーナはすぐに札を差し出した。
ラザンは受け取ると、無言で表裏を確認し、目を細める。
「番号は」
「東部支援補助札、第三列の後半です。帳簿を確認すれば持ち主は特定できます」
「すぐ出せ」
「もう持ってきてもらっています」
リーナが答えた、その直後だった。
ぱたぱたと足音が近づき、若い職員が分厚い帳簿を抱えて飛び込んでくる。
「リーナさん、通行札帳です!」
「ありがとう」
彼女はすぐに帳簿を開いた。
ページをめくる手つきが早い。
慣れているのだろう。
「東部支援、第三列……後半……」
その指が、ある行でぴたりと止まった。
そして、目が揺れる。
「……そんな」
「誰だ」
ラザンが短く問う。
リーナは、ほんの一瞬だけ息を止め、それから絞るように答えた。
「……マルクです」
「マルク?」
ルークが聞き返す。
聞いたことのない名だ。
けれど、リーナの反応は明らかに“知っている相手”だった。
「東部臨時詰め所の補助員です。帳簿整理と、通行札の管理補助を任せてた……」
「信用していた?」
ラザンの問いは冷静だった。
だが、冷たいわけではない。
事実だけを確かめる声だ。
リーナは、悔しさを押し殺すように唇を引き結んだ。
「……はい」
その一言で十分だった。
場の誰もが理解する。
本物の札が敵の手にあった理由。
東門の検分が通る理由。
救援用の荷車を偽装に使えた理由。
中に、いたのだ。
しかも、かなり近いところに。
◇ ◇ ◇
「顔は分かるのか」
カナンが聞く。
「はい。もちろん」
「今、この場にいないんだな?」
今度はルークが尋ねた。
リーナはすぐに頷かなかった。
帳簿から目を離し、少しだけ迷うように広間の方を見た。
「……さっきまで、いました」
「さっきまで?」
「東部詰め所で、荷車の通行記録を整理していたはずです」
レイナの顔色が変わる。
「だったら、まだ近くに……」
「いや」
ラザンが低く言った。
「札がここに落ちていた時点で、その“はず”は捨てろ」
その瞬間、広間の入口から、また別の職員が飛び込んできた。
「リーナさん!」
「どうしたの!?」
「マルク補助員が見当たりません! ついさっきまで記録台にいたのに、荷車台帳だけ持って……!」
リーナの顔から血の気が引いた。
「台帳を?」
「はい! あと、東門の通行許可印の一部も――」
言い終わる前に、ルークたちはもう動いていた。
ラザンが一歩前へ出る。
「東門を閉めるな」
「え?」
職員が目を丸くする。
だがラザンは迷いなく続けた。
「今閉めれば、相手は潜る。泳がせて尾を掴む。リーナ、マルクの机を押さえろ。残った書類と私物、全部だ」
「はい!」
「ルーク、レイナ、カナン」
「はい」
三人の声が重なる。
「マルクの匂いを追え。まだ遠くへは行っていないはずだ」
カナンが、ちょっとだけ楽しそうに口角を上げた。
「こういうのは得意分野だな」
「楽しそうに言わないでください」
レイナが即座に返す。
「いや、得意な仕事が来たら少しくらい顔に出るだろ」
「今その顔はちょっと不謹慎です」
「王都の回復役、容赦ないな……」
でも、その軽口のあと、カナンの目はすぐに鋭くなった。
もう斥候の顔に戻っている。
◇ ◇ ◇
マルクの机は、東部詰め所の奥、帳簿棚の並ぶ一角にあった。
机の上には書きかけの記録。
インク壺。
整然と積まれた帳面。
一見、何もおかしくない。
だが、椅子の引き方と、机の横に落ちた紙片が、その場を途中で捨てたことを物語っていた。
「急いで出たな」
ルークが呟く。
「たぶん、ここが露見したと気づいた」
カナンが机の周りを見ながら言う。
「でも、頭のいい逃げ方じゃない。焦ってる」
レイナが机の引き出しをそっと開ける。
「これ……」
中には、まっさらな通行札が数枚。
それから、封の切られていない小袋。
リーナがすぐに覗き込んだ。
「補助札の予備……! それに、この袋……」
袋の口を少し開く。
鼻を刺す、嫌な苦い臭い。
「っ……」
ルークも、レイナも、同時に顔をしかめた。
「やっぱり、これ……」
「小瓶の中身と同じ系統です」
レイナが言う。
「ただの協力者じゃない。薬にも触れてた」
「いや、もっと深いかもな」
カナンが机の下を覗き込み、ひとつの布切れをつまみ上げた。
黒い布だ。
水車小屋で見つけたものと、ほとんど同じ質感。
「おいおい」
カナンが鼻を鳴らす。
「分かりやすすぎるだろ。隠す気あんのか」
「それだけ急いでたんだと思う」
ルークが言うと、リーナが強く唇を噛んだ。
「……私、気づけなかった」
「リーナさん」
「毎日顔を合わせてたんです。東部の件だって一緒に書類を回してた。なのに……!」
その声には、怒りより先に、自分への悔しさがあった。
ルークは少しだけ迷ったあと、言葉を選んだ。
「気づけないようにしてたんだと思う」
リーナが顔を上げる。
「え?」
「本当に怪しい人なら、もっと分かりやすく嫌な感じが出てたはずです。ずっと近くにいられたってことは、ちゃんと“普通の人”をやってたんじゃないかな」
それは慰めではなく、本心だった。
人を騙すのがうまい相手を、騙された側だけ責めても仕方ない。
「……ルークさん」
「今は、自分を責めるより先に追わないと」
レイナも静かに頷いた。
「はい。マルクさんを逃がしたら、もっとひどいことになるかもしれません」
その一言で、リーナの目に少しだけ力が戻る。
「……そうですね」
◇ ◇ ◇
「こっちだ」
カナンが低く言った。
机の横、帳簿棚の裏へ回り込み、床に膝をつく。
「足跡?」
ルークがしゃがむ。
「それもあるけど、匂いだな」
床板の隙間に、薄く泥が擦れている。
そして、その先の壁際には、小さな扉があった。
普段は物置用にしか見えない、低い木戸だ。
「こんなのあったんだ」
ルークが言うと、リーナが目を見開いた。
「え、そこ、掃除道具入れじゃ……」
「掃除道具にしては、最近使われすぎだろ」
カナンが戸の縁を指でなぞる。
木の削れ方が新しい。
しかも、取っ手の内側にだけ黒い粉がついていた。
「外からより、中から開けた跡が多い」
「つまり、逃げ道?」
レイナが聞く。
「その可能性大」
ルークは木戸に手をかけた。
鍵はかかっていない。
そっと開くと、細い通路が続いていた。
古い搬入路か、排水路を後から広げたものか。
大人一人がやっと通れるくらいの狭さだ。
暗い。
湿っている。
そして、奥から微かに夜風が流れてくる。
「外へ抜けてる」
ルークが言う。
「っぽいな」
カナンが笑う。
「王都の裏道、やっぱり面白い」
「面白がらないで」
「面白がらないとこういう道やってられないだろ」
「それはちょっと分かります……」
レイナまで小さく言ったので、ルークはそちらを見た。
「分かるの?」
「少しだけです」
「そっちまで染まらないでくれよ」
「誰に言ってるんだ?」
「多分、君」
カナンが肩を揺らした。
◇ ◇ ◇
通路へ入る前、リーナがルークの袖を軽く掴んだ。
「ルークさん」
「うん?」
「……見つけたら、どうしますか」
その問いは、すごく静かだった。
でも、重かった。
“敵”なら捕まえるで済む。
けれど、相手はついさっきまで同じ詰め所で働いていた補助員だ。
リーナが確認したかったのは、そこだろう。
ルークは少しだけ考えてから答えた。
「できるなら、生きたまま連れて帰る」
リーナの指先が、ほんの少しだけ緩む。
「……ありがとうございます」
「でも」
ルークは続けた。
「向こうが人を傷つけるなら、止める」
「はい」
リーナも、もう迷わなかった。
「それでいいです」
レイナが、そっと横に並ぶ。
「私も同じです」
カナンは短剣を軽く抜いて、刃先を見た。
「じゃあ、決まりだな。逃がさず、殺さず、できれば口も割らせる」
「注文多いな」
ルークが言うと、カナンはにやっと笑った。
「難しい方が燃えるだろ」
「その言い方、ちょっと信用ならない」
「ひどいなあ」
でも、その軽口のおかげで空気は前を向いた。
迷いを抱えたままでも、進める形になった。
ルークは小さく息を吸う。
目の前の狭い通路は、王都の中にあるはずなのに、どこか異世界の入り口みたいに見えた。
マルクはこの先へ逃げた。
そしてきっと、逃げるだけでは終わらない。
「行こう」
ルークが言う。
「はい」
「おう」
三人が狭い通路へ足を踏み入れた、その直後。
外の広間の方から、誰かの叫び声が響いた。
「火だ!」
その一言に、ルークたちは同時に振り返る。
次の瞬間、通路の奥からも、ふっと熱い風が吹き込んできた。
前も後ろも、同時だった。
「……挟まれた」
カナンの声から、軽さが完全に消えた。




