暴れる番犬
ぎし、と重たい音がした。
荷棚の奥、薄暗がりに置かれていた大きな木箱が、内側から押し上げられている。
床に叩きつけられた小瓶の中身が、じわじわと板の隙間へ染み込み、鼻の奥を刺すような苦い臭いを広げていく。
その臭いに呼応するように、箱の中の“何か”が、低く唸った。
ごるるるる……。
喉の奥で石を噛み砕くような、嫌な音だった。
「……っ」
レイナが息を呑む。
ルークも短剣を握り直した。
そして次の瞬間、木箱の天板が内側から吹き飛ぶ。
ばきん、と大きな音を立てて板が弾け、そこから巨大な獣が飛び出した。
「うわっ……!」
カナンが思わず声を漏らす。
狼に似ている。
だが、普通の狼じゃない。
体高は大人の胸ほどもあり、全身の筋肉が不自然に膨れ上がっている。灰色の毛の下には赤黒い血管が浮き、肩から首にかけては、今にも皮膚が裂けそうなくらい盛り上がっていた。
目は赤い。
まともな理性のある生き物の目ではなかった。
しかも首には、錆びた太い鉄輪がついている。
「……番犬って規模じゃないだろ」
カナンが低く言う。
「荷物番に置くにはだいぶ大きいですね……!」
レイナの声も引きつっていた。
それでも二人とも、ちゃんと構えている。
その横で、暗い革服の男が一歩下がった。
「足止めには十分だ」
淡々とした声だった。
「お前――!」
ルークが踏み込もうとするより早く、巨大な魔狼が咆哮した。
ばうっ、と空気を震わせる大音声。
それだけで、部屋の中の木箱がびりびりと鳴る。
そして次の瞬間、魔狼はルークたちではなく、いちばん近くにいた黒外套の男へ飛びついた。
「なっ――ぎゃあああっ!?」
男の悲鳴が、建物の中に響く。
巨大な顎が肩から胸元へ食い込み、そのまま壁際へ叩きつけた。
血が飛ぶ。
黒外套の男がぴくりとも動かなくなった。
「おいおいおい、自分の仲間噛んだぞ!?」
カナンが叫ぶ。
革服の男は、その惨状にも眉ひとつ動かさない。
「制御が甘いな」
「甘いで済ませるな!」
ルークが怒鳴る。
だが男は、こちらを見てほんの少しだけ肩をすくめた。
「どうせ捨て駒だ」
その一言で、ルークの中で何かが切れた。
「レイナさん!」
「はい!」
「中の人たちを先に! カナン、あいつ逃がさないで!」
「了解!」
カナンが床を蹴る。
革服の男もすぐに短剣を抜いた。
鋭く、速い。
だが、その間に魔狼が今度はルークへ向き直る。
「っ……来る!」
四つ足が床板を砕く勢いで踏み込み、一気に距離を詰める。
ルークは足元へ手をかざした。
「収納展開!」
地面に開いた光の口へ、魔狼の前脚が沈む。
だが、それでも止まらない。
巨体が強引に前へ出る。
「重っ……!」
ルークは身体ごと横へ飛んだ。
さっきまでいた場所を、巨大な爪がえぐる。
木片が飛び散る。
「ルークさん!」
「大丈夫!」
言いながらも、正直かなり危なかった。
普通の森犬とは比べ物にならない。
力も、重さも、速さも違う。
その横で、レイナがすでに縛られていた三人の方へ走っていた。
「今、解きます! 少しだけ我慢してください!」
口布を外そうとした瞬間、縛られていた中年の男が必死に首を振る。
「んぐ、んっ!」
「え?」
「どうした!」
ルークが叫ぶと、その男は床の隅を目で示した。
よく見ると、壁際から細い鎖が伸びている。
その先は、魔狼の首輪だ。
ただし、鎖は途中で切られているのではない。
留め金だけが外されている。
つまり――
「……わざと解いたのか」
ルークが低く言う。
革服の男はカナンの短剣を受け流しながら、淡々と答えた。
「ええ。噛み殺す相手は多い方がいいでしょう?」
「性格悪っ!」
カナンが吐き捨てる。
「今ので過去最高に減点です!」
レイナが言い返したが、その手は止まらない。
ルークは、ほんの一瞬だけ状況を見た。
魔狼。
革服の男。
縛られた三人。
そして、建物の外にもまだ敵がいるかもしれない。
全部は追えない。
だから順番を決めるしかない。
「レイナさん、縄は僕がやる!」
「お願いします!」
ルークは三人へ向き直り、手を伸ばした。
「部分収納!」
縄だけを狙う。
光が走り、三人の身体を縛っていた縄が一気に消えた。
自由になった瞬間、若い男が前へ崩れる。
レイナがすぐに支えた。
「大丈夫です、落ち着いてください!」
「げほっ……た、助かった……!」
「まだ終わってません。口布も外しますね」
その間に、魔狼がまたルークへ飛び込む。
今度は真正面だ。
ルークは咄嗟に横の荷棚へ手を向けた。
「収納!」
棚の手前の木箱だけを消す。
支えを失った荷棚が、ぐらりと傾いた。
「おい、それ雑すぎる!」
カナンが叫ぶ。
「使えるものは使う!」
「否定はしないけど雑だ!」
どしゃあっ、と荷棚が魔狼の肩へ倒れ込む。
さすがに完全には止まらない。
だが、一瞬で十分だ。
ルークはその隙に、今度は空中へ小さな収納口を開く。
魔狼の顔、その真正面だ。
獣は咄嗟に身を引く。
「よし」
いくら暴走していても、得体の知れない穴は嫌らしい。
完全に理性が消えているわけじゃない。
「レイナさん、三人!」
「はい、今!」
レイナが頷き、解いた三人を順に集める。
ルークは振り向きざまに声をかけた。
「少しだけ暗いところに移します! 安全ですから、抵抗しないで!」
「な、なんでもいい! 助けてくれ!」
中年の男が叫ぶ。
そのまま一人、二人、三人と《無限インベントリ》の安全区画へ収めていく。
これで外から助けた二人を含めて、五人全員が確保できた。
「全員、入れました!」
「よし!」
ルークが答えたその瞬間、革服の男が一歩引いた。
カナンがすぐに気づく。
「逃がすか!」
「止めはしませんよ」
男はそう言いながら、懐へ手を入れた。
また小瓶だ。
「まだ持ってるのか!」
カナンの投げナイフが飛ぶ。
だが男は半身になってかわし、小瓶を魔狼の足元へ転がした。
ぱりん、と割れる音。
さらに濃い臭いが広がった。
魔狼の赤い目が、また一段階濁る。
「うわ、余計なことすんなよ!」
カナンが本気で嫌そうな声を出した。
ルークも同感だった。
ただでさえ厄介なのに、さらに暴走を煽ったのだ。
魔狼が咆哮し、今度は天井の梁へ頭をぶつけるように暴れた。
木片が雨のように降る。
「建物、保たないかも!」
レイナが叫ぶ。
「ルーク、あいつか狼か、どっち優先だ!?」
カナンが問う。
ルークは一瞬だけ迷い、すぐ決めた。
「あの男は逃がしても次を追える。でも、こいつが暴れたら今ここで死人が出る!」
「了解!」
カナンが即座に向きを変える。
「聞いたか、化け犬! お前が先だってよ!」
「煽らないで!」
レイナの声が飛ぶ。
でも、カナンの軽口があると、逆に緊張で体が固まりすぎずに済む。
ありがたいのか迷惑なのか、ちょうど半々くらいだった。
◇ ◇ ◇
魔狼は完全に理性を飛ばしていた。
床を蹴り、壁を打ち、目につくものすべてへ牙を向ける。
その次の標的がルークだと気づくのに、時間はかからなかった。
「また来る!」
ルークは走る。
正面衝突は無理だ。
でも、こっちは一人じゃない。
「レイナさん、光を!」
「《ライト》!」
眩い球が、魔狼の顔の真横で弾ける。
獣が一瞬だけ目を細める。
その隙にカナンが横から飛び込み、切りつける――のではなく、首輪に残った鎖へ刃を引っかけた。
「ルーク!」
「分かった!」
ルークはすぐにその意図を読んだ。
鎖だ。
まだ床に引きずられている、切れた鎖の長い方。
「部分収納!」
鎖の途中だけを飲み込む。
すると、片側だけ急に短くなった鎖が魔狼の前脚へ絡み、巨体のバランスを大きく崩した。
「今!」
カナンが叫ぶ。
ルークは魔狼の下へ滑り込み、その腹の真下に大きめの収納口を開く。
完全に飲み込むにはまだ足りない。
だが、半身が沈む。
そこでレイナの声が重なった。
「《ライト・スラスト》!」
細い光の槍が、さっきルークが裂いた肩口の傷へ突き刺さった。
魔狼が絶叫する。
その痛みでさらに暴れるが、今度はそれが裏目に出た。
床板が割れ、前脚が深く沈む。
「まだ足りない!」
ルークは歯を食いしばる。
重い。
とにかく重い。
でも、行ける。今なら。
「カナン、押して!」
「了解!」
カナンが背後から、首輪に残った鎖ごと巨体を引っ張る。
「お前、ほんとに収納の使い方が雑だな!」
「うるさい!」
「でも今のは好きだ!」
レイナが、半ば呆れたように叫ぶ。
「こんな会話しながらやることじゃありません!」
それでも、三人の呼吸はちゃんと合っていた。
ルークは最後に、両手を一気に突き出す。
「収納!」
光が、魔狼の全身を包む。
巨体が半ば沈み、爪が床板を引っかき、最後に赤い目がぎらりとこちらを睨んだ。
そのまま、音もなく《無限インベントリ》の中へ消えた。
静寂。
荒い呼吸だけが残る。
◇ ◇ ◇
「……終わった?」
レイナが、やっと声を出す。
「たぶん」
ルークも息を切らせながら答える。
そしてすぐに周囲を見た。
革服の男は――いない。
「逃げたか……」
カナンが舌打ちした。
建物の奥、割れた窓の一つが開いている。
あそこから出たのだろう。
「でも」
ルークは床に落ちていたものを拾い上げる。
さっきの乱戦で、男の腰から外れたらしい革の小片だった。
丸い留め具がついている。
その裏側には、見覚えのある刻印があった。
「これ……」
ルークの声に、レイナとカナンが覗き込む。
「王都の……救援補助札?」
レイナが目を見開く。
リーナたちが東部詰め所で使っていた、補助員用の通行札にそっくりだった。
「偽物かもしれないけど」
ルークが言う。
「でも、少なくとも王都側の仕組みを知ってる人間だ」
「中にいるな。かなり近い場所に」
カナンが低く言う。
その時、建物の外から短い笛の音が響いた。
リーナたちだ。
合図石の光を見て、詰め所側が動いたのだろう。
「助かった……」
レイナがその場にへたり込みそうになる。
ルークは慌てて支えた。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫です。ちょっと足にきただけで……」
「ちょっとじゃなさそうだけど」
「ルークさんも顔色よくないです」
「それは……否定できない」
そこへ、カナンが窓の外を見ながら言った。
「お前ら、今のやり取りちょっと夫婦っぽいぞ」
「は!?」
「何言ってるんですか!?」
二人の声が綺麗に重なって、カナンがにやっと笑う。
「その揃い方がもうそうなんだよな」
「今それ言う!?」
「今だからだろ。大仕事終わった直後だぞ」
レイナの顔が一気に赤くなる。
ルークも別の意味で動揺して、うまく言い返せない。
そこへ、建物の扉が勢いよく開いた。
「ルークさん!」
リーナだった。
その後ろには衛兵とギルド職員が何人もいる。
ルークは思わず、ほっと息を吐いた。
「こっちは無事です! 捕まってた人も全員確保しました!」
「よかった……!」
リーナの表情が一気に緩む。
でも、その目はすぐに机の上や床の散乱した薬箱、そして割れた窓へ向いた。
「……逃げたんですね」
「うん。でも、これが落ちてた」
ルークは、救援補助札に似た革片を見せた。
リーナの顔が変わる。
「それ……」
彼女は近づき、じっとそれを見た。
そして、はっきりと息を呑む。
「偽物じゃありません」
「え?」
ルークが聞き返す。
リーナは、かすかに震える声で言った。
「これ、中央本部が東部支援用に切った、本物の補助札です」
建物の中が、しんと静まり返った。
本物。
つまり、ただ似せたんじゃない。
正規の通行札が、敵の手に渡っている。
「……中にいるってレベルじゃないな」
カナンが低く呟く。
「かなり深いぞ、これ」
ルークは、手の中の革片を見つめた。
火事も、荷車も、運ばれていた人たちも、全部ひとつに繋がっている。
そして今、その線は王都の中枢へ、確実に近づき始めていた。




