戻っていく流れ
水門の上を吹き抜ける風は、ひどく冷たかった。
ルーク・フレイアスは、レイナの手の中にある濡れたメモを、もう一度見つめた。
次の搬送先――王都。
ベルクハイムから外へ流れていく話だと思っていた線が、今度は逆に王都へ戻ってきている。
その事実が、胸の奥に重く沈んだ。
「……王都って、どういうことだよ」
カナンが小さく吐き捨てる。
普段は軽口の多い彼の声にも、今はさすがに戸惑いが滲んでいた。
「ラウネスへ送る流れじゃなかったのか?」
「帳面にはラウネスってあった。でも、このメモは王都になってる」
ルークが答えると、ナディアが険しい顔でメモを受け取った。
「急な予定変更か、もともと複数の流れがあるのか……」
「どっちでも、ろくな話じゃないですね」
レイナが低く言う。
その声は静かだったが、はっきり怒っていた。
攫われた人。
薬箱。
異常個体。
そして王都。
ひとつずつならまだ分からなくても、ここまで重なれば嫌でも見えてくる。
誰かが、意図して動かしている。
◇ ◇ ◇
「それより、まずこれ」
レイナがくるりと振り向いて、カナンの左肩を見た。
さっきの小舟の上で切られた傷だ。
本人は「浅い」と言い張っていたが、布の上からでも血が滲んでいるのが分かる。
「え、今?」
「今です」
「いや、追うなら今のうちじゃ――」
「今です」
ぴしゃりと二度言われて、カナンが黙った。
その様子に、ルークは思わず少しだけ笑ってしまう。
「……なんだよ」
「いや、レイナさんに怒られてるカナン、ちょっと珍しいなって」
「嬉しそうに言うな」
「自業自得です」
レイナはそう言いながらも、手際よく傷口を布で押さえる。
淡い光が肩を包む。
「うっ……しみる」
「しみる程度で済んでるなら良かったです」
「王都の回復役、厳しくないか?」
「優しいですよ」
「その反応で優しいって言われるの、怖いんだけど」
言いながらも、カナンは大人しく治療を受けていた。
こういうところは案外素直だ。
ナディアがそれを見て、ふっと息を吐く。
「……よかったわ。動けるわね」
「誰に言ってる?」
「もちろん、あなたにもよ」
「受付嬢にまでそう言われるのか、俺」
「日頃の行いじゃない?」
ナディアの即答に、ルークはつい吹き出しかけた。
張りつめた空気の中で、こういうやり取りがあると少しだけ呼吸が戻る。
でも、戻りすぎてはいけない。
今夜は、まだ終わっていない。
◇ ◇ ◇
ベルクハイム支部へ戻ると、支部の中はまだ明るかった。
夜更けだというのに、いや、夜更けだからこそ灯りが消えていない。
北の旧船着き場での収穫は、すぐに小部屋へ持ち込まれた。
メモ。
水運組合の金属札。
そして、救い出した若い女。
女は診療台に寝かされ、ハロルドが脈と呼吸を見ている。
「命に別状はない」
老人はいつも通りぶっきらぼうに言った。
「薬で眠らされていたのと、疲労だ。じきに起きる」
それを聞いて、ルークは少しだけ肩の力を抜いた。
助け出したのに、そのあとで手遅れになるのは嫌だった。
「金属札はどう?」
ナディアが机の端に置かれたそれを指差す。
ミハイルが確認したあと、渋い顔で頷いた。
「ベルクハイム水運組合の補助荷役証です。正規のものに間違いない」
「偽造ではない?」
「少なくとも、表面の刻印は本物です」
部屋の空気がまた少し重くなる。
街の外から紛れ込んだだけじゃない。
街の中に、確実に手が入っている。
「……面倒ね」
ナディアが低く言った。
「外の敵なら切り分けやすい。でも中にいるとなると、一気に話がややこしくなる」
「それでも、分かっただけマシです」
ルークが言うと、ナディアは少しだけ目を上げた。
「そう?」
「正体が見えないまま殴られるより、どこかに繋がってるって分かる方が、まだ追える」
それは本心だった。
東部の時もそうだった。
何かがおかしい、としか分からない時が一番怖い。
けれど今は、少しずつ線が見えてきている。
ベルクハイム。
ラウネス。
そして王都。
◇ ◇ ◇
しばらくして、診療台の女が小さく息を漏らした。
レイナがすぐに身を乗り出す。
「気がつきましたか?」
女はゆっくりと目を開けた。
少しだけ焦点が揺れたあと、見知らぬ天井を見上げて、びくっと肩を震わせる。
「ここは……」
「ベルクハイム支部です」
レイナがやわらかく答える。
「もう大丈夫です。あなたを運んでいた小舟は止めました」
その言葉に、女の目が大きく見開かれた。
「止めた……?」
「はい」
ルークも一歩近づく。
「名前、聞いてもいい?」
女は唇を少しだけ湿らせてから、かすれた声で答えた。
「……リゼ」
年は二十歳前後だろうか。
痩せてはいるが、服の質は悪くない。
ただの浮浪者や行き倒れではない感じがする。
「リゼさん、何があったんですか?」
ナディアが真っ直ぐに尋ねる。
リゼは一瞬だけ目を閉じた。
記憶を整理しているのだろう。
やがて、細い声で言う。
「ラウネスから……逃げてきました」
部屋の空気がぴたりと止まった。
「ラウネスから?」
ルークが聞き返すと、リゼはゆっくり頷く。
「私は、ラウネスの荷役帳場で帳面付けをしてました。……水路の荷を記録する仕事です」
その説明だけで、みんなの顔色が変わる。
それはつまり、運ばれていたものを見られる立場にいたということだ。
「最初は、おかしいと思っただけでした」
リゼは震える手を握りしめる。
「届くはずのない荷が届く。帳面に載らない箱がある。……それだけなら、見なかったことにもできた」
「でも、できなかった」
レイナが静かに言う。
リゼは、小さく頷いた。
「箱の中に、人が入ってたんです」
ルークの背中に冷たいものが走る。
「生きてる人も、死んでる人もいました。……それで、怖くなって、帳面を一部だけ写して逃げました」
「その写しが、あのメモ?」
ナディアが机の上の紙を見やる。
「はい。行き先と、受け渡しの印だけでも持っていけば、どこかで止められるかもしれないって……」
リゼの目に、涙が滲んだ。
「でも、見つかって……ベルクハイムまで来たところで捕まって……」
そこから先は、水車小屋と小舟の流れに繋がるのだろう。
カナンが腕を組んだまま、珍しく真面目な声で聞く。
「で、その帳面の写しに“王都”があったのか」
「ありました」
リゼは、はっきり言った。
「最初はラウネスだけだと思ってた。でも違った。……王都に流す便もあるんです」
ルークは、思わず拳を握った。
やっぱりだ。
王都は無関係じゃない。
最初から線の中にいた。
◇ ◇ ◇
「どこへ流すの?」
ナディアが問う。
リゼは少しだけ迷って、それから答えた。
「毎回違います。でも……今度の便は、王都東側の外れに入るはずです」
東側。
ルークとレイナの顔色が同時に変わる。
王都東部。
修道院。
異常個体。
無関係で済ませられる場所じゃない。
「細かい場所は?」
ルークの声が、少しだけ低くなった。
リゼは首を横に振る。
「そこまでは……。ただ、“東の古い集積場”って書いてありました」
集積場。
物資を集めて仕分ける場所。
ルークの《無限インベントリ》とは真逆の、物を溜めて流す場所だ。
「……嫌な言い方ね」
ナディアが吐き捨てる。
「人も薬も、全部荷物扱いってことじゃない」
部屋の空気がまた冷えた。
でも、やるべきことははっきりした。
「三日後を待つ必要はないですね」
レイナが言う。
「相手はもう動いてる。しかも王都に向けて」
「うん」
ルークも頷く。
「このままベルクハイムだけ見てても遅れるかもしれない」
その時、カナンがふいに口を開いた。
「なあ」
「うん?」
「それ、王都まで行くんだよな」
「……たぶん」
「じゃあ、俺も行く」
あまりにも自然な言い方だったので、ルークは一瞬意味を取り損ねた。
「え?」
「いや、だから。王都まで」
「そんな簡単に言う?」
ルークが思わず返すと、カナンは肩をすくめた。
「簡単じゃない。でも、ここまで見ちまったしな。ベルクハイムの水路使ってる連中なら、こっちの人間が一人いた方がいいだろ」
「それは……」
正論だった。
しかも、カナンは道と水路に強い。
今までの動き方を見ても、旅の相性はかなりいい。
レイナが、少しだけ嬉しそうな顔で言う。
「私は、すごく助かります」
「お、回復役に好かれた」
「そういう言い方をすると少し減点です」
「減点制なの?」
その返しに、ルークもナディアも少しだけ笑ってしまった。
重い話の中で、そのやり取りは妙に救いになった。
たぶん、こういう感じなのだ。
旅の途中で仲間になる人というのは。
最初から大げさな誓いを立てるんじゃなくて、気づいたら同じ方向を向いている。
◇ ◇ ◇
ナディアはその様子を見て、ふっと息を吐いた。
「……いいわ。カナン、あなたは《星灯の止まり木》の補助同行扱いで動いて。正式な手続きはあとで」
「お、話が早い」
「ただし」
ナディアの目が細くなる。
「勝手に死にかけたら減点どころじゃ済まないわよ」
「そっちも減点制なのか……」
カナンがぼやく。
レイナが思わず吹き出し、ルークも肩の力が抜けた。
だが、その直後。
小部屋の扉がまた勢いよく開いた。
「ナディアさん!」
飛び込んできた若い職員は、顔色を変えていた。
「今度は何?」
「王都からの早馬です!」
「王都から?」
職員は息を切らせたまま、封の切られた書簡を差し出す。
「中央本部経由で届きました! 東部で、また異常個体が出たそうです! しかも――」
職員の喉が、ごくりと鳴った。
「修道院跡の近くで、今度は“荷車ごと人が消えた”って……!」
その一言で、部屋の空気が完全に変わった。
ベルクハイムから王都へ戻る流れ。
王都東側の外れ。
異常個体。
消えた人。
線が、もう偶然では言い逃れできないほどに重なった。
ルークは、机の上のメモと王都からの書簡を見比べる。
次に向かう先は、もう迷う余地がなかった。




