水門へ走れ
赤い目が、水面の黒い濁りの中でいくつも揺れていた。
《咬み沼ガル》。
水辺に棲む小型魔物だ。
本来なら群れで人を襲うほどの気性ではない。
だが今、こちらを見上げるその目は、昨夜の森犬たちと同じ色をしていた。
「うわ、ほんとに最悪だ……!」
カナンが板道の上で足を止める。
そのすぐ横を、最初の一匹が水を蹴って飛び上がった。
「来る!」
ルークは反射的に手を前へ出した。
「収納展開!」
板道の縁、ちょうどガルが跳び出す先に光の口が開く。
魚に近いぬめった体が、そのまま半身ごと飲み込まれた。
ばしゃっ、と水だけが残る。
「一匹!」
「便利すぎるだろ、それ!」
カナンが叫ぶが、文句を言っている余裕はない。
二匹目、三匹目が続けざまに飛ぶ。
ルークが身をひねって一匹をかわし、カナンの短剣が横から一閃した。
ぬるりとした血が板に散る。
「気持ち悪っ!」
「戦いながら言うことじゃない!」
ルークが返すと、カナンは舌打ちしながら次の一匹を蹴り落とした。
「いや、今のは言わせろよ!」
その横で、レイナが杖を向ける。
「《ライト》!」
小さな光球が水面すれすれで弾けた。
ぎらついた赤い目が一斉に細まる。
光に弱いのか、ガルたちの動きがわずかに鈍る。
「今です!」
「うん!」
ルークは足元に転がっていた木箱の蓋を蹴り上げ、飛びかかってきた一匹の顔へ叩きつけた。
その一瞬に合わせて、今度は空中へ小さな収納口を開く。
ばちん、と音を立てて消えたのは、ガルの頭だけではなく――
「……袋?」
水面に浮いていた、黒い染みの出どころらしい裂けた袋まで一緒に飲み込んでいた。
苦い薬臭さが鼻を刺す。
やっぱりだ。
わざと撒いている。
「ルーク、後ろ!」
カナンの声。
振り向くと、一匹が板道の下から這い上がり、ユリスへ飛びつこうとしていた。
「うわっ!」
ユリスが抱えていた魚籠を咄嗟に前へ突き出す。
がるるるっ、とガルがそれに食いついた。
「い、今だろ!?」
「よくやった!」
ルークは即座に拘束網を投げる。
魚籠ごとガルを絡め取り、カナンの刃がそこへ突き刺さった。
短い悲鳴。
それで群れの勢いが少しだけ落ちる。
「ユリス、下がって!」
レイナが叫ぶ。
「で、でも――」
「いいから!」
珍しく強い声だった。
ユリスはびくっとしつつも、すぐに壊れた石積みの陰へ駆け込む。
「……レイナさん、今ちょっと怖かった」
「今はそういう話してる場合じゃありません!」
その返しに、ルークもカナンも言い返せなかった。
たしかにその通りだった。
残るガルは四、いや五。
だが、こちらも流れを掴み始めている。
「レイナさん、もう一回目くらましできる?」
「できます!」
「カナン、右の二匹お願い!」
「注文多いな!」
「できる?」
「できるから腹立つ!」
軽口と同時に、レイナの光が再び水面で弾ける。
ひるんだ群れへ、カナンが板道を滑るように走った。
右手の短剣、左手の投げナイフ。
その動きは完全に斥候のそれだ。
一匹の目を潰し、もう一匹の背へ刃を入れる。
ルークはその隙に、正面の二匹へ連続して収納口を開いた。
水面すれすれ。
板道の下。
さらに石積みの切れ目。
逃げ場を潰されたガルが、次々に光へ沈む。
最後の一匹は、さすがに危険を察したのか、濁った水をかき回しながら闇の奥へ逃げていった。
あとに残ったのは、濁りの広がる水面と、荒い呼吸だけだった。
◇ ◇ ◇
「……はぁ……」
カナンが短剣の血を払う。
「朝から水の魔物に囲まれるとか、ベルクハイム観光って感じじゃねえな」
「だから観光じゃないって」
ルークが言うと、ユリスが石積みの陰から顔を出した。
「お、お前ら強いな……」
「魚籠で時間稼いだ君もだいぶ変だよ」
ルークが返すと、ユリスは少しだけむっとした。
「とっさに手元にあったのがそれだったんだよ」
「それでも十分助かった」
レイナがそう言って、ほっとしたように笑う。
ユリスは少しだけ耳を赤くして、ふいっと視線を逸らした。
その横で、カナンが水路の先を睨む。
「まずいな」
「船?」
「うん。追いつける距離だったのに、これで少し離された」
ルークも水面を見る。
黒い小舟は、もう朝靄の向こうへ半ば隠れかけていた。
だが、まだ見失ったわけじゃない。
「水門までなら先回りできる?」
「できる」
即答だった。
「この先の石段を上がれば、水門の上を通る見張り道に出る。あいつらが水路を抜けるなら、そこが細くなる」
「じゃあ走ろう」
ルークが言うと、ユリスがすぐに手を挙げた。
「俺も行く!」
「だめ」
ルークとレイナの声が綺麗に重なった。
ユリスが目を丸くする。
「なんでだよ!」
「危ないから」
「危なくなかったことなんて今まで一度もなかっただろ!」
言い返されて、ルークは一瞬詰まった。
その返しは、妙に説得力がある。
だが、だからといって連れていくわけにもいかない。
「ユリス」
レイナがしゃがみ込み、目線を合わせる。
「さっき助けてもらったから、今度はお願いを聞いてください」
ユリスがむっとした顔のまま、でもちゃんと聞く体勢になる。
「ベルクハイム支部に戻って、ナディアさんへ伝えてほしいんです。小舟を追って水門へ向かったって」
「……それだけ?」
「それが今、一番大事です」
レイナの言葉はまっすぐだった。
ユリスは少しだけ悔しそうに唇を噛んだが、やがて小さく頷く。
「分かった」
「助かる」
ルークが言うと、ユリスは照れ隠しみたいに鼻を鳴らした。
「ちゃんと捕まえろよ」
「頑張る」
その返事を聞くなり、ユリスは街の方へ駆け出していった。
小柄なのに、足はかなり速い。
ルークはその背を見送り、それからカナンを見る。
「案内、お願い」
「任せろ」
◇ ◇ ◇
石段は急だった。
夜露と川霧で濡れていて、足元が滑る。
だが止まれない。
カナンが先頭を切り、ルークとレイナが続く。
水路の流れは右手。
その先に、水門の黒い影が少しずつ見え始めた。
「見えた!」
カナンが叫ぶ。
石の水門は半分ほど閉じられていて、水の流れがそこへ集まっている。
小舟はその狭い通り道へ向かっていた。
船首には黒い外套の男。
船尾にはもう一人。
そして中央には、細長い木箱が二つと――
「……人だ」
ルークが息を呑む。
布でくるまれているが、たしかに人の形だ。
横たわったまま、動かない。
「くそっ……!」
カナンが歯を食いしばる。
「間に合えよ!」
水門の見張り道は、ちょうど小舟の真上へつながっていた。
ルークは走りながら《無限インベントリ》の感覚を広げる。
狙える距離か。
いける。
「ルークさん!」
レイナが声を上げた。
小舟の船首にいた黒外套の男が、こちらに気づいたのだ。
男はすぐに腰の袋へ手を入れる。
小瓶だ。
「またあれを――!」
「させない!」
ルークは足を止めず、片手を突き出した。
「任意座標展開!」
男の手元、その真横の空中に小さな収納口が開く。
小瓶が投げられるより早く、男の指先からすべり落ちたそれが光へ消えた。
「なっ――」
さすがに相手も驚いたらしい。
その一瞬の隙を、カナンは見逃さない。
見張り道の柵を蹴って、真下の小舟へ飛び降りた。
「っ、馬鹿!」
ルークが思わず叫ぶ。
「今さら!」
カナンは叫び返しながら、船尾の男へ蹴りを叩き込む。
小舟が大きく揺れた。
船尾の男はよろめきながらも刃物を抜く。
船首の男もすぐに体勢を立て直した。
「レイナさん、箱!」
「はい!」
レイナの光が、細長い木箱の固定縄を照らす。
ルークはそこだけを狙って収納口を開いた。
縄が消える。
箱が傾く。
そのまま水へ落ちる――
「収納!」
落下する直前で、木箱ごと《無限インベントリ》へ収める。
残る布包みの人影は一つ。
だが、その間にも船尾ではカナンが一人でやり合っている。
「ちょ、数の差を考えろよ!」
そう叫びながらも、ちゃんと避けて、刃を捌いているあたりがなんともカナンらしい。
船首の男が、今度は小舟そのものを岸へぶつけようと棹を押し込んだ。
「逃がさない!」
ルークは見張り道の端から身を乗り出し、船の前方へ収納口を開く。
水面ごと飲み込むような大口ではない。
けれど、船首のすぐ前の水流が一瞬だけ消えたことで、小舟のバランスが大きく崩れた。
「今!」
レイナの光が、船首の男の目を焼く。
男が怯む。
そこへ、カナンの投げナイフが一直線に飛んだ。
腕に刺さる。
男の手から棹が落ちた。
小舟が水門の石壁へ斜めにぶつかり、どん、と重い音を立てる。
その衝撃で、布包みの人影が転がった。
「ルークさん!」
「分かってる!」
ルークはもう迷わなかった。
「収納!」
今度は布包みの人影だけを安全区画へ収める。
これで、最低限守るべきものは確保した。
その瞬間、船首の男が低く舌打ちし、懐から何か丸いものを取り出した。
「煙!」
カナンが叫ぶ。
次の瞬間、灰色の煙が狭い水門の上へ一気に広がった。
「げほっ……!」
視界が消える。
船板の軋む音。
水を蹴る音。
誰かが飛び移る気配。
そして、鋭い金属音が一度だけ響いた。
◇ ◇ ◇
煙が流れた時、そこにいたのは一人だけだった。
カナンだ。
小舟の中央で片膝をつき、肩で息をしている。
「……逃げられた」
悔しそうな声だった。
船首にも船尾にも、もう人影はない。
水門の石壁に、縄が一本垂れている。
上流側の暗がりへ、そこから逃げたのだろう。
「カナン、怪我!」
レイナがすぐに見張り道から降りようとする。
「浅い!」
カナンが言うが、その左肩には赤い線が走っていた。
「浅くても診せてください!」
「はいはい、分かったって」
その返事に少しだけ安心しながら、ルークは船へ飛び降りた。
残っているのは、空になった木箱一つと、黒外套の切れ端、それから――
「……これ」
船板の上に、金属札が落ちていた。
細長い真鍮の札。
鎖で首から下げるものらしい。
表には番号。
裏には刻印。
「どうした?」
肩を押さえたカナンが覗き込む。
ルークは、その刻印を見た瞬間、言葉を失った。
見覚えがある。
ベルクハイム支部で見た、人夫たちの荷札や通行証に刻まれていた印に、よく似ていたからだ。
「ベルクハイムの……水運組合?」
ルークが呟く。
カナンの顔から、冗談っぽさが消えた。
「……まじかよ」
つまり、ただ街に紛れ込んでいるだけじゃない。
水路を使う人間の中に、直接関わっている者がいる。
しかも、かなり深いところまで。
その時、レイナが息を呑んだ。
「ルークさん!」
「え?」
「包みの人、女の人です!」
ルークは一瞬でそちらへ向く。
見張り道の上、安全区画から出された布包みの中には、若い女がいた。
手首に縄の痕。
意識はない。
だが、まだ生きている。
そして、その腰には小さな革袋が結びつけられていた。
レイナがそれを外し、中を覗く。
「……紙?」
取り出されたのは、濡れないよう蝋で封をしたメモだった。
レイナが封を切り、目を通す。
その瞬間、顔色が変わる。
「どうしたの?」
ルークが聞くと、レイナはかすかに震える声で答えた。
「これ……ラウネスじゃありません」
「え?」
「次の搬送先……王都です」
水門の上を、冷たい風が吹き抜けた。
ベルクハイムから外へ運ぶだけじゃない。
流れは、また王都へ戻っている。
それが何を意味するのか。
まだ、はっきりとは分からない。
でも一つだけ、確かなことがあった。
この異変はもう、点ではない。
街と街をつなぐ水路のように、どこか大きな流れになって動いている。




