北の旧船着き場
ベルクハイムの夜が、ようやく朝へほどけ始めていた。
けれど、ギルド支部の中にいるルークたちには、まだ“朝が来た”という実感がなかった。
長い夜だった。
水車小屋を押さえ、地下室から人を助け出し、薬箱の流れとラウネスの名を掴んだ。
そこへさらに、北の旧船着き場という新しい場所まで浮かび上がったのだ。
「少しだけでも座って」
ナディアが有無を言わせぬ声で言った。
差し出されたのは、硬めのパンと、熱い薬草茶だった。
「……今から動くんじゃないんですか?」
ルークが聞くと、ナディアは半目になった。
「動くわよ。でも、空腹で倒れられたら困るの。支援組っていうのは、そういうところまで込みで仕事でしょう?」
「それは、そうですけど」
「じゃあ食べる」
ぴしゃりと言われ、ルークは素直にパンを受け取った。
横ではレイナも、両手で湯気の立つ杯を持っている。
「温かい……」
その一言に、ナディアの口元が少しだけ緩んだ。
「支部の裏に小さい薬草畑があるの。眠気覚まし用」
「受付嬢が自前で育ててるんですか」
カナンが呆れたように言う。
「何でもできるんだな、ベルクハイムの受付」
「何でもじゃないわ。足りないから、自分で増やしてるだけ」
その返しが妙に自然で、ルークは少しだけ笑ってしまった。
こういう人なのだろう。
足りないものを見たら、文句より先に埋めにいく。
リーナとはまた違うが、同じ方向の強さを感じる。
「で、どう動く?」
カナンがパンを齧りながら聞く。
ナディアはすぐに地図を広げた。
「今から大人数で北の旧船着き場へ行けば、相手に気づかれる可能性が高い。だから先に動くのは少人数」
その指が、地図の北側を叩く。
「ルーク、レイナ、カナン。この三人で先行」
「ナディアさんは?」
レイナが尋ねる。
「私は支部に残る。人夫の点呼と、昨夜襲われた倉庫の聞き取りを詰める。ここを空ける方が危ない」
ミハイルも頷いた。
「こちらで北門側の警備兵にも話を通します。もし船着き場で何か見つけたら、すぐ合図を」
ルークは地図を見た。
北の旧船着き場。
街の外れ、水路沿いの古い荷揚げ場。
水車小屋が“作業と保管”の場所だったなら、こちらは“積み出し”の場所かもしれない。
「分かりました」
「気をつけて」
ナディアは短く言ってから、ルークたち三人を順に見た。
「……あと、カナン」
「ん?」
「今朝は余計な格好つけ禁止」
「最初から無理難題きたな」
「できるでしょ」
「できる男にだけ言うやつだ、それ」
その軽口に、レイナが小さく笑う。
緊張はある。
でも、ちゃんと息もできていた。
◇ ◇ ◇
ベルクハイムの朝は、王都より少しだけ早かった。
北へ向かう途中、すでに店を開ける準備をしている商人や、水路沿いで網を繕っている漁師の姿が見える。
水の街に近いからか、路地の空気もどこか湿っていた。
「ラウネスって、もっと水路の多い街なんだよな?」
歩きながらルークが聞くと、カナンが頷いた。
「ベルクハイムの比じゃない。川と運河だらけ。船で物を動かすなら、あっちは便利すぎるくらい便利だ」
「だから搬送先に選んだ……?」
「そうかもな」
カナンは前を見たまま言う。
「街ひとつじゃなく、流れそのものを使ってるなら、厄介だぞ」
ルークはその言葉を胸の中で反芻した。
王都東部だけの事件じゃない。
ベルクハイムも途中で、さらに先へ続いている。
それはつまり、《星灯の止まり木》の旅も、この先もっと遠くまで伸びるかもしれないということだ。
けれど今は、そこまで考えすぎない。
まずは目の前の船着き場だ。
「止まって」
カナンが低く言った。
全員が足を止める。
北の旧船着き場は、石積みの低い壁と、半ば崩れた屋根付きの荷場が残るだけの場所だった。
今はもう使われていないはずの場所。
だが、そうは見えなかった。
「……足跡が新しい」
カナンがしゃがみ込む。
「人、二人。いや三人分。あと車輪跡」
ルークも目を凝らした。
昨夜の臨時倉庫の裏手で見たものと似ている。
細い手押し車の跡。
それが、水辺の方へ向かっている。
「船をつけてた?」
レイナが聞く。
「たぶん」
カナンが顎で水面を示した。
杭に結ばれていたはずの古いロープが、新しいものに替えられている。
しかも、まだ濡れている。
「今朝まで使ってたな」
ルークが低く言う。
古い荷場の中へ入ると、床には木屑と泥が散っていた。
壁際に積まれた空箱のひとつを開ける。
中には藁と、割れないよう包まれていた跡が残っている。
「薬箱のサイズだ」
ルークが言うと、レイナの表情が引き締まる。
「じゃあ、ここまで運び込まれてたんですね」
その時だった。
荷場の奥、水面に近い板張りの陰から、がたん、と小さな音がした。
三人の視線が一斉に向く。
「誰かいる」
カナンが短剣を抜き、低い姿勢で近づいていく。
ルークも横へ回り込んだ。
「出てきて」
静かに、でもはっきり声をかける。
返事はない。
代わりに、ばさっと板の陰から小さな影が飛び出した。
「うわっ」
ルークが思わず声を上げる。
子ども――ではない。
十代半ばくらいの、痩せた少年だった。
ぼさぼさの髪に、サイズの合っていない上着。
腕には魚籠を抱えている。
少年はルークたちを見るなり、ぱっと逃げようとした。
だがカナンの方が一枚上だった。
ひょい、と襟首を掴まれて、その場で止まる。
「待て待て待て。朝っぱらから何やってんだ」
「は、離せよ!」
「逃げるからだろ」
「逃げるに決まってるだろ、怪しいやつら!」
「いや、お前の方がよっぽど怪しい」
カナンの返しに、ルークは少しだけ力が抜けた。
たしかにその通りだ。
「カナンさん、ちょっと怖いです」
レイナが小声で言う。
「え、今の俺が?」
「今の俺が、って確認するあたりが少し怖いです」
「傷つくなあ……」
少年はそのやり取りを見て、少しだけ勢いをなくしたらしい。
それでも睨むように言う。
「お前ら、倉庫荒らしの仲間じゃないのか」
ルークたちは顔を見合わせた。
「違うよ」
ルークができるだけ穏やかに答える。
「僕たちはベルクハイム支部から来た」
「ギルド?」
「うん」
「証拠」
ずいぶん疑い深い。
けれど、この場所に隠れていたのなら、それも無理はない。
ルークがギルドカードを見せると、少年は目を細めてそれを見た。
「……本物っぽい」
「っぽい、かあ」
ルークが苦笑すると、カナンが肩をすくめる。
「まあ、こいつの反応は普通だろ」
少年はようやく少し落ち着いたのか、腕の力を抜いた。
「……俺、ユリス。ここで変なやつ見たから、見張ってた」
「変なやつ?」
レイナが一歩近づく。
ユリスはこくりと頷いた。
「夜明け前。黒い服のやつが二人、船で来た。箱を運んで、そのあと別の船に積み替えてた」
「どっちへ行った?」
カナンが問う。
ユリスは水路の先を指さした。
「北門の外。大きい水門の方」
ルークの胸がざわつく。
北門外れの納屋。
そして旧船着き場。
さらに水門。
線がつながってきた。
「他に見たものは?」
ルークが聞くと、ユリスは少しためらってから言った。
「……ひと、いた」
「人?」
「箱じゃない。布でくるまれてたけど、足が見えた。たぶん、大人」
レイナの表情が強張る。
「人も運んでる……」
「そいつ、生きてたか?」
カナンの問いに、ユリスは首を振った。
「分かんない。動かなかった」
嫌な沈黙が落ちる。
薬だけじゃない。
人も一緒に動かしている。
それがもう、はっきりした。
◇ ◇ ◇
その時、水路の先から、かすかに鐘の音が聞こえた。
からん、からん、と二回。
カナンの顔色が変わる。
「合図だ」
「何の?」
ルークが聞く。
「水門番の交代鐘じゃない。小舟同士で位置知らせに使うやつだ」
ユリスもぱっと顔を上げた。
「今の、さっきのやつらも鳴らしてた」
ルークたちは一斉に水路の先を見る。
朝靄の向こう、川幅が少し広くなるあたりに、黒い影がひとつ滑っていた。
細長い小舟だ。
船尾に立つ人影が、こちらへ一度だけ振り返る。
距離がある。
顔は見えない。
だが、黒い外套だけははっきり見えた。
「……いた」
ルークが低く言う。
カナンはもう走り出していた。
「追うぞ!」
「待って、足場が悪い!」
レイナが言う間もなく、カナンは水路沿いの板道を駆ける。
ルークもすぐに後を追った。
小舟はまだ遠くない。
今なら追いつけるかもしれない。
だがその瞬間、船尾の黒い影が何かを投げた。
小さな袋だ。
それが水面へ落ちたかと思うと、次の瞬間――
ぼん、と鈍い破裂音がして、水が黒く濁った。
「なにっ!?」
ルークが足を止める。
濁りの中から、いくつもの赤い目が浮かび上がった。
魚じゃない。
水辺に棲む小型魔物――《咬み沼ガル》だ。
しかも、どれも目が異様に赤い。
「うわ、最悪!」
カナンが叫ぶ。
「水路にまで撒いてやがる!」
赤い目が、一斉にこちらへ向いた。
朝の水路が、不気味な波紋でざわめき始める。




