古い水車小屋
ベルクハイムの南外れは、夜になると昼間とはまるで別の顔を見せた。
街の灯りが背中の方で小さく滲み、前方には川沿いの闇が広がっている。
古い水車小屋は、そのさらに先だ。
もう何年も使われていない建物らしく、昼でも人気がないとナディアは言っていた。
「こういう場所って、だいたい碌でもないことに使われるのよね」
先頭を歩きながら、ナディアが低く呟く。
「経験談?」
ルークが小声で聞くと、ナディアは振り返らずに答えた。
「受付嬢は見た目より色々見るの」
「ベルクハイムの受付嬢、ちょっと強すぎないか?」
カナンが肩をすくめる。
「王都の受付も十分強かったけど」
「へえ、比べる相手がいるんだ」
ナディアの声に、ほんの少しだけ面白がる色が混じる。
そのやり取りに、レイナが小さく笑った。
張りつめた空気の中でも、こういう小さな会話があると呼吸がしやすい。
けれど、カナンの足が止まった瞬間、その空気はすぐ切り替わった。
「……ここから先、静かに」
声の調子が変わる。
斥候の顔だ。
全員が足音を落とす。
川のせせらぎが近い。
そこに混じって、木がきしむ音がした。
風じゃない。
どこかで建物が、わずかに揺れている音だ。
◇ ◇ ◇
やがて、闇の中に黒い影が浮かび上がった。
古い水車小屋だ。
川に突き出すように建っていて、横の水路には濁った水が流れている。
肝心の水車は止まったまま。
板壁はところどころ剥がれ、窓の一部は打ち付けで塞がれていた。
使われていない建物、というより――使われていないように見せている建物だ。
「灯りはないですね」
レイナが囁く。
「外からはな」
カナンが答える。
彼は地面にしゃがみ込み、泥を指でなぞった。
「新しい跡がある。手押し車の車輪。人の足も複数」
ルークもしゃがみ込む。
たしかにある。
南の臨時倉庫から拾った跡と、同じ幅の細い車輪跡だった。
「当たりか」
ナディアが低く言う。
「でも、正面から行くのはやめた方がよさそうです」
レイナが小屋の入口を見た。
扉の下、地面に何か細いものが光っている。
ルークは目を細めた。
「糸……?」
カナンが小さく口笛を吹く。
「よく見たな。警報用の線だ」
古びた扉の陰から裏手へ、細い糸が張られている。
踏めば、どこかで鈴か何かが鳴る仕組みだろう。
「こういうの、外すの得意?」
ルークが聞くと、カナンは鼻を鳴らした。
「俺を誰だと思ってる」
「口の軽い案内役」
「今それ言う?」
小声でのやり取りなのに、レイナが少しだけ肩を震わせた。
その間にカナンは糸を外し――かけたところで、ルークが手を伸ばす。
「待って」
「ん?」
「そこだけ収納する」
糸の一部だけを狙って《無限インベントリ》を開く。
細い線が音もなく消える。
カナンが目を丸くした。
「……それ、便利すぎない?」
「たまに自分でもそう思う」
「たまにで済ませるなよ」
ナディアが小さく息を吐いた。
「よし。裏から入る」
◇ ◇ ◇
水車小屋の裏手には、半ば崩れた荷運び口があった。
板が外れ、そこから人一人は十分入れる隙間がある。
カナンが先に滑り込み、内側の様子を探る。
しばらくして、手招きの影が見えた。
ルーク、レイナ、ナディアも順に中へ入る。
中は、思っていたよりずっと広かった。
一階はかつての作業場だったのだろう。
粉挽きの大きな石臼が残っているが、今はその周りに木箱と樽が並び、簡易の作業台まで置かれていた。
完全に“使われている”。
しかも最近まで。
「……薬の匂い」
レイナが顔をしかめた。
たしかに、鼻の奥を刺すような苦い臭いがある。
ルークは近くの木箱に手をかけ、中を覗いた。
空の薬瓶。
包み紙。
使いかけの布。
そして、小さな革袋に詰められた黒ずんだ粉末。
「これ、まさか……」
「触らない方がいい」
ナディアが止める。
「先生に回す」
作業台の上には、まだ乾ききっていない液の跡があった。
誰かが、ついさっきまでここで何かをしていた気配がある。
「人の気配は?」
ルークが小さく聞く。
カナンは二本指を立てて、上を指した。
二階。
そして、下も。
床板の隙間から、かすかに冷たい空気が上がってきていた。
「地下か」
ナディアが呟く。
「分かれる?」
レイナが聞く。
ルークは一瞬だけ迷ったが、すぐに首を振った。
「いや、今は一緒がいい」
「賛成」
カナンもすぐ頷いた。
「こういう場所で人数割ると、だいたい面倒なことになる」
その一言の説得力が妙に強くて、ルークは少しだけ苦笑した。
◇ ◇ ◇
二階へ上がる階段は、思ったよりきれいだった。
古い建物のはずなのに、最近踏み固められた跡がある。
上に着くと、狭い見張り部屋のような空間に出た。
窓は細く、街道と川がよく見える。
「見張り台代わりか」
ナディアが低く言う。
部屋の隅には、簡易寝台と水差し、食べかけの干し肉が残っていた。
誰かが、ここで寝泊まりしていたのだ。
その時、カナンが床の端で膝をつく。
「これ、見ろ」
彼が拾い上げたのは、粗く描かれた地図だった。
ベルクハイム周辺の簡単な地図。
街の南側に丸印。
臨時倉庫。
第二集落。
それから、街道沿いのさらに先――別の小村にも印がある。
「全部、物資が足りてない場所ね」
ナディアの声が険しくなる。
「最初から順番に狙ってた」
ただ盗んでいるわけじゃない。
混乱が広がる場所を選んでいる。
それが嫌だった。
その時、レイナが小さく息を呑む。
「これ……」
地図の端に、別の文字があった。
雑だが、地名だ。
ベルクハイムではない。
王都でもない。
「ラウネス……?」
ルークが読むと、ミハイルが首を傾げた。
「水都ラウネスか。南東の大きな川沿いの街だ」
ベルクハイムよりさらに先。
王都からも、かなり距離がある場所だ。
「どうしてその名前がここに」
レイナが言った瞬間だった。
下から、かたん、と小さな音がした。
全員の動きが止まる。
「……誰かいる」
カナンの声が低く沈む。
「下だな」
ルークは短剣へ手を伸ばす。
今までの静けさが、急に罠のように思えてくる。
◇ ◇ ◇
一階へ戻ると、空気が変わっていた。
さっきまで漂っていた薬臭さに、別の生臭い匂いが混じっている。
血だ。
そして作業台の横、さっきは閉じていた床板の一部が、少しだけ開いていた。
「地下への入り口……」
レイナが声を落とす。
カナンがしゃがみ込み、隙間へ目を近づける。
すぐに顔をしかめた。
「暗い。けど、下に人がいる」
「何人?」
「分からん。でも気配はひとつじゃない」
その瞬間、床下から、かすかな呻き声が聞こえた。
人の声だ。
押し殺すような、弱い声。
「生きてる人がいる」
レイナがすぐに言う。
ルークも頷いた。
「開ける」
「待って」
ナディアが短く制する。
「開けた瞬間に何か仕掛けてあるかもしれない」
「じゃあ、ルークさん」
レイナの声に、ルークはすぐ意図を理解した。
「部分収納、ですね」
「うん。留め具だけ消せる?」
「やってみる」
床板の金具だけに意識を向ける。
《無限インベントリ》が、音もなくそれを飲み込んだ。
カナンがすぐに板を横へずらす。
冷たい空気が、下から一気に吹き上がった。
細い階段。
その先に、地下室がある。
「俺が先」
カナンが言う。
「僕も行く」
「レイナさんとナディアさんは後ろで」
ルークの言葉に、二人とも頷いた。
階段を下りるたび、空気が重くなる。
湿っていて、冷たくて、嫌な臭いが濃い。
やがて地下室へ出た瞬間、ルークは言葉を失った。
そこには、人がいた。
二人。
壁際に縛られ、ぐったりとしている。
一人は、南の臨時倉庫で働いていた荷運び人夫らしい男。
もう一人は、見知らぬ若い女だ。
どちらもまだ息はある。
だが、その手首には注射痕のような赤い跡がいくつも残っていた。
「ひどい……」
レイナが息を呑む。
その時だった。
地下室の奥、樽の陰から黒い影が立ち上がった。
黒布で口元を覆った男だ。
細身。
だが動きに迷いがない。
「っ!」
カナンが飛び込む。
男はすぐに後ろへ下がり、腰の袋から小瓶を投げた。
「伏せて!」
ルークが叫ぶ。
小瓶は床で割れ、刺激臭のある煙を噴き出した。
白く濁る視界の向こうで、男の影だけが揺れる。
「逃がすか!」
カナンが低く唸る。
だが男は地下室の奥のさらに暗い通路へ飛び込み、煙の向こうへ消えた。
「ちっ、逃げ道がある!」
「カナン、待って!」
ナディアが叫ぶ。
「今追ったら危ない!」
ルークは煙の中で咳き込みながら、目を凝らす。
男がいた場所には、小さな革鞄が落ちていた。
逃げる時に取り損ねたのか、それとも急ぎすぎたのか。
ルークはすぐにそれを拾い上げる。
「こっちは僕が見る! まず人を!」
「分かった!」
レイナが二人の拘束を解き、回復魔法をかける。
ナディアは煙を布で防ぎながら地下室の出口側を警戒した。
カナンは悔しそうに舌打ちしつつも、いったん下がる。
「逃げ道、上に抜けてるかもしれん」
「後で追う!」
ルークは革鞄を開けた。
中に入っていたのは、薬瓶が二本。
小さな帳面。
それと、折りたたまれた紙切れ。
帳面を開いた瞬間、ルークの眉が寄る。
数字と日付、それに簡単な印だけの、雑な記録帳だ。
だが最後のページだけ、言葉がはっきり書いてあった。
――次便 三日後
――北門外れ 納屋
――搬送先 ラウネス
その文字を見た瞬間、背筋が冷えた。
「……三日後」
ルークが呟く。
ナディアが振り向く。
「何が書いてあるの?」
「次の動きです」
ルークは、紙を握る手に自然と力が入るのを感じた。
「ベルクハイムだけじゃない。次は、別の街へ運ぶつもりだ」
地下室の空気が、一段階冷たくなった気がした。
水車小屋を押さえたから終わりじゃない。
これは、まだ途中の拠点にすぎない。
そして“次便 三日後”ということは――
次の一手まで、もうあまり時間がない。




