盗まれた薬箱
南の臨時倉庫が襲われた。
その報せが小部屋に飛び込んできた瞬間、さっきまで張りつめていた空気が、別の意味で鋭く変わった。
薬箱が盗まれた。
それも、今まさに異常個体の小瓶を調べていたその直後だ。
偶然と呼ぶには、出来すぎている。
「被害の詳細は!?」
ナディアがすぐに問う。
伝令の若い職員は、息を整える暇も惜しむように答えた。
「夜番二名がやられました! 命に別状はありませんが、頭を打っていて、片方はまだ意識がはっきりしません! 倉庫の中は荒らされてます! でも――」
「でも?」
「食料や毛布には手がついてません! 薬箱だけです!」
ハロルドの目が細くなった。
「狙っているな」
「ええ」
ナディアは短く答えると、もう次の指示を飛ばしていた。
「ミハイル、医療班を倉庫へ。ハロルド先生もお願いします」
「分かった」
「カナンは先行して周辺確認。足跡でも匂いでもいい、逃走経路を拾って」
「了解」
「《星灯の止まり木》――」
ナディアの視線が、ルークとレイナへ向く。
問う形ではない。確認だ。
ルークは頷いた。
「行きます」
「私もです」
レイナの返事も迷いがなかった。
「いい。移動しながら話すわ」
◇ ◇ ◇
ベルクハイム支部を飛び出すと、夜の街は昼間とは別物だった。
表通りの灯りはまだ残っているが、一本裏へ入るだけで空気が変わる。
人影はまばら。
足音はやけに響く。
そして、どこかが今夜たしかに乱されたのだと分かる、張りつめた気配があった。
ナディアを先頭に、ルーク、レイナ、カナン、ミハイルが駆ける。
「南の臨時倉庫って、どんな場所なんですか?」
ルークが走りながら聞く。
「本来は穀物倉庫よ。今は橋の崩落で荷の流れが乱れてるから、応急で薬や日用品の保管場所にも使ってる」
ナディアは前を見たまま答える。
「街の中心倉庫から離してるのは、火事や盗難の被害を分散するため。……そのはずだったんだけど」
「狙われた」
「ええ。しかも、よりによって薬だけ」
レイナが険しい顔になる。
「ただの盗みじゃないですね」
「同感」
ルークも短く答えた。
異常個体。
小瓶。
薬箱の持ち出し。
もう、いくつかの線ははっきり近づいている。
その時、前を走るカナンが振り向きもせず言った。
「なあ、ルーク」
「なに?」
「今さらだけど、お前、夜の街も普通に走れるんだな」
「え?」
「いや、王都育ちっぽい顔してるのに、曲がり角で全然減速しないから」
「それ褒めてる?」
「半分くらいは」
「残り半分は?」
「無茶してる」
ルークが返しに困っていると、横でレイナが小さく言った。
「それは否定できませんね」
「レイナさんまで?」
「でも、今はありがたいです」
その一言で、少しだけ肩の力が抜けた。
緊迫している。
でも、ぎりぎり呼吸はできている。
◇ ◇ ◇
南の臨時倉庫は、街壁近くの人気の少ない一角にあった。
到着した時には、すでに周辺に何人かの警備兵が集まっている。
入口の扉はこじ開けられ、地面には割れた木片が散らばっていた。
「ナディアさん!」
警備兵の一人が駆け寄ってくる。
「中は?」
「夜番二名を運び出しました! 一人は会話可能、もう一人は診療室へ!」
「盗まれた量は?」
「まだ確認中ですが、少なくとも薬箱六つ。それと、瓶詰めの消毒液数本が消えてます!」
ハロルドが低く舌打ちした。
「面倒なものばかり選びおって……」
「入るわよ」
ナディアが言い、全員が倉庫の中へ入った。
中は酷かった。
棚がひっくり返され、木箱が割れ、床には薬草や布切れが散乱している。
だが、たしかに奇妙だった。
食料の袋は untouched。
毛布もそのまま。
日用品もほぼ無事。
荒らされているのに、狙いは絞られていた。
「……本当に薬だけだ」
ルークが呟く。
レイナは床に膝をつき、散らばった薬草を拾い上げた。
「痛み止め、消毒薬、熱冷まし……」
そこで彼女の顔色が変わる。
「ルークさん、これ」
「ん?」
「筋肉のけいれんを抑える薬草もなくなってます」
ハロルドがすぐに反応した。
「鎮静と緩和か」
「それが何か関係あるんですか?」
ミハイルが聞く。
老人は床に散らばる包みを見下ろしながら言った。
「暴走薬を無理に使えば、筋肉や神経に負担が出る。抑え薬が欲しくなることはある」
ナディアの目が鋭くなる。
「つまり、作るだけじゃなくて“持たせる”つもりってこと?」
「あるいは、まだ試行錯誤の途中か」
どちらにしても、いい話ではない。
レイナが拾い上げた瓶の欠片を見て、眉を寄せる。
「消毒液まで持っていく理由は……?」
その疑問に答えたのは、意外にもカナンだった。
「血の匂い消しじゃないか」
全員がそちらを見る。
カナンはしゃがみ込み、床に残った泥を指でなぞった。
「雑だけど、現場慣れしてる動きだ。足跡もいくつか消そうとしてる。だったら、匂いに敏感な獣や犬を誤魔化すために消毒液を持っていってもおかしくない」
「なるほど……」
ルークは思わず感心した。
カナンは視線を上げずに言う。
「褒めるなよ。調子乗るから」
「まだ何も言ってない」
「顔で分かる」
それ、最近よく言われるな、とルークは思ったが、今は口にしなかった。
◇ ◇ ◇
倉庫の奥、壁際で、まだ意識のある夜番が毛布にくるまって座っていた。
額に包帯が巻かれ、顔色は悪いが、受け答えはできるようだ。
「話せる?」
ナディアがしゃがみ込む。
夜番の男は苦しそうに頷いた。
「……すみません。止められなくて……」
「謝らなくていい。見たことを話して」
男は息を整え、ゆっくりと口を開いた。
「二人組でした……たぶん、男。顔は布で隠してました」
ルークの胸が、わずかにざわつく。
「黒い服?」
「はい……暗くてよく見えなかったけど、たぶん」
トウマの証言と重なる。
「獣もいた?」
レイナが静かに尋ねると、男は首を横に振った。
「ここには来てません。ただ……外で、変な鳴き声がしてました」
ナディアが眉を寄せる。
「時間稼ぎに使ったのか」
男はさらに続ける。
「片方が、薬の場所を知ってました。迷わず奥に来て、必要なものだけ持ってった」
「中の配置を知ってた?」
「はい……」
そこへ、倉庫の外からカナンの声が飛んだ。
「ナディア! ちょっと来い!」
その声は、軽口混じりではなかった。
全員がすぐに外へ出る。
◇ ◇ ◇
倉庫の裏手、壁際の泥地に、カナンはしゃがみ込んでいた。
「見ろ」
指差した先には、複数の足跡がある。
ひとつは倉庫から外へ向かう人の足跡。
もうひとつは、それに重なるように付いた細い車輪の跡だ。
「手押し車……?」
ミハイルが言う。
「たぶんな」
カナンが頷く。
「薬箱六つと瓶を抱えて走るのは面倒だ。だから倉庫の外に運搬用を待たせてた」
「つまり、最初から街の中で動くつもりだった」
ルークが呟く。
「そういうこと」
カナンはさらに少し先を指した。
泥の上に、靴底の模様がはっきり残っている。
「この靴跡、どこかで見たことないか?」
ナディアがしゃがみ込んだ瞬間、その顔が険しくなった。
「……支部の裏口で使ってる荷運び人夫の靴だわ」
「え?」
「同じ型を、まとめて何足か支給してるの。安くて丈夫だから」
嫌な沈黙が落ちる。
外部の人間だけじゃない。
街の中の事情に通じた誰かが、紛れている可能性が高くなる。
「まさか、ギルドの中に……」
ミハイルが低く呟く。
「断定はまだ早い」
ナディアはすぐに言った。
「でも、“誰かが中の情報を流してる”線は考えるべきね」
その時、レイナが足元の泥の端で何かに気づいた。
「これ……」
拾い上げたのは、丸められた小さな紙片だった。
雨で半分ふやけているが、完全には読めなくなっていない。
ナディアが受け取り、灯りにかざす。
「……地図?」
ざっくりとした街外れの見取り図だ。
その端に、小さく印がついている。
「南の古い水車小屋……?」
ミハイルの声が変わる。
「そこ、今は使われてないはずじゃ」
「使われてないから、使いやすいんでしょ」
ナディアは冷静に言った。
ルークはその紙を見つめる。
南の古い水車小屋。
街から少し外れた場所にある、人気のない建物。
薬箱を運び込み、何かをするには十分な条件だ。
「行く?」
カナンが、まるで確認するまでもないことを聞くみたいに言う。
ルークは頷いた。
「行く」
「私もです」
レイナの声に迷いはなかった。
ナディアは一瞬だけ目を閉じ、それから決断する。
「ミハイル、支部へ戻って中を固めて。薬箱の残数確認と、人夫の点呼。私はこっちで追う」
「一人で?」
「一人じゃない」
ナディアはルークたちを見る。
「《星灯の止まり木》がいる。それに」
そこで、カナンの方へ視線を向ける。
「この手の夜道は、うちの街の斥候の方が強いでしょう?」
カナンはにやりと笑った。
「やっと俺の格好よさに気づいたか」
「今の一言で少し下がったわ」
即座に返され、ルークは思わず吹き出しそうになった。
こんな緊張した場面で、よくそんなやり取りができるものだ。
でも、その少しだけ馬鹿っぽい応酬が、逆に気持ちを安定させる。
ずっと張りつめっぱなしじゃ、動けるものも動けない。
◇ ◇ ◇
支度はすぐに整った。
水。
灯り。
縄。
予備の回復薬。
ルークは必要なものを《無限インベントリ》へ収める。
レイナは杖を持ち直し、ナディアは短剣と小型の警笛を腰に差した。
「受付嬢って、そんな装備なんだ」
ルークがつい言うと、ナディアは半目で見た。
「非常時よ。ベルクハイムの受付は、待ってるだけじゃ務まらないの」
「……王都のリーナさんには内緒にしておこう」
「なんで?」
「ちょっと羨ましがりそうだから」
レイナが小さく笑う。
ナディアも一瞬だけ吹き出し、それからすぐに真顔へ戻った。
「行くわよ」
ベルクハイムの夜は、まだ終わらない。
薬箱を運んだ誰かがいる。
異常個体を生み出している何者かが、この街の中か、すぐ外に潜んでいる。
そして今、その尻尾がようやく掴めそうだった。
南の古い水車小屋。
そこに何があるのか、まだ分からない。
けれど、何かがあることだけは、もう間違いなかった。
月の光が、濡れた石畳を白く照らしている。
ルークはその先の闇を見つめ、静かに息を吐いた。
今度は、こちらから踏み込む番だった。




