黒布の先
森の中に、ようやく静けさが戻っていた。
低く垂れこめていた殺気も、今は風に薄められていく。
ルーク・フレイアスは、短く息を吐きながら、足元の壊れた小瓶の破片を見下ろした。
赤黒く濁った液の跡。
それは東部で見た異常個体の気配を、いやでも思い出させた。
「……やっぱり、これだよな」
ルークが呟くと、カナンがしゃがみ込み、破片のひとつを枝先でつついた。
「見た目からして、まともな薬じゃないな」
「はい」
レイナも、トウマの肩を抱きながら小さく頷く。
「こんなものを獣に使ってるなら、普通の被害じゃ済まないです」
トウマはまだ震えていたが、さっきより呼吸は落ち着いていた。
レイナの回復魔法と、助かったという実感が少しずつ届き始めているのだろう。
ルークはしゃがみ込み、トウマと目線を合わせた。
「もう一回だけ聞いていい?」
トウマは、こくりと頷く。
「その“黒い服の人”って、顔は見えた?」
「……ちょっとだけ」
「どんな感じだった?」
トウマは眉を寄せ、小さな手で自分の胸元をぎゅっと掴んだ。
「かお、よく見えなかった……でも、男の人だった。声、低くて……」
「他に何か覚えてる?」
「……くさい」
「くさい?」
「へんなにおい。おくすりみたいな、でも苦いにおい」
ルークとレイナが顔を見合わせる。
薬品の臭い。
東部でも、セシルの周囲に漂っていた嫌な臭気と近いかもしれない。
「あと……」
トウマは少しだけためらってから、続けた。
「その人、笑ってなかった。ずっと、イライラしてた」
それは少し意外だった。
ゼオのような、狂気じみた愉悦ではない。
もっと別の人間が動いているのかもしれない。
カナンが黒い布切れをつまみ上げる。
「笑ってない黒服、ね。あんまり会いたくない種類だな」
「同感」
ルークが返すと、カナンは口の端だけで笑った。
「お、今ちょっと息合ったな」
「そういう確認いらないから」
「いるだろ。こういうのはちょっと嬉しいんだよ」
張りつめた空気の中に、少しだけ軽さが混じる。
レイナも小さく息を漏らした。
ほんの少しでも呼吸できる時間があると、心が折れずに済む。
◇ ◇ ◇
第二集落へ戻ると、広場の空気が一変した。
「トウマ!」
村長が駆け寄ってきて、孫を抱きしめる。
大きな体の老人が、子どもみたいな顔で泣いていた。
「よかった……! 本当に、よかった……!」
「じいちゃん、くるしい……」
「お、おお、すまん……!」
そのやり取りに、周囲の村人たちの顔からも一気に力が抜ける。
誰かがしゃがみ込み、誰かが顔を覆い、誰かが何度も「助かった」と繰り返していた。
ルークは、その光景を見て胸の奥がじんわり熱くなるのを感じる。
間に合った。
その事実が、何より重かった。
「ルークさん」
レイナが小さく呼ぶ。
「うん?」
「ちゃんと、助けられましたね」
「……うん」
その一言が、ルークにはすごく嬉しかった。
カナンはその横で腕を組みながら、やれやれと息を吐く。
「初日から誘拐された子どもの奪還か。《星灯の止まり木》、だいぶ濃いな」
「カナンさん」
レイナが少しだけ困った顔をする。
「そういう言い方は……」
「いや、褒めてる」
「褒め方が変です」
「それは否定しない」
カナンがあっさり言うので、今度はルークも少し笑ってしまった。
助かった直後だからこそ、こういう軽口がありがたい。
重たさだけが残ると、人はすぐに疲れきってしまうからだ。
◇ ◇ ◇
トウマの無事が確認されたあと、ルークたちは壊れた家畜小屋の前に集まった。
ミハイルが周囲の見回り役に指示を飛ばしている。
「今夜は二人一組で見ろ。ひとりになるな。柵の破れも応急でいい、朝までに塞げ」
「了解!」
村の若者たちが慌ただしく動き出す。
レイナは見張りの男の腕をもう一度診て、軽く固定し直した。
その間に、ルークはさっき収納した中央の個体をどうするか考えていた。
「……持って帰る?」
そう呟くと、カナンがすぐに答える。
「持って帰れ」
「やっぱり」
「やっぱりだ。こんなの、現場に放っとく方が怖い」
ミハイルも強く頷く。
「ベルクハイム支部で検視してもらいましょう。布切れと小瓶の破片も合わせて」
「分かった」
ルークは遺体と証拠の破片を、まとめて《無限インベントリ》へ収める。
村長がその様子を見て、深く頭を下げた。
「礼を言っても足りん。だが……本当にありがとう」
「まだ終わってません」
ルークは首を振った。
「これが何なのか、ちゃんと確かめないと」
「……そうだな」
村長の顔から、安堵と同時に別の緊張が戻る。
獣が暴れた、だけで終わる話ではない。
人が関わっているなら、また来るかもしれない。
それがみんな分かってしまったからだ。
◇ ◇ ◇
ベルクハイム支部へ戻った頃には、夜もかなり更けていた。
それでも支部の灯りは落ちていない。
扉を開けると、カウンターの奥でナディアが腕を組んで待っていた。
「遅い」
第一声がそれだった。
けれど、その顔に浮かんでいたのは怒りより先に、安堵だった。
「すみません」
ルークがそう言うと、ナディアは大きくため息をつく。
「謝るのはあと。全員無事?」
「はい。トウマっていう子どもも救出しました」
「……そう」
ナディアはそこでようやく肩の力を抜いた。
「ベルクハイム初日で子ども救出って、どういう観光よ」
「観光ではないですね」
ルークが真面目に答えると、カナンが横で吹き出す。
「そこは笑うとこだろ」
「え?」
「お前、ほんと時々ずれるよな」
ナディアまで一瞬だけ口元を押さえた。
レイナも小さく笑っている。
少しだけ疲れが和らぐ。
「で?」
ナディアはすぐに仕事の顔へ戻った。
「持って帰ったものは」
「あります」
ルークは頷き、小部屋へ案内される。
すでにハロルドが待っていた。
老人はルークたちの顔を見るなり、ぶっきらぼうに言った。
「今夜は働きすぎだ。だが、そういう時ほど当たりが出る」
「当たりって言い方やめてください」
レイナが小さく言うと、ハロルドは「すまん」とだけ返した。
謝っているのかどうか、微妙だった。
◇ ◇ ◇
小部屋の床に、ルークは順に現物を出した。
中央の異常個体。
壊れた小瓶の破片。
黒い布切れ。
ハロルドはすぐにしゃがみ込み、灯りを寄せて確認する。
「……ふむ」
まず見たのは布切れだった。
指先でつまみ、内側を撫で、鼻先に近づける。
「防水加工がされているな」
ナディアが眉を寄せる。
「雨具?」
「それもある。だが安物ではない。旅商人の外套とも違う」
ハロルドは布の縁を指差した。
「見ろ。この縫い目」
ルークたちも覗き込む。
たしかに、普通の服とは少し違う。
丈夫さを優先したような、詰まった縫い方だ。
「街道警備か、物資運搬役の外套に近い」
その言葉に、ミハイルの顔色が変わる。
「つまり……この辺の事情に詳しい人間ってことですか」
「可能性は高い」
ハロルドは次に小瓶の破片へ手を伸ばした。
欠片の内側に、黒ずんだ液の痕がこびりついている。
それを慎重に削り、匂いを確かめる。
「……東部の件と完全一致とは言えん」
その一言に、ルークは少しだけ息を止めた。
「でも?」
「だが、系統は近い。肉体を無理に膨らませる類だ。自然の病や飢えではない」
ナディアの顔が険しくなる。
「やっぱり、誰かが意図的にやってるのね」
その空気の中、トウマがレイナの後ろで小さく縮こまっていた。
まだ事情を全部聞くにはきついだろう。
そう思った時、ハロルドが遺体の肩口を割いて、低く唸った。
「……おかしいな」
「何がですか?」
ルークが聞く。
「この個体、薬を打たれたあとに走らされている」
「走らされてる?」
「筋肉の裂け方がそうだ。暴走させて、すぐ放しただけじゃない。ある程度、移動させてからぶつけている」
その言葉に、室内の空気がさらに冷たくなる。
つまり、ただ獣を狂わせているだけじゃない。
誰かが運び、使っている。
その時だった。
カウンターの向こうから、ばたばたと激しい足音が近づいてきた。
次の瞬間、若い職員が血相を変えて飛び込んでくる。
「ナディアさん!」
「今度は何!?」
「南の臨時倉庫から急報です! 夜番が襲われました! 死者は出てませんが――」
職員は息を切らしながら続けた。
「保管してあった薬箱が、まとめて持ち出されています!」
その場の誰も、すぐには言葉を返せなかった。
薬箱。
偶然じゃない。
さっきまで見ていた小瓶と、異常個体。
それが一気に一本の線になる。
ナディアが低く吐き捨てるように言う。
「……獣を暴れさせるだけじゃ足りなくなったってわけ」
ルークは、目の前の小瓶の破片を見た。
嫌な予感が、はっきりと形を持ち始めている。
ベルクハイムの問題は、街道の外で起きているだけじゃない。
もう、街の中にまで手が伸びている。




