森の中の赤い目
赤い目が、闇の中でじっとこちらを見ていた。
三つ。
どれも低く唸りながら、子どもを背にするように立っている。
普通の魔物なら、もう少し獣らしい荒さがあるはずだ。
けれど目の前の三頭は違った。
荒れているくせに、どこか妙に“待っている”ように見える。
「……嫌な感じだな」
カナンが低く呟く。
ルークも同じことを思っていた。
ただ餌を奪っただけの獣じゃない。
砕けた小瓶の破片。
赤黒く膨れた首筋。
異様に盛り上がった肩。
東部で見た気配と、確かにどこかが繋がっている。
それでも今、一番大事なのはそこじゃない。
木に縛りつけられている子どもを助けることだ。
「ルークさん」
レイナが小さく囁く。
「うん」
「一番左の個体、少し足を引きずってます」
よく見れば、たしかにそうだった。
左端の個体は、前足の動きが少しだけ鈍い。
昨夜の大きな森犬と同じく、肩の膨れ方が特にひどい。
ルークは短く息を吸う。
「カナン、右をお願い」
「了解」
「レイナさんは、子どもを見て。僕が中央を止める」
「はい」
その時、木に縛られていた子どもが、かすれた声を漏らした。
「……たす、け……」
小さい声だった。
でも、それだけで十分だった。
「行く」
ルークの一言と同時に、三人は動いた。
◇ ◇ ◇
先に飛び出したのは、中央の一頭だった。
大きい。
狼というより、痩せた熊に近い。
それが低く身を沈めたかと思うと、一気に跳ぶ。
「収納展開!」
ルークが地面へ手をかざす。
足元に開いた光円へ前脚が沈み、個体の体勢がわずかに崩れた。
だが、それだけだ。
普通の森犬と違って、力が強い。
「っ……!」
収納口をこじ開けるように、前脚が持ち上がる。
その隙に、右からカナンが滑り込んだ。
「こっち見ろ!」
投げナイフが一閃し、右の一頭の耳元をかすめる。
個体は怒りに唸ってカナンへ向きを変えた。
「いいぞ!」
ルークはその声を聞きながら、中央の個体へ網を投げる。
拘束網が首と前脚に絡みつく。
完全には止まらない。
だが、一瞬でいい。
「レイナさん!」
「はい!」
淡い光が走る。
「《ライト》!」
小さな光球が中央の個体の顔前で弾けた。
目を焼かれた獣が頭を振る。
そのわずかな隙に、ルークは一気に前へ出た。
短剣を抜き、首筋ではなく肩口の赤黒く膨れた箇所を狙う。
「っ!」
刃が肉へ食い込み、鈍い感触が返ってくる。
硬い。
腫れた肉が、普通の獣よりずっと分厚い。
それでも、深くは入った。
個体が悲鳴を上げてのけぞる。
「ルークさん、後ろ!」
レイナの声。
左の一頭が、低い姿勢のまま横から突っ込んできていた。
「収納!」
咄嗟に空中へ開いた収納口が、個体の顔面すれすれに現れる。
完全には入らない。
けれど視界を塞がれたことで、獣の突進がわずかにぶれた。
その瞬間、レイナが子どもの方へ走る。
「今のうちに!」
彼女は木の根元へ滑り込み、縛られた縄を確かめた。
縄自体はただの縄だ。
だが、子どもの足元に倒れた枝や獣の爪痕が散らばっていて、無理に外せば怪我をしそうだった。
「ルークさん、縄だけ切れますか!?」
「やる!」
ルークは左の一頭を蹴って距離を取り、木の幹へ手を向ける。
「部分収納!」
縄だけを狙う。
光が走り、子どもの胸元と木を結んでいた縄がふっと消えた。
その瞬間、子どもの体がぐらりと前へ倒れる。
レイナが両腕で抱きとめた。
「大丈夫! 怖かったですね、もう少しだけ我慢してください!」
その声は、戦いの中でも驚くほどやわらかい。
子どもの震えた体が、ほんの少しだけ力を抜いた。
「レイナ、下がれ!」
カナンの怒鳴るような声。
右の一頭を引きつけていたはずのカナンが、強く後ろへ飛ぶ。
残る一頭が子どもへ向かおうとしていた。
ルークは反射的に手を伸ばす。
「任意座標展開!」
今度は地面じゃない。
個体の真正面、顔の高さに収納口を開く。
獣はそのまま突っ込み、鼻先から半ばまで光へめり込んだ。
その瞬間、カナンが地を蹴る。
「そこだ!」
短剣が横薙ぎに走り、個体の首筋を裂いた。
どっと黒ずんだ血が飛ぶ。
普通の血の色じゃない。
赤黒く、どこか濁っている。
「っ……!」
カナンが舌打ちした。
「気持ち悪っ……!」
その率直な一言が、張りつめた空気の中で逆に妙に人間くさくて、ルークは少しだけ力を抜きそうになった。
だが、まだ終わっていない。
中央の個体が、肩口を裂かれたままこちらを睨んでいる。
傷ついても、むしろ余計に興奮しているようだった。
「ルークさん、この子、足を捻ってます! 走れません!」
レイナが子どもを抱えたまま叫ぶ。
「インベントリに入れる!」
「お願いします!」
ルークは頷き、子どもへ意識を向けた。
「少しだけ暗いところに入るけど、安全だから!」
泣きそうな顔の子どもが、小さく頷く。
そのまま安全区画へ収納する。
体が光に包まれて消えた瞬間、ルークはようやく前だけを見られるようになった。
「これで遠慮はいらないな」
「ようやく本番ってやつか」
カナンが口の端を上げる。
レイナも、呼吸を整えながら杖を握り直した。
「二人とも、無茶しすぎないでくださいね」
「それ、先に言う?」
カナンが苦笑すると、レイナは少しだけむっとした。
「言います。二人とも無茶するので」
「ルーク、お前まで一緒に怒られてるぞ」
「……否定できない」
そんなやり取りをしている間にも、三頭は低く唸っていた。
けれど、さっきとは少し違う。
獲物を奪われたことで、明らかに焦れている。
「中央を落とせば、残りは散るかも」
ルークが言う。
「同意」
カナンが答える。
「じゃあ、派手にいくか」
「派手にはしなくていい」
「そこは合わせろよ!」
その軽口の直後、中央の個体が飛んだ。
「来る!」
ルークは一歩踏み込み、足元ではなく個体の後方へ収納口を開く。
通り抜ける勢いで飛び込ませる形だ。
個体はわずかに空中で身をひねり、嫌な勘の良さを見せた。
だが、それで十分だった。
体勢が流れる。
「今!」
レイナの光が、個体の足元で弾けた。
眩んだ一瞬を、カナンは見逃さない。
低く潜り込み、後脚の腱を切る。
個体が地面へ崩れた。
「収納!」
ルークが両手を向ける。
地面と、横、さらに頭上。
三方向に光が開く。
逃げ場を失った個体が暴れる。
けれど今回は、一瞬じゃなく、三人で削ったあとの今だ。
光が体を飲み込み、中央の個体が悲鳴じみた唸り声とともに《無限インベントリ》へ沈んでいく。
残る二頭は、そこで明らかに怯んだ。
「まだやるか?」
カナンが短剣を構えたまま笑う。
獣に問いかけても仕方ない。
だが、その挑発は効いたらしい。
二頭は低く唸ったあと、くるりと踵を返し、森の奥へ逃げていった。
追うべきかどうか迷う間もなく、ルークが首を振る。
「今は追わない」
「同感」
カナンもすぐに短剣を下ろした。
森の奥は暗い。
何がいるか分からない。
子どもはもう確保した。
なら、ここで無理をする理由はない。
◇ ◇ ◇
静けさが戻る。
だが、その静けさはさっきまでと違った。
ようやく息ができる静けさだ。
レイナがその場で膝をつき、大きく息を吐いた。
「……助かりました」
「うん」
ルークも肩の力を抜く。
カナンが額の汗を拭いながら、半ば呆れたように言った。
「毎回こんな感じなのか? お前らの戦い」
「毎回ではない……と思う」
「その“と思う”が怖いんだよな」
ルークは苦笑するしかなかった。
たしかに、最近は穏やかな依頼のあとに妙なことが起きることが多い。
レイナも少しだけ疲れたように笑う。
「でも、ちゃんと助けられました」
その一言で、場の空気が少しだけやわらいだ。
まずはそれが一番大事だ。
ルークは安全区画から子どもを出した。
まだ震えている。
けれど、怪我はひどくない。
「……もう大丈夫」
ルークがそう声をかけると、子どもは涙でぐしゃぐしゃの顔のまま何度も頷いた。
「こわかった……!」
「うん。もう怖くないです」
レイナがすぐにそばへしゃがみ込む。
「お名前、言えますか?」
「……ト、トウマ……」
「トウマくんですね。えらかったです」
トウマはひどく怯えていたが、それでもレイナの声を聞いて少しずつ呼吸を整え始めた。
ルークはそこで、ふと周囲を見回した。
壊れた小瓶の破片が、まだ地面に散っている。
それだけじゃない。
倒れた木の根元に、もう一つ、気になるものがあった。
「……これ」
しゃがみ込んで拾い上げる。
黒い布の切れ端だ。
丈夫そうな服の裾か、手袋の一部か。
獣のものではない。
「人のものだな」
カナンが低く言う。
「しかも村の服じゃない」
ミハイルも追いついてきて、それを見るなり表情を曇らせた。
「やはり、何かいる……」
ルークは布切れを握りしめる。
ただの獣の暴走じゃない。
昨夜の森犬。
ベルクハイムへ届いていた異変の報告。
そして今夜のこれ。
線が、少しずつ繋がり始めている。
「……トウマくん」
ルークはできるだけ穏やかな声で尋ねた。
「ここにいたの、獣だけだった?」
トウマはびくりと肩を震わせた。
小さな手が、レイナの服をぎゅっと掴む。
それから、震える唇で言った。
「ちがう……」
レイナが目線を合わせる。
「何がいたの?」
「……ひと……」
その一言で、空気がまた張りつめた。
トウマの目は、まだ恐怖の中にある。
けれど、その恐怖は獣だけに向いたものじゃない。
「おっきいの、つれてきたの……ひとだった……」
ルークの背筋を、冷たいものが走った。
トウマはもう一度、はっきりと言った。
「くろいふくの、ひと……」
森の奥で、風が鳴った。
まるで、それを聞いていたかのように。




