夜へ向かう足跡
ベルクハイム支部の小部屋に、重たい沈黙が落ちた。
南の第二集落。
家畜小屋が壊され、見張りが一人戻っていない。
しかも、森犬より大きい足跡。
東部で見た異変を思い出させるには、十分すぎる話だった。
「準備は最短でどれくらい必要?」
ナディアがこちらを見るより早く、ルークが聞いた。
レイナも、もう杖を握り直している。
ナディアは少しだけ目を細め、それから即答した。
「物資は最低限でいい。戦闘と救護を優先するなら、五分で出せるわ」
「なら十分です」
ルークが答えると、横でカナンが肩をすくめた。
「おいおい、本当に行くのか。王都から来た初日の客人にしては働きすぎじゃないか?」
「止めるの?」
レイナが静かに聞く。
カナンは一瞬だけ言葉に詰まり、それから軽く笑った。
「止めるわけないだろ。そういう顔してるやつらに言っても無駄だ」
「じゃあ一緒に来て」
ルークが言うと、カナンは眉を上げた。
「ずいぶん素直に頼るな」
「案内役がいると助かるから」
「……そういう真っ直ぐなの、たまにずるいよな」
ぼやきながらも、口元は少しだけ笑っていた。
その空気を切るように、ナディアが手を打つ。
「よし。ミハイルは村への連絡役、カナンは先導。ルークとレイナは現地判断で動いて。私は支部に残って、追加の動きがあればすぐ回す」
「ナディアさんは来ないんですか?」
レイナが聞くと、ナディアは苦笑した。
「行きたいのは山々だけど、支部を空けると街の中が回らないの。受付って、こういう時は地味に大事なのよ」
「たしかに」
ルークが素直に頷くと、ナディアは一瞬だけきょとんとして、それから小さく笑った。
「……王都の受付嬢と気が合いそうね、あなた」
リーナのことだろう。
なんとなく分かる気がして、ルークも少しだけ口元をゆるめた。
◇ ◇ ◇
出発の準備は、本当に五分とかからなかった。
ルークは予備の水、包帯、灯り、携帯食を《無限インベントリ》へ収める。
レイナは追加の回復薬と薬草束を腰の袋に入れた。
カナンは短剣の刃を布で拭きながら、いかにも慣れた手つきで装備を整えている。
その横で、ミハイルが地図を広げた。
「第二集落までは、街道をそのまま南へ。途中から森沿いの脇道に入ります。急げば一時間ちょっと」
「夜道としては?」
ルークが尋ねる。
「正直、気持ちのいい道じゃない」
答えたのはカナンだった。
「昼でも人通りが少ない。今夜みたいな話が出たあとなら、なおさらな」
そう言いながらも、彼の顔には怯えはない。
むしろ少しだけ、獲物を見つけた斥候みたいな目をしていた。
「でもまあ」
カナンは短剣をしまいながら続ける。
「こういう時のために、俺みたいなのがいる」
「頼りにしてる」
ルークが即答すると、カナンは変な顔をした。
「……あんた、ほんと変だな」
「またそれ?」
「普通、もう少し格好つけたりするだろ」
「してる余裕ないし」
その返しに、レイナがくすっと笑う。
張りつめていた空気が、ほんの少しだけやわらいだ。
◇ ◇ ◇
ベルクハイムの南門を出た頃には、空はすっかり夕闇に沈み始めていた。
西の端に残った赤みも、もう薄い。
街道の先は黒く、森の輪郭だけがぼんやり見える。
先頭はカナン。
その後ろにルーク、レイナ、ミハイルの順で進む。
足音は最小限。
話し声も自然と小さくなる。
風が吹くたび、木の葉が擦れ合って、耳障りな音を立てた。
「こういう時、王都の外だって実感しますね……」
レイナがぽつりと言う。
「どうして?」
「王都の近くって、夜でもどこか人の気配がありますから」
「ああ」
ルークは少しだけ頷いた。
たしかに王都近郊は、どこかで灯りが見える。
門もあるし、巡回もいる。
でも今は違う。
この暗さは、本当に“外”の暗さだ。
「怖い?」
ルークが小さく聞くと、レイナは少しだけ考えてから正直に答えた。
「怖いです。でも、前よりは」
「前よりは?」
「隣に誰がいるか分かってるので」
その言葉に、ルークの胸が少しだけ熱くなる。
けれど何か返す前に、前を歩いていたカナンが振り返りもせず言った。
「おーい、いい雰囲気出すのは後にしてくれ。そろそろ脇道だ」
レイナの肩がびくっと跳ねる。
「ち、違います!」
「何が?」
「……何でもありません」
ルークは少しだけ笑いそうになるのを堪えた。
こういうところで、カナンは空気を軽くするのがうまい。
ありがたいのか、ありがたくないのか、少しだけ分からなかったけれど。
◇ ◇ ◇
街道から外れ、細い獣道のような脇道へ入ると、空気が変わった。
湿っている。
それに、嫌な匂いが混じっていた。
獣の臭いだけじゃない。
血と、壊れた木の匂いだ。
「近いな」
カナンが足を止める。
前方、木々の隙間にぼんやりと灯りが見えた。
第二集落だ。
だが、様子がおかしい。
灯りの数が少なすぎる。
人の声も、家畜の鳴き声も聞こえない。
「……静かすぎる」
ミハイルの声が低くなる。
「ルークさん」
「うん」
レイナも、もう杖を構えていた。
集落の入口に近づくと、最初に見えたのは倒れた柵だった。
折れている。
しかも、外から押し壊したというより、内側も外側もぐちゃぐちゃに引き裂かれている感じだった。
その先にある家畜小屋は、片側の壁が崩れていた。
扉も、蝶番ごと吹き飛んでいる。
「……これは森犬じゃない」
カナンがしゃがみ込む。
地面には泥が深く抉れ、大きな足跡が残っていた。
四つ足の跡。
でも、昨夜の森犬より明らかに大きい。
熊に近い。
いや、もっと長い爪痕がある。
「見張りはどこだ」
ミハイルが顔を上げる。
その答えはすぐに来なかった。
だが、代わりに小さな物音がした。
家畜小屋の影だ。
「誰かいる!」
ルークが声をかけると、そこから若い男が転がるように出てきた。
顔色は真っ青で、服は泥だらけ。
「た、助け……!」
見張りだ。
戻っていないと聞いていた男が、まだ生きていた。
レイナがすぐに駆け寄る。
「大丈夫ですか!?」
「う、腕……」
左腕が不自然に腫れている。
噛まれたのではなく、強く打ちつけたような腫れ方だ。
レイナはその場で膝をつき、手をかざした。
「《ヒール》」
淡い光が男の腕を包む。
男は痛みに顔を歪めながらも、必死に言葉を繋いだ。
「でかいのが……二頭……いや、三頭……! 森から出てきて……家畜を……」
「今はどこへ行った?」
カナンが低く聞く。
「わ、分からねえ……! でも、一頭は……一頭は、引きずってった……」
「何を」
ルークが聞くと、男の目が恐怖に見開かれる。
「人を……」
空気が、凍った。
「誰がいないの?」
レイナの声も少し震えていた。
「子どもだ……! 小屋の近くにいた……村長の孫が……!」
◇ ◇ ◇
一瞬だけ、全員が言葉を失った。
次に動いたのは、ルークだった。
「足跡を追う」
「だな」
カナンも即答する。
「ミハイル、村の中を確認して生き残りを集めろ! 怪我人が他にいたらすぐ連れてこい!」
「分かった!」
「レイナさん」
ルークが振り向く。
「行けます。私は大丈夫です」
返事は早かった。
その目に迷いはない。
「なら一緒に来て」
「はい」
カナンがすぐに地面へ視線を落とした。
大きな足跡は、家畜小屋の裏から森へ続いている。
途中、何かを引きずった跡もはっきり残っていた。
「急げば追いつけるかもしれない」
「急ごう」
ルークが言う。
今度は、ためらう理由がなかった。
助けを待っているのが、はっきりしている。
なら、行くしかない。
◇ ◇ ◇
森へ入ると、月明かりも木々に遮られて、一気に暗くなった。
カナンが先導し、足跡を追う。
ルークは片手を前へ出し、いつでも《収納展開》できるように備えた。
レイナは少し後ろで、呼吸を整えながらついてくる。
地面には、泥と血の跡が混じっている。
小さい。
けれど確かに、人のものだ。
「まだ新しい」
カナンが囁く。
「そんなに離れてない」
だがその直後、前方の茂みの奥から、低く濁った唸り声が響いた。
ごるるる……。
喉の奥で煮えたぎるみたいな、嫌な音だ。
ルークたちは一斉に足を止める。
次の瞬間。
木々の向こうで、赤い目が三つ、闇の中に浮かんだ。
ひとつじゃない。
ふたつでもない。
三つだ。
そしてそのさらに奥、細い木の幹に、何か小さな影が縛りつけられているのが見えた。
子どもだ。
「……見つけた」
ルークが低く言う。
喉が、熱くなる。
間に合ったのかもしれない。
だが、その前に立ちはだかる三つの赤い目は、昨夜の森犬なんて比べ物にならない圧を放っていた。
低い唸り声が、また森に響く。
その中の一頭が、ゆっくりと前へ出た。
月明かりが、異様に盛り上がった肩と、赤黒く膨れた首筋を照らす。
普通の魔物ではない。
それは見ただけで分かった。
そして、その個体の後ろ足のそばに――砕けた小瓶の破片が転がっていた。




