ベルクハイムの城門
夜明けは、森犬の騒ぎが嘘みたいに静かだった。
村の広場には薄い朝靄がかかり、昨夜あれだけ張りつめていた空気も、今は少しやわらいでいる。
ルーク・フレイアスは、空き家の戸を開けて外へ出た。
冷たい朝の空気が頬に触れる。
広場では、もう何人かの村人が起き出していて、井戸から水を汲んだり、簡単な朝の支度を始めたりしていた。
みんな、疲れた顔はしている。
けれど、昨夜までのような怯えきった表情ではない。
ちゃんと朝を迎えられた、というだけで、人の顔はこんなにも変わるのだとルークは思った。
「おはようございます」
後ろから声がして、振り返るとレイナが出てきた。
「おはよう。ちゃんと寝られた?」
「途中で起こされましたけど……でも、思ったよりは」
そう言いながら、レイナは少しだけ笑った。
「ルークさんは?」
「僕も同じかな」
森犬の群れを押し返したあと、すぐにまた眠れるほど図太くはない。
けれど、無事に夜を越えられた安心感はあった。
その時、広場の端から軽い足音が近づいてくる。
「起きてたか」
カナンだった。
灰色のマントを肩に引っかけたまま、片手を上げる。
「おはよう」
「おはようございます」
カナンは二人の顔を見比べて、少しだけ口元を緩めた。
「見た感じ、ちゃんと立てそうだな」
「そっちもね」
「俺は元々こういうの慣れてる」
そう言うわりに、目の下には少しだけ寝不足の色がある。
でも、足取りは軽い。
やっぱり旅慣れているのだろう。
「昨夜の大きい森犬、どうなったんですか?」
レイナが尋ねると、カナンは肩をすくめた。
「逃げた群れの方は森へ戻った。でかいのは……」
そこで、ルークを見る。
「ルークが入れたままか?」
「うん。念のため」
昨夜、最後に収納したあの一頭は、まだ《無限インベントリ》の中にある。
東部で見た異常個体ほどはっきりした違和感はなかった。
でも、普通とも言い切れない気配があった。
「ベルクハイムに着いたら、ギルドか警備の人に見てもらった方がいいかも」
ルークがそう言うと、ミハイルがちょうど後ろから歩いてきた。
「その方がいいでしょうね」
彼はまだ少し眠そうだったが、声は落ち着いていた。
「街道沿いで魔物が荒れている原因が、単なる飢えだけとは限りません。気になるものは持ち込んでもらった方が助かります」
やはり、そうか。
大事になるかどうかはまだ分からない。
でも、見過ごさない方がいい気がした。
◇ ◇ ◇
朝食は、昨夜よりも少しだけにぎやかだった。
村人たちが、ありったけのもので簡単な食事を用意してくれたのだ。
温めた黒パン。
薄い野菜の煮込み。
少し酸味のある干し果物。
豪華ではない。
でも、昨夜より確実に空気が明るい。
「夜のうちにまた襲われるんじゃないかって、みんな眠れなかったんだ」
村長が、器を手にしながら言った。
「だが、お前さんたちのおかげで、今日はちゃんと朝飯が食える」
「それなら、よかったです」
ルークがそう答えると、村長は大きく頷いた。
「ベルクハイムまで行くんだったな」
「はい」
「街の人間にも伝えてくれ。こっちは何とか持ちこたえてるが、道の先はまだ不安が多いってな」
ミハイルがその言葉を受けて、真剣な顔で答える。
「必ず」
そこへ、昨日の布人形の少女が、こそこそとルークのそばへ寄ってきた。
「あの」
「ん?」
彼女は、小さな布袋を差し出してきた。
「これ、もってって」
中には乾いた木の実が少し入っていた。
たぶん、この子にとっても大切な食べ物なのだろう。
「いいの?」
「うん。たすけてくれたから」
ルークは一瞬ためらった。
もらっていいものか。
でも、その顔は“受け取ってほしい”とまっすぐ言っている。
「……じゃあ、ありがたくもらう」
そう言って受け取ると、少女はほっとしたように笑った。
こういう小さなやりとりが、旅の中ではきっと宝物になるのだろう。
◇ ◇ ◇
出発は、朝日がしっかり昇ってからになった。
村人たちが見送る中、《星灯の止まり木》とミハイル、そしてカナンは南街道へ戻る。
村の入口で、昨夜の村長が大きな声を張った。
「《星灯の止まり木》! 忘れんぞ!」
その声に、広場にいた人たちも一斉に手を振ってくれる。
まだ一度立ち寄っただけの村だ。
でも、名前を覚えてもらえた。
それが、なんだかすごく嬉しかった。
街道へ出て、しばらく歩いたところで、レイナがぽつりと言う。
「……昨日より、名前がしっくりします」
「うん」
ルークも頷く。
「僕もそう思った」
「最初は、ただ“こういう意味を込めたい”って感じだったのに……」
「今は、少しずつ本当にそうなってる気がする」
レイナはそれを聞いて、小さく微笑んだ。
その横顔は、旅に出る前よりずっと晴れているように見えた。
◇ ◇ ◇
昼前、問題の橋へたどり着いた。
豪雨で一部が崩れたと聞いていた場所だ。
実際に見ると、想像以上にひどい。
石橋の中央が崩れ落ち、下を流れる川はまだ少し濁っている。
「ここまでは、馬車も普通に通れてたんですけどね」
ミハイルが眉をひそめる。
「今は完全に無理です」
だが、徒歩ならどうにかなる。
問題は、持っている荷だ。
ただし――今回、それはほとんど問題にならない。
「先に僕が渡るよ」
ルークが言う。
「ロープを張れれば、みんなも安全に行けるはず」
川幅はそこまで広くない。
崩れていない橋の端を使えば、飛び越えられなくもない距離だ。
「危なくないですか?」
レイナが少し不安そうに言う。
「荷物がないなら、かなり楽」
「……それもそうですね」
ルークは《無限インベントリ》に荷をすべて収め直し、助走をつけた。
一歩。
二歩。
三歩。
崩れた橋の手前を踏み切って、向こう岸へ飛ぶ。
「っ……!」
少しだけ足元が滑りかけたが、すぐに体勢を立て直す。
渡れた。
「よし」
振り返って手を上げると、向こうでレイナがほっと息をつくのが見えた。
そこからは早かった。
ロープを固定し、ミハイルが順に渡る。
カナンは身軽に越え、最後にレイナも慎重に足を進めてこちらへ来た。
「大丈夫?」
ルークが手を差し出すと、レイナはその手を取って最後の一歩を踏み越える。
「……はい。ありがとうございます」
手を離したあと、ほんの少しだけお互いに気まずくなる。
でも、それもすぐにカナンの声で流れた。
「見ろ」
彼が指差した先、街道の先に、城壁が見え始めていた。
王都ほど大きくはない。
けれど、しっかりした石壁と門を備えた街だ。
「あれがベルクハイムです」
ミハイルの声に、レイナが少しだけ息を呑んだ。
「……本当に、別の街なんですね」
「当たり前だけどね」
ルークもそう返しながら、同じことを感じていた。
王都の外に、自分たちの知らない街がちゃんとある。
それが妙に新鮮だった。
◇ ◇ ◇
ベルクハイムは、王都よりも一回り落ち着いた街だった。
城門は厚い木と鉄でできていて、門番の鎧には王都とは違う紋章が入っている。
出入りする人も、商人や旅人が多い。
交易都市らしい匂いだった。
門前まで来ると、警備兵が槍を軽く立てた。
「止まれ。所属と目的を」
ミハイルが前へ出て、紹介状を差し出す。
「ベルクハイム復旧支援の依頼により、王都からの支援組を連れて戻りました。物資も運んでいます」
門兵は書状を確認し、それからルークたちを見た。
「王都の支援組?」
「はい」
ルークが答えると、門兵の視線が荷の少なさに向かう。
「……物資は?」
「僕が持ってます」
「は?」
当然の反応だった。
ミハイルが苦笑しながら補足する。
「収納系の特殊スキル持ちです。中へ通してもらえれば、倉庫前で一括受け渡しできます」
門兵はしばらく怪訝そうな顔をしていたが、やがて「話には聞いていた」と小さく呟いた。
「お前たちが《星灯の止まり木》か」
ルークは少し驚いた。
「もう名前が?」
「支援組が来るとは聞いていた。変わった名前だからな」
門兵はそこで、わずかに口元を緩めた。
「悪くない。旅人向きの名前だ」
それは、昨日の村長と似た感想だった。
王都の外でも、そう受け取られる。
それがルークには嬉しかった。
「通っていい。だが、街の中も今は少し騒がしい。油断はするな」
門が開く。
その向こうに、ベルクハイムの街並みが広がっていた。
石造りの建物が並び、商店の看板が揺れ、遠くでは鐘の音が響く。
知らない街。
知らない人々。
でも、ここにも確かに暮らしがある。
ルークは一歩、門をくぐった。
《星灯の止まり木》の旅は、王都の外で、今また新しい一歩を刻み始めていた。




