南へ向かう道
出発の朝は、まだ空が白み始めたばかりだった。
王都グランヴェルドの街は静かで、石畳を渡る風だけが、ひんやりと頬を撫でていく。
そんな中、三日月亭の食堂だけは、いつもより少し早い時間から灯りがついていた。
「ほら、ちゃんと食べてから行きな」
ツネが、湯気の立つ皿を二人の前に置く。
焼きたてのパンに、塩気のきいたベーコン、野菜たっぷりのスープ。
それに、持ち歩きやすいように包まれた焼き菓子の包みまで、きっちり用意されていた。
「ありがとうございます」
ルークが頭を下げると、向かいに座ったレイナも同じように頭を下げた。
「本当に、お世話になります」
「何言ってんだい。出発前の飯くらい、どーんと食べていきな」
ツネはそう言って笑い、メリアは少しだけ寂しそうに、それでも明るく声を上げた。
「お菓子、多めに入れておきました! 移動中って、疲れると甘いもの欲しくなると思うので!」
「助かるよ」
ルークが受け取ると、メリアはほっとしたように笑った。
「ベルクハイム、遠いんですよね……」
「王都から普通に行けば三日から四日だって」
「うわぁ……」
メリアが目を丸くする。
「でも、初めての遠出なんですよね。……なんだか、ちょっとだけ羨ましいです」
「羨ましい?」
「はい。だって、知らない街とか、見たことない景色とか、いっぱいあるんでしょう?」
その言葉に、ルークは少しだけ考える。
正直、不安がないわけじゃない。
でも、王都の外に出ることを思うと、胸が少し高鳴るのも本当だった。
「……帰ってきたら、どんなところだったか話すよ」
「ほんとですか?」
「うん」
そう答えると、メリアはぱっと表情を明るくした。
「じゃあ、楽しみに待ってます!」
そのやり取りを聞いていたダンが、厨房の奥から低い声で言う。
「無理はするな。持てるからって抱え込みすぎるなよ」
「……はい」
短い言葉なのに、妙に胸に残った。
助けに行く旅だ。
でも、自分たちがちゃんと帰ってくることも、同じくらい大事なのだと分かる。
◇ ◇ ◇
ギルド本部へ着くと、朝早いにもかかわらず、受付前ではすでに出発準備が進んでいた。
物資の確認をする職員たち。
封を確認する書記。
馬車ではないのに、旅支度らしい慌ただしさがある。
「あっ、お二人とも!」
リーナがルークたちに気づいて駆け寄ってくる。
「これ、旅程表と通行証です。南街道の検問で見せれば通れます。それと、ベルクハイム側の受け入れ窓口の紹介状も」
「ありがとうございます」
ルークが受け取ると、リーナは少しだけ真面目な顔になった。
「王都の外へ行くの、初めてですよね」
「うん」
「……ちょっと心配ですけど」
そこで、彼女はふっと笑った。
「でも、お二人なら大丈夫だと思ってます」
レイナもやわらかく頷く。
「ちゃんと帰ってきます」
「はい。お願いします」
その時、奥からミハイルが姿を見せた。
「お待たせしました。こちらも準備は済んでいます」
今回の依頼は、ベルクハイムから来たミハイルが帰路を兼ねて同行することになっている。
土地勘のある案内役がいるのは心強い。
「では、行きましょうか」
ルークがそう言うと、レイナも小さく息を吸って頷いた。
《星灯の止まり木》としての、初めての旅の始まりだった。
◇ ◇ ◇
南門を出ると、王都の外の景色が大きく開けた。
街道の両脇にはなだらかな草地が続き、その向こうには低い森と、さらに遠くには青い丘陵が見える。
王都の中にいる時より、空がずっと広かった。
「……すごいですね」
レイナがぽつりと呟く。
「うん。なんか、思ってたより広い」
「同じ空のはずなのに、全然違って見えます」
王都育ちの二人にとって、城壁の外を何日も歩く旅はほとんど未知のものだった。
ミハイルが前を歩きながら言う。
「南街道は比較的安全です。けれど、今回は豪雨の影響であちこち道が悪くなっている。無理に急がず、足元だけは気をつけてください」
「分かりました」
ルークはそう答えながら、背中の軽さを改めて感じていた。
食料も毛布も薬も、ほとんど全部《無限インベントリ》の中だ。
荷物の重さに悩まされず歩けるのは、旅の上でも大きい。
しばらく進んだところで、街道脇に小さな祠があった。
旅人の安全を祈るための場所らしい。
ミハイルが立ち止まり、軽く頭を下げる。
それを見て、レイナも自然に足を止めた。
「……何か、祈るんですか?」
ルークが尋ねると、ミハイルは少し笑った。
「南へ出る者は、わりとみんなやります。必ずしも信心深いわけじゃなくても、旅の無事を願うのは悪くないものですよ」
レイナはそっと両手を合わせた。
ルークも、見よう見まねで一礼する。
祈りというより、決意に近いものだった。
ちゃんと行って、ちゃんと戻る。
その当たり前のことを、心の中で静かに確かめる。
◇ ◇ ◇
昼前、最初の休憩地に着く少し前だった。
風に混じって、金属のぶつかる音が聞こえた。
続いて、獣の低い唸り声。
ルークは足を止め、ミハイルと顔を見合わせる。
「前で何かやってる」
レイナもすぐに杖へ手を伸ばした。
「行きましょう」
街道の先を駆けると、そこでは一台の小さな荷車が道の端で傾き、三頭の灰色の獣に囲まれていた。
荷車の前には、灰色のマントを羽織った若い男が立っている。
年は二十代前半ほど。
短く整えた黒髪に、軽装の革鎧。
片手には短剣、もう片手には投げナイフを握っていた。
「ちっ、まだ来るか!」
男が舌打ちする。
獣は《牙走りジャッカル》だ。
本来なら街道の近くまでは下りてこないはずの魔物だが、飢えているのか、荷車の匂いに引かれたのか、明らかに気が立っている。
「レイナさん、右!」
「はい!」
ルークは走り込みながら短く声を飛ばした。
正面の一頭が飛びかかってくる。
「収納展開!」
足元に光円が開き、ジャッカルの片前脚が沈む。
体勢が崩れたところへ、横から灰色マントの男の短剣が閃いた。
「助かる!」
すぐに二頭目がルークを狙ってくる。
だがその瞬間、レイナの光が走った。
「《ライト・スラスト》!」
小さな光の槍が獣の顔前で弾け、目を眩ませる。
ルークはその隙に横へ回り込み、拘束網を投げた。
「今!」
「おう!」
灰色マントの男が網に絡まった獣の急所へ一気に刃を入れる。
最後の一頭は逃げかけたが、ミハイルの投げた短槍が足元に突き立ち、ルークの投擲ナイフが脇腹をかすめた。
威嚇するように唸っていた獣は、やがて諦めて森の方へ駆け去っていく。
静かになった街道に、全員の荒い呼吸だけが残った。
◇ ◇ ◇
「……助かった」
灰色マントの男は短剣を払ってから、ルークたちに向き直った。
「もう少しで荷ごと食われるところだった」
「怪我は?」
レイナがすぐに尋ねると、男は左腕を見た。
「浅い。噛まれてはいない」
「見せてください」
レイナが包帯を出すと、男は少しだけ驚いたように目を瞬かせたが、素直に腕を差し出した。
ルークはその間に、傾いた荷車と散らばった荷を見回す。
中身は薬草束と干し肉、それに手紙の入った箱らしい。
ミハイルが男を見て、目を見開いた。
「……カナン?」
「ん?」
男も、そこで初めてミハイルに気づいたらしい。
「ミハイルさん!? なんで王都側から来るんですか」
「こっちの台詞だ。お前こそ何をしてる」
カナンと呼ばれた男は、困ったように頭をかいた。
「ベルクハイムから王都へ向かってたんです。薬の追加要請と、街道沿いの被害報告を出しに。途中でこいつらに見つかって」
ルークはその名前を胸の中で繰り返した。
カナン。
斥候寄りの身軽な戦い方をする、旅慣れた感じの若者だ。
「俺はカナン・ヴェイス。ベルクハイムの冒険者です」
そう名乗って、彼はルークたちを見た。
「あんたたち、王都からの支援組?」
「うん。僕はルーク、こっちはレイナ。パーティーで来てる」
「へえ、パーティーで」
カナンの視線が、ルークの荷物の少なさと、散らばった荷車を見比べる。
「……もしかして、さっき荷車を消したのもあんた?」
「消したわけじゃなくて、入れたんだけど」
「同じようなもんだろ」
カナンは呆れたように笑った。
「こりゃ、話に聞いてたより便利だな」
「話に?」
ルークが聞き返すと、ミハイルが言った。
「ベルクハイムでも、王都から来る新しい支援役の話は回っていたんです」
「なるほど」
カナンは包帯を巻いてもらいながら、素直に礼を言った。
「助かった。正直、一人じゃ厳しかった」
レイナが結び目を整えながら微笑む。
「無事でよかったです」
「いや、ほんとにな」
カナンは立ち上がり、荷車を見てため息をつく。
「……で、これをどうしようかと思ってたところなんだけど」
ルークは少しだけ笑った。
「たぶん、それもなんとかできる」
◇ ◇ ◇
荷車の車輪は折れてはいなかったが、軸がずれていた。
このままでは進めない。
だがルークが《無限インベントリ》で荷をまとめて運べば、荷車そのものは後で回収でもいい。
「全部、ベルクハイム方面に運ぶんだよね?」
「そうだけど……」
「なら、途中まで一緒に行こう」
ルークがそう言うと、カナンは少し意外そうな顔をした。
「いいのか?」
「その方が早いし、安全だし」
ミハイルも頷く。
「ちょうどよかった。カナンは街道の脇道にも詳しい。橋の迂回路を知っているなら、案内してもらえると助かる」
「まあ、それはできるけど」
カナンは少しだけ笑って、ルークとレイナを見た。
「王都の冒険者って、もっとすましてるかと思ってた」
「どういう意味?」
レイナが首を傾げると、カナンは肩をすくめた。
「いや、名指しで呼ばれるようなやつらって、もっと気取ってるのかと」
ルークは思わず苦笑する。
「たぶん、そういうのは僕たち向いてないかな」
「見れば分かる」
カナンの返しが軽くて、少しだけ話しやすかった。
こういうタイプは、旅の途中だとありがたい。
道をよく知っていて、変に遠慮しすぎない相手は、空気を重くしないからだ。
◇ ◇ ◇
午後、四人は連れ立って南街道を進んだ。
ミハイルが全体の道筋を確認し、
カナンが地元の脇道や危険地点を教え、
ルークが荷のほとんどを持ち、
レイナが体調や傷の具合を見て回る。
形としては即席だが、妙に噛み合っていた。
途中、崩れかけた小橋の前で一度足を止める。
「ここ、本来なら馬車で渡れたんですけどね」
ミハイルが眉をひそめる。
橋板の一部が流され、中央が危うく抜けかけている。
普通なら大回りだ。
だが今回は違う。
「荷は全部僕が持てる」
ルークが言う。
「なら、人だけ慎重に渡ればいい」
「……そうか」
カナンが笑った。
「改めて考えると、旅向きだな、その力」
その言葉に、レイナが静かに頷く。
「私も、そう思います」
ルークは橋の向こう側を見た。
王都の外。
知らない土地。
知らない人たち。
でも、自分たちの役割は変わらない。
必要なものを届けること。
困っている人のところへ行くこと。
それなら、どこへ行ってもやることは同じだ。
◇ ◇ ◇
日が傾く頃、四人は最初の集落へたどり着いた。
街道脇にある小さな集落だ。
木柵と十数軒の家、井戸、共同倉庫。普段なら静かな場所なのだろうが、今はどこか沈んで見える。
子どもたちの声も少ない。
煙も薄い。
物が足りていない村の空気だった。
ルークたちの姿を見て、集落の男たちが警戒気味に寄ってくる。
だがミハイルが名乗り、王都からの支援だと告げた瞬間、その空気が変わった。
「き、来てくれたのか……!」
「毛布は!? 薬は!?」
「ある」
ルークは短く答え、広場の中央で《無限インベントリ》を開いた。
木箱が並ぶ。
水袋が出る。
毛布の束が積まれる。
村人たちの目がみるみる大きくなる。
「うそだろ……」
「こんなに、一度で……?」
驚きはすぐに安堵へ変わり、年配の女がその場で泣き出してしまった。
「よかった……本当によかった……」
その声を聞いた瞬間、ルークは胸の中で静かに思う。
ああ、これでいいんだと。
派手な勝ち方じゃなくてもいい。
こうして届くことで救われる人がいるなら、それで十分強い。
レイナはすでに子どもの咳を診ており、カナンは村の若者たちと周辺の危険地点を確認していた。
ミハイルは村長に報告を渡している。
自然と役割ができている。
旅の最初の一日としては、悪くないどころか、かなりいい。
◇ ◇ ◇
夕暮れの広場で、支援物資の受け渡しが落ち着いた頃。
村長の老人が、しわの深い顔でルークたちを見回した。
「王都の冒険者ってのは、もっと恐ろしい連中かと思ってた」
「恐ろしい?」
ルークが聞き返すと、老人は少し笑った。
「強いだけで、こっちの話なんか聞かんような連中を想像しておったよ。だが、お前さんたちは違うな」
その言葉に、レイナが小さくルークを見る。
ルークも少しだけ照れくさくなった。
でも、悪い気はしない。
「《星灯の止まり木》と言ったか」
村長は、ゆっくりその名前を口にした。
「いい名だ。旅の途中で見つけたら、ほっとできそうな名前だ」
その感想は、何より嬉しかった。
レイナの表情も、やわらかくほどける。
名付けたばかりの名前が、王都の外の人にもちゃんと届いた。
それだけで、この旅に出た意味が少し増えた気がした。
空の色は、もう夕焼けから群青へ変わり始めている。
ベルクハイムまではまだ遠い。
異変の影も、これで終わりではないだろう。
けれど、《星灯の止まり木》の旅は、もう確かに始まっていた。




