あたたかい席
翌朝。
ルーク・フレイアスが目を覚ました時、窓の外にはやわらかな朝日が差し込んでいた。
全身はまだ重い。
腕も足も、昨日の疲れがしっかり残っている。
けれど、それでも気分は不思議なほど軽かった。
(……助けられたんだ)
あの修道院の地下。
暗くて、冷たくて、泣き声ばかりが響いていた場所。
そこから九人の子どもたちを連れ出せた。
それだけで、昨日までの自分とは少し違う気がした。
ルークはゆっくり起き上がり、身支度を整えて階下へ降りる。
食堂にはもう、パンの焼ける匂いが広がっていた。
「ああ、起きたね」
ツネが振り向き、にっと笑う。
「昨日は見事に寝落ちしてたよ。呼んでも返事しないんだから、ダンと二人で運ぶの大変だったんだよ」
「す、すみません……」
「だから謝んなって。ちゃんと帰ってきたんだろ?」
ぶっきらぼうに言いながら、ダンが大皿をテーブルに置く。
焼きたてのパン。
卵とベーコンの炒め物。
それに、野菜がたっぷり入った温かいスープ。
見た瞬間、ぐぅ……と分かりやすく腹が鳴った。
それを聞いたメリアが、くすっと笑う。
「よかった。ちゃんとお腹は空いてるみたいです」
「メリアさん、おはよう」
「おはようございますっ!」
彼女はいつもより少し嬉しそうだった。
「ギルドの人から聞きました。子どもたち、みんな助かったんですよね?」
「うん。みんな生きてる」
そう答えると、メリアは胸の前で両手をぎゅっと合わせた。
「よかった……ほんとによかったです」
ルークは席につき、スープをひと口飲む。
熱が、体の中にじんわり広がっていく。
昨日は、助けることに必死で、落ち着いて何かを味わう余裕なんてなかった。
だからこそ、この一杯が妙に染みた。
「今日はギルドかい?」
ツネがパンを籠に追加しながら聞いてくる。
「はい。子どもたちの様子も見たいですし、報告の続きもあると思うので」
「そうかい」
ツネは短く頷く。
「じゃあ、ちゃんと腹に入れていきな。助けたあとに倒れちゃ、元も子もない」
「はい」
ルークは素直に答えた。
助けることができたからこそ、次も立っていられなきゃ意味がない。
そう思えるようになったのは、たぶん少しだけ成長したからだ。
◇ ◇ ◇
朝のギルド本部は、昨日までの慌ただしさが少し落ち着いていた。
それでも東部の件で職員たちは忙しそうに動いているし、冒険者たちも何かとざわついている。
けれど、その空気は昨夜よりずっと明るかった。
最悪の形では終わらなかったからだろう。
「ルークさん!」
受付に立っていたリーナが、ぱっと顔を上げる。
「おはようございます!」
「おはようございます」
「今日は先に保護室へ行きますか? レイナさんもそちらにいます」
「はい。そうします」
リーナは嬉しそうに頷いた。
「みんな、だいぶ落ち着いてきましたよ。……ノアちゃんも、さっきまで年下の子たちに毛布かけ直してました」
それを聞いて、ルークは少しだけ笑う。
やっぱりあの子は、そういう子なんだろう。
自分がつらくても、先に周りを見る。
強い子だと思う。
◇ ◇ ◇
保護室の扉を開けると、あたたかな空気が流れてきた。
中では、子どもたちが簡易ベッドに座って朝食を食べている。
パンをちぎる子。
スープをふうふう冷まして飲んでいる子。
まだ眠そうに目をこすっている子。
昨日まで暗い地下にいたとは思えないほど、少しずつ“普通の朝”に戻りつつあった。
「ルークさん」
レイナが振り返って微笑む。
その表情も、昨日よりずっとやわらかい。
「おはよう」
「おはようございます。みんな、夜はちゃんと休めたみたいです」
その時、奥にいた小さな男の子がルークに気づいた。
「あ、おにいちゃん!」
とてとてと駆けてきて、ルークの前でぴたりと止まる。
「おはよう」
「おはよう!」
顔色も悪くない。
ちゃんと食べて、ちゃんと眠れたのだろう。
「おなまえ、きのうきけなかった」
「そっか」
ルークはしゃがみ込んで目線を合わせた。
「僕はルーク。君は?」
「ユウト!」
「ユウトか。いい名前だね」
そう言うと、ユウトはちょっとだけ得意そうな顔をした。
その様子を見ていたノアが、少し離れたところから口を開く。
「ちび、昨日からずっとその話したがってた」
「べつに、ちびじゃない!」
「ちびでしょ」
「ちがう!」
言い返す元気があるなら、きっと大丈夫だ。
ルークはそのやり取りを見て、胸の奥がじんわりあたたかくなった。
「ノア、おはよう」
「……おはよう」
ぶっきらぼうな返事。
でも昨日より棘が少ない。
その時、ユウトがルークの袖を引っ張った。
「これ、あげる」
「え?」
小さな手の中には、少し歪んだ白い花が一輪あった。
たぶん、ギルドの中庭で摘んだのだろう。
「助けてくれたから」
ルークは一瞬、言葉を失った。
花なんて、もらったのはいつぶりだろう。
「……ありがとう」
そう言って受け取ると、ユウトは嬉しそうに笑った。
なんでもない、小さな花だ。
でも、昨日までの暗い地下には絶対になかったものだった。
◇ ◇ ◇
子どもたちの様子を見たあと、ルークとレイナは受付へ戻った。
するとリーナが、いかにも待っていましたという顔で書類を抱えている。
「お二人とも、少しお時間いいですか?」
「はい」
「なんでしょう」
リーナは一度咳払いしてから、ぱっと明るく笑った。
「昨日の救出任務と、これまでの実績を合わせた査定が出ました」
ルークは思わず背筋を伸ばす。
レイナも少し緊張したように息を呑んだ。
リーナは二人の顔を見て、もったいぶるように一拍置く。
「ルーク・フレイアスさん、レイナ・リーヴェルトさん。お二人とも、Dランクへの昇格が正式に決定しました」
「……え?」
「えっ!?」
今度は二人とも、きれいに声が重なった。
リーナが笑いながら書類を差し出す。
「おめでとうございます」
ルークは受け取った紙を見つめた。
ちゃんと、自分の名前がある。
その下に、Dランク昇格承認の文字。
(……本当に、上がったんだ)
追放された日。
森の中で焚き火を背に、一人きりになったあの日。
あの時の自分に、この紙を見せたら何と言うだろう。
「……ありがとうございます」
ようやくそれだけ言うと、リーナは嬉しそうに頷いた。
「こちらこそ、です。お二人とも、本当に頑張りましたから」
レイナはまだ少し信じられないような顔のまま、書類を見ていた。
「私まで、ほんとに……?」
「もちろんです。回復、支援、救助の連携、全部ちゃんと評価されています」
リーナの言葉に、レイナの目が少しだけ潤む。
「……よかった」
小さな声だった。
でも、その一言に今までの不安や努力が全部滲んでいた。
「それと、報酬も出てます」
さらにリーナが革袋を二つ置く。
「救出任務の特別加算も入っているので、今回はかなり多いですよ」
重みがある。
ルークが持ち上げた瞬間、それだけで分かった。
「……これ、すごい額なんじゃ」
「はい。すごい額です」
リーナはにこっと笑った。
「装備の更新もできますし、しばらくはかなり余裕があるはずです」
ルークは革袋を見つめた。
余裕。
その言葉が、胸の中で形になる。
生活の不安が減る。
依頼の選び方も変わる。
そして――
「……拠点」
「え?」
思わず口に出た言葉に、レイナが顔を上げる。
「いや、なんでも」
そう言いかけたところで、リーナが目を輝かせた。
「拠点、ですか?」
「え、いや、その……」
「いいですね、それ!」
リーナは少し身を乗り出す。
「Dランクになると、物資の量も増えますし、今後も一緒に動くなら、たしかに固定の場所があった方が便利です」
レイナも、自分の報酬袋を見つめながら静かに言った。
「……いつかは、そういうのも必要になりますよね」
ルークは頷くしかなかった。
まだ先の話だと思っていたのに、現実味が少しずつ出てきている。
◇ ◇ ◇
その日の昼。
ルークとレイナは三日月亭へ戻ってきた。
報酬の袋も、昇格の書類も、一度落ち着いて見返したかったからだ。
食堂へ入ると、ツネがすぐに気づく。
「ああ、来たね。で、どうだった?」
ルークとレイナは顔を見合わせた。
そして、同時に小さく笑う。
「Dランクになりました」
そう言った瞬間、ツネが目を見開き、メリアが「ええっ!?」と声を上げる。
「ほんとかい!」
「はい」
「やったああっ!」
メリアが飛び跳ねるように喜び、ダンが厨房の奥から低い声で言う。
「今日は祝いだな」
「祝いですね!」
メリアが即答し、ツネも大きく頷く。
「じゃあ、今夜は特別メニューにしようかね」
「えっ、そんな」
「遠慮すんな。昇格祝いなんだからさ」
ツネはそう言って腕を組んだ。
「いいかい、二人とも。こういう日はちゃんと祝うんだよ」
その言い方が妙に説得力があって、ルークとレイナは素直に「はい」と答えていた。
席につき、昼食を待っていると、ツネがぽつりと言う。
「で? パーティー登録はどうするんだい」
「まだ、名前を考えてるところです」
ルークが答えると、ツネは面白そうに笑った。
「なるほどね」
「それと……」
レイナが少し迷いながら続ける。
「いつか、拠点も持てたらいいねって話してました」
「ほう」
ツネの目が、少しだけ細くなる。
「いいじゃないか」
「でも、まだ先の話です」
「先の話でも、考え始めるのは早い方がいい」
ツネはきっぱりと言う。
「帰る場所ってのは、突然できるもんじゃない。少しずつ形にしていくもんさ」
その言葉に、ルークははっとする。
帰る場所。
昨日も、今日も、何度かその言葉が心に引っかかっている。
「……名前にも、そういう意味を入れたいのかもしれません」
ルークがそう言うと、レイナがやわらかく笑った。
「私も、それがいいなって思ってます」
ツネは満足そうに頷いた。
「なら、急がずしっかり決めな。名前ってのは、あとから効いてくるからね」
◇ ◇ ◇
夜。
三日月亭の食堂には、いつもより少しだけ明るい空気が流れていた。
テーブルには大皿料理が並び、香ばしい匂いが広がっている。
煮込み肉。
焼きたてのパン。
チーズを使った温かい料理。
それに、甘い果物のソースがかかったデザートまであった。
「うわ……」
ルークが思わず声を漏らすと、メリアが得意げに胸を張る。
「今日は昇格祝いですから!」
「これはすごいね……」
レイナも目を丸くしていた。
ツネが笑う。
「ほら、冷める前に食べな」
「いただきます」
「いただきます」
二人で声を揃えると、メリアが嬉しそうに笑った。
食事はどれも本当に美味しかった。
温かくて、しっかりしていて、体の芯に力が戻ってくる味だ。
途中、ダンがさりげなくルークの皿に肉を追加し、ツネがレイナのスープをおかわりしてくれる。
メリアは終始にこにこしながら、二人の反応を見ていた。
「……なんか、すごいですね」
レイナが小さく言う。
「うん」
「お祝いしてもらうのって、こういう感じなんですね」
その言葉に、ルークは少しだけ手を止めた。
自分も、こんなふうに祝ってもらうのは久しぶりだった。
いや、もしかすると初めてかもしれない。
戦果を求められたことはあっても、こうして“おめでとう”と食卓を囲んでもらったことはなかった。
「……悪くないね」
ルークがそう言うと、レイナはふわっと笑った。
「はい。すごく、いいです」
その笑顔を見て、ルークは胸の奥にあるものをはっきり感じた。
これが、自分の欲しかったものなのかもしれない。
強さだけじゃない。
誰かと同じテーブルを囲んで、帰ってきたと言える場所。
名前を付けるなら、そういうものがいい。
食事のあと、ルークはユウトにもらった小さな白い花を、部屋に持ち帰るためにそっと包んだ。
明日はまた、いろいろ考えることがあるだろう。
パーティーのこと。
名前のこと。
いつかの拠点のこと。
でも今日は、これでいい。
助けられた命があって。
昇格があって。
あたたかいごはんがあって。
それだけで、十分に満たされる夜だった。
窓の外には、王都の夜空が静かに広がっている。
ルークは胸の中で、まだ名前のない未来をそっと思い描いた。
――いつか。
ちゃんと、自分たちの帰る場所を作ろう。
その願いは、昨日より少しだけ、はっきりした形になっていた。




