帰る場所へ
修道院を出た頃には、空の色が少しだけ変わり始めていた。
夜の底を抜けて、朝が近づいている。
冷たい風が頬を撫でるたびに、ようやく終わったのだと実感が湧いてきた。
救出された子どもたちは、《無限インベントリ》の安全な区画に入っている。
泣いていた子も、ぐったりしていた子もいたが、少なくとももう、あの地下に閉じ込められてはいない。
ルークは何度もその中を確かめた。
みんな、生きている。
眠っている子。
怯えたまま小さく身を丸めている子。
毛布にくるまって、ようやく安心したように力を抜いている子。
それを感じるたびに、胸の奥の張りつめたものが少しずつほどけていった。
「……ルークさん」
隣を歩いていたレイナが、そっと声をかけた。
「はい」
「顔、少しだけやわらかくなりました」
「え?」
「ずっと、怖い顔してましたから」
そう言われて、ルークは思わず頬に手をやった。
「そんなに?」
「そんなにです」
レイナは疲れているはずなのに、少しだけ楽しそうに笑った。
その笑顔を見て、ルークもようやく小さく笑う。
「……たぶん、安心したんだと思う」
「私もです」
その一言だけで十分だった。
言葉を飾らなくても、今の気持ちは同じなのだと分かる。
前を歩いていたラザンが、後ろを振り返らずに言った。
「気を抜くのはギルドに着いてからにしろ」
「はい」
ルークとレイナは、ほぼ同時に返事をした。
すると少し前を歩いていたカイルが、ぼそっと言う。
「返事のタイミングまで同じかよ」
「……今それ言う?」
アゼルが疲れた顔で返し、リーネが小さくため息をついた。
「でも、悪くないんじゃない? ちゃんと息が合ってるってことでしょ」
その言葉に、ルークは少しだけ気まずくなって前を向いた。
レイナも、耳が少し赤くなっている気がした。
◇ ◇ ◇
王都へ戻ると、東門の前にはすでに受け入れの準備が整っていた。
担架。
毛布。
温かい飲み物。
子ども用の小さな服まで用意されている。
リーナが先頭で駆け寄ってきた。
「おかえりなさい! みなさん、無事で――」
そこで、ルークの顔と、後ろに続く隊の様子を見て、言葉を切る。
疲れてはいる。
傷もある。
でも、全滅した顔ではない。
そのことを一瞬で理解したのだろう。
「……助けられたんですね?」
ルークは、しっかりとうなずいた。
「はい。子どもたち、全員います」
「よかった……!」
リーナの目に、みるみるうちに涙がにじんだ。
だが彼女はすぐに職員としての顔へ戻り、きびきびと指示を飛ばす。
「受け入れ班、前へ! 温かい水と毛布を優先! 小さい子から順番に!」
「はい!」
ルークは王都東門の広場に、安全な区画だけを選んで《無限インベントリ》を開いた。
淡い光が揺れ、その中から子どもたちが一人、また一人と外へ出てくる。
「……わぁ」
「そらが、ある……」
「おひさま……」
まだ夜明け前なのに、子どもたちにはそれだけでも十分だったらしい。
泣き出す子。
呆然と空を見上げる子。
職員に抱きしめられてようやく声をあげる子。
レイナとマリエンがすぐにそばへ行き、一人ひとりに声をかける。
「大丈夫ですよ」
「もう安心していいわ」
「少しずつ、息を整えて」
ルークは最後に、あの黒髪の少女――ノアを外へ出した。
ノアは足元がふらつきながらも、転ばずに立った。
そしてまず最初に、自分より小さな子の方へ目を向けた。
「……ミア」
年下の女の子がそれに気づき、泣きながら飛びつく。
「ノアおねえちゃん……!」
「うん。もう大丈夫」
ノアはよろけながらも、その子をしっかり抱きしめた。
強いな、とルークは思った。
たぶん、あの地下でもずっとそうしていたのだろう。
怖いはずなのに、年下の子たちの前では、泣かないようにしていたのかもしれない。
リーナがノアに膝をついて目線を合わせる。
「お名前、聞いてもいい?」
「……ノア」
「ノアちゃんね。よく頑張ったわ」
そう言われた瞬間、ノアの顔がくしゃりと歪んだ。
きっと、頑張ったと認められるのを、ずっと我慢していたのだろう。
声を殺しながら泣くその姿に、ルークは胸の奥が熱くなるのを感じた。
◇ ◇ ◇
しばらくして、救出された子どもたちはギルドの保護室と、近くの教会へ分かれて運ばれていった。
軽い怪我や衰弱はあるが、命に関わる者はいない。
それが何より大きかった。
ラザンが広場の中央で短く告げる。
「今回の任務は成功だ」
その一言に、周囲の緊張がようやくほどけた。
衛兵たちも、《白銀の牙》も、職員たちも、小さく息を吐く。
ヴェルトが剣を下ろし、ルークの方へ来た。
「子どもは全員か」
「はい。九人です」
「よし」
それだけだった。
けれど、その「よし」には、前よりずっと重みがあった。
アゼルもローブの袖で汗を拭いながら近づいてくる。
「……お前のスキル、ほんと反則だな」
「え?」
「悪い意味じゃねぇよ。あれだけ人数いて、一人も取りこぼさないんだから」
言い方はぶっきらぼうだが、今のははっきり褒め言葉だった。
カイルは腕を組んだまま、少しだけ顔を逸らして言う。
「助ける側であんなに動けるなら、もう誰も荷物持ちとか言わねぇだろ」
ルークは返す言葉に少し迷ってから、素直に頭を下げた。
「……ありがとうございます」
その横で、リーネがレイナに向き直る。
「あなたもよく持ったわね。最後まで回復を切らさなかったの、立派だった」
「い、いえ……私は……」
「謙遜しなくていいの。あの場で支え続けるのは、簡単じゃないわ」
そう言われて、レイナは少しだけ戸惑いながらも、小さくうなずいた。
ルークはその様子を見て、なんだか嬉しくなった。
レイナがちゃんと見られている。
必要な人として、認められている。
それが自分のことのように嬉しかった。
◇ ◇ ◇
救出の報告と確認が一段落した頃には、空はすっかり明るくなっていた。
ギルド本部の奥にある休憩室へ通され、ルークはようやく椅子に座る。
その瞬間、どっと疲れが押し寄せた。
「……あ」
思わず、変な声が出る。
今まで張っていた糸が切れたみたいに、手足の力が抜けたのだ。
向かいに座っていたレイナが、少しだけ目を丸くする。
「大丈夫ですか?」
「うん……たぶん、一気にきた」
「ふふ……私もです」
そう言いながら、レイナも椅子の背にもたれた。
その時、扉が開いて、リーナが入ってくる。
両手には湯気の立つカップが二つ。
「はい。甘いやつです」
「ありがとうございます」
「ありがとうございます……」
二人が受け取ると、リーナはほっとしたように笑った。
「今回は本当に、お疲れさまでした」
それから少し表情をやわらげて、続ける。
「子どもたち、みんな保護できました。今、温かい食事も出してもらってます。ノアちゃんも、年下の子たちのそばについてくれてます」
「そっか……」
ルークはようやく心の底から安心した。
助け出しただけでは終わらない。
その後に、ちゃんと休める場所がある。
それが、こんなにも大事なことなのだとあらためて思う。
リーナはさらに声を潜めた。
「あと……あの修道服の女の人ですが、まだ詳しくは分かりませんけど、ギルドと教会で預かって様子を見ています。今のところ、ルークさんのインベントリに入っていた時間が長かったおかげで、持ちこたえられてるみたいです」
「本当に……助かるんですか?」
レイナが不安そうに尋ねる。
リーナは少しだけ言葉を選ぶようにしてから答えた。
「すぐに元通り、とはいかないみたいです。でも……完全に手遅れではないって」
その言葉に、ルークもレイナも小さく息を吐いた。
全部を一度に救えたわけじゃない。
でも、手が届くところに戻せた命がある。
それは確かだ。
◇ ◇ ◇
しばらくして、ラザンが休憩室へ入ってきた。
二人は反射的に立ち上がろうとしたが、彼は片手を軽く上げて制した。
「座ったままでいい」
「はい」
ルークとレイナは姿勢を正す。
ラザンは二人を順に見て、短く言った。
「よくやった」
その一言に、これまでの苦労が報われるような気がした。
「今回の件で、お前たちの働きはギルド全体に知れ渡った。東部の異変はまだ終わっていないが、少なくとも今夜、お前たちは九人の命を助けた」
ラザンの声は静かだったが、重みがある。
「それは胸を張っていい働きだ」
ルークは、ぐっと喉が詰まるのを感じた。
褒められたことがないわけじゃない。
けれど、こうして真正面から“命を助けた”と言われるのは、初めてだった。
「……ありがとうございます」
やっとの思いで、それだけ返す。
ラザンは続けた。
「それと、今後のことだ」
ルークとレイナは顔を上げる。
「お前たち二人は、もう臨時で組んでいるだけの段階じゃない。今回の件で、それははっきりした」
レイナが少しだけ目を見開く。
ラザンの言いたいことは、分かった。
「急がせるつもりはない。だが、今後も一緒に動くつもりなら――正式に登録しておいた方がいい」
ルークは息を呑んだ。
正式なパーティー登録。
その言葉が、想像以上に重く胸へ落ちる。
追放されたあの日は、もう誰かと組むこと自体が怖かった。
でも今は違う。
レイナとなら、と思える自分がいる。
ラザンは立ち上がる前に、最後に言った。
「考えておけ。仲間というのは、言葉で決めるからこそ強くなることもある」
それだけ言って、部屋を出ていった。
静かな沈黙が落ちる。
ルークは手元のカップを見つめ、レイナは少しだけ俯いていた。
やがて、リーナが気まずさを和らげるように笑う。
「……まあ、その、今すぐじゃなくていいと思います」
「は、はい」
「でも、私としては……その、見てみたいです。お二人のパーティー登録」
そう言ったあと、少し照れたように咳払いをした。
「すみません、受付としてじゃなくて、個人的な感想が出ました」
レイナが、くすっと笑う。
「……ちょっと、分かります」
その声が柔らかくて、ルークも少し肩の力が抜けた。
◇ ◇ ◇
昼が近づく頃、ルークは保護室の前まで足を運んだ。
中では、救出された子どもたちが温かいスープを飲んでいる。
泣き疲れて眠っている子もいるが、みんなもう地下の暗闇の中にはいない。
その隅で、ノアが年下の子にパンをちぎって渡していた。
彼女はルークに気づくと、少しだけ気まずそうに目を逸らした。
「……なに」
「いや、ちゃんと食べてるかなと思って」
「食べてる」
短く答える。
でも、その声は少しだけやわらかかった。
ルークが部屋に入ると、小さな男の子が駆け寄ってきた。
「おにいちゃん!」
「うん?」
「ぼくたち、もうつれていかれない?」
その問いに、ルークは迷わず膝をついた。
「うん。もう大丈夫。ここには悪い人は来ない」
男の子はしばらくルークの顔を見つめてから、ようやく安心したように笑った。
その笑顔を見て、ルークは胸の奥がじんわり熱くなる。
助けられてよかった、と心から思えた。
ノアがその様子を見ながら、小さく呟いた。
「……ほんとに、助けに来たんだな」
ルークが振り向くと、彼女は少しだけ唇を尖らせる。
「大人って、口だけのやつ多いから」
「そっか」
「でも、あんたたちは来た」
ノアは目を伏せて、スープの器を握りしめた。
「……ありがと」
今度は前より、少しだけはっきりしていた。
ルークは小さく笑う。
「どういたしまして」
◇ ◇ ◇
夕方。
すべての確認が終わり、ルークとレイナはようやくギルドを出た。
空は茜色に染まり、王都の石畳はやわらかな光を返している。
「……長い一日でしたね」
レイナがぽつりと言う。
「うん。でも、悪くない終わり方だった」
「はい」
二人は並んで歩く。
〈三日月亭〉へ向かう道は、少しだけ遠回りしたくなるくらい穏やかだった。
しばらく無言で歩いたあと、レイナが小さく言う。
「正式な登録の話……」
「うん」
「……嫌じゃ、なかったです」
ルークはその言葉に、少しだけ目を見開いた。
レイナは前を向いたまま続ける。
「むしろ、ちゃんと考えたいなって思いました。ルークさんと一緒に、これからも動くなら」
心臓が、どくんと強く鳴った。
けれど今は慌てずに、素直に答えたいと思った。
「僕も、同じだよ」
その一言に、レイナの表情が少しだけやわらいだ。
二人の歩幅が、自然と揃う。
まだパーティー名もない。
正式な登録もしていない。
家だってない。
でも、少しずつ形になっていくものがある。
それはきっと、強さだけじゃない。
帰る場所とか。
隣にいてほしい相手とか。
一緒に進みたい未来とか。
そういうものだ。
王都の夕暮れの中、ルークは静かに思った。
――次も、ちゃんと守りたい。
その気持ちは、以前よりずっとはっきりと、胸の中にあった。




