閉ざされた修道院
夜の巡礼街道を、救出隊は一気に駆けていた。
先頭を走るのはラザン。
そのすぐ後ろに《白銀の牙》の四人。
少し距離を置いて、ルーク、レイナ、マリエン。
さらに後方を、衛兵たちが支えている。
月は高い。
けれど、その光は心細いほど薄かった。
道の両脇に伸びる木々は黒く、風が吹くたびに枝同士が擦れ合って、不気味な音を立てる。
ルークは走りながら、何度も《無限インベントリ》の中を確かめていた。
修道服の女は、まだ生きている。
苦しそうではあるが、悪化は止まっている。
(間に合ってくれ)
それが今の正直な気持ちだった。
前を走るレイナも、いつになく真剣な顔をしている。
杖を握る手に、迷いはない。
やがて、木々が開けた。
その先に――
「……あれが」
レイナが息を呑む。
古びた石造りの建物が、月明かりの下に立っていた。
《東聖母庇護修道院》。
半ば崩れた外壁。
蔦に覆われた窓。
そして、屋根の向こうに突き出した、小さな鐘楼。
昔は人を守るための場所だったのだろう。
だが今は、ただ暗く沈んでいる。
生きている建物には見えなかった。
ラザンが立ち止まり、短く指示を飛ばす。
「ここから先は二手だ。ヴェルトたちは正面から入って中の敵を引きつけろ」
「了解」
ヴェルトが即答する。
「ルーク、レイナ、マリエン。お前たちは裏手から入れ。目的は救出だ。中にいる人間を最優先で確保しろ」
「はい」
「分かりました」
ルークとレイナが同時にうなずく。
ラザンの視線が鋭くなる。
「絶対に、助けられる命を見捨てるな」
その言葉は短かったが、重かった。
ルークは強くうなずく。
「はい」
◇ ◇ ◇
修道院の裏手は、想像以上に荒れていた。
雑草が膝の高さまで伸び、井戸は崩れ、木製の物置は半ば朽ちている。
ルークたちは身を低くして進んだ。
マリエンが小声で言う。
「正面に気を取られてくれればいいけど……」
その時だった。
遠くで、轟音が響く。
正面玄関の方だ。
次いで、魔術の炸裂音と、獣のような叫び声。
《白銀の牙》がぶつかったのだろう。
「始まったみたいですね」
レイナが囁く。
「うん。今のうちに」
ルークは裏口へ駆け寄った。
木の扉は固く閉ざされている。
しかも、外からではなく内側から棒で塞がれているらしい。
「……収納」
ルークが扉の閂部分だけを指定すると、木の棒だけが音もなく消えた。
扉が、ぎ、と鈍い音を立てて開く。
中は真っ暗だった。
湿った空気。
古い木と埃の匂い。
それに、ほんのわずかに混じる薬品の臭い。
「行きます」
三人は足音を殺して中へ滑り込んだ。
廊下は長く、壁には色褪せた聖句の板がいくつも掛かっている。
だが、その下の床には、泥のついた足跡が新しく残っていた。
「誰か、最近まで使ってた……」
ルークが呟くと、マリエンが頷く。
「しかも一人や二人じゃないわね」
その時。
上階から、ばたばたと走る音が聞こえた。
何かが逃げているのではない。
何かが、集まろうとしている音だ。
「正面の戦いに反応してる」
ルークは廊下の先に目を向けた。
地下へ続く階段を探さなければならない。
修道服の女が言っていたのは、“鐘の下”“地下”。
つまり目指す場所は、鐘楼の近くにあるはずだ。
「鐘楼は……建物の右側でしたよね」
レイナが小声で言う。
「うん。なら、たぶんこの先だ」
三人は右手の回廊へ進んだ。
廊下の途中には、小さな礼拝室、食堂、物置らしき部屋が並んでいる。
どの部屋も散らかっていて、人が長く暮らしていた痕跡はない。
だが、一つだけ。
鍵の壊れた小部屋から、かすかなすすり泣きが聞こえた。
「……っ!」
レイナが足を止める。
ルークはすぐに扉を開いた。
中にいたのは、十歳にも満たないくらいの男の子だった。
膝を抱えてうずくまり、怯えきった目でこちらを見上げている。
「大丈夫」
ルークはすぐにしゃがみ込み、目線を合わせた。
「助けに来た。もう怖がらなくていい」
男の子は最初、何も言わなかった。
だがレイナがそっと近づき、やわらかい声で言う。
「私たちは味方です。痛いところ、ある?」
その一言で、張りつめていたものが切れたのか、男の子の目から涙があふれた。
「……みんな、したに……」
「地下にいるの?」
男の子は何度も頷く。
「おねえちゃんたちも……ちいさい子も……」
ルークはマリエンを見る。
「歩けそう?」
マリエンが素早く男の子を診る。
「少し弱ってるけど、大きな怪我はないわ」
「なら――」
ルークはやさしく声をかけた。
「少しだけ、狭くて暗いところに入ってもらうけど、安全な場所に移す。大丈夫?」
男の子は涙で濡れた顔のまま、不安そうに見つめてくる。
ルークはできるだけ穏やかに頷いた。
「すぐに出してあげる。約束する」
少し迷ったあと、男の子は小さく頷いた。
「……うん」
「ありがとう」
ルークは《無限インベントリ》を開き、隔離ではなく通常の安全な区画へ、そっと男の子を収納した。
今はもう、これが一番確実だ。
レイナがほっと息をつく。
「最初の一人、ですね」
「うん。まだいる」
男の子の言葉が胸に残る。
みんな、地下に。
◇ ◇ ◇
その頃、正面玄関では激しい戦いが始まっていた。
「邪魔だぁッ!!」
ヴェルトの大剣が、廊下を塞いでいた異形の獣をまとめて吹き飛ばす。
石床が割れ、壁にひびが走る。
「左から来るぞ!」
カイルが叫び、双剣で天井近くを這っていた人型の異形を切り落とした。
アゼルの火球がそれを焼き、リーネの回復光が仲間を支える。
戦いは厳しい。
だが、目的は単純だった。
敵を倒すことではない。
ルークたちが中へ進む時間を作ること。
「絶対に通すな!」
ヴェルトの声が廊下に響く。
その顔には、以前のような慢心はなかった。
ただ、守るべきものを守るために前へ出る戦士の顔だけがあった。
◇ ◇ ◇
ルークたちはついに、建物の最奥へたどり着いた。
そこには、円形の小部屋があった。
見上げれば、天井の上に鐘楼へ続く細い階段がある。
そして部屋の中央には、下へ続く石の階段。
「ここだ……!」
ルークが息を呑む。
地下からは、かすかに子どもの泣き声が聞こえていた。
レイナの表情が引き締まる。
「行きましょう」
三人は急いで階段を下りた。
地下は思っていた以上に広かった。
長い通路の両側に、鉄格子の部屋が並んでいる。
そして、その中に――
「……っ」
レイナが口元を押さえた。
子どもたちがいた。
幼い子。
少し年上の子。
毛布にくるまって座り込んでいる子。
泣き疲れて動けなくなっている子。
みんな怯えた目で、急に現れたルークたちを見ている。
「大丈夫だ!」
ルークは通路の真ん中で声を張った。
「助けに来た! もうすぐここから出られる!」
一人の女の子が、震える声で言う。
「……ほんと、に……?」
「本当だよ」
レイナがすぐに駆け寄り、鉄格子越しに微笑んだ。
「怖かったよね。もう大丈夫。順番に出していくから」
その声に、子どもたちの表情が少しだけゆるむ。
だが、鍵がかかっている。
しかも普通の鍵ではなく、黒い金具に魔力の嫌な感触がまとわりついていた。
「これ、普通に開けない方がいいかも」
マリエンが眉を寄せる。
「壊したら何か起こる?」
「たぶん、警報くらいはある」
ルークは短く考え、すぐに結論を出した。
「なら、鍵ごと消す」
鉄格子の扉、その鍵部分だけを《無限インベントリ》で収納する。
がこん、と重い音を立てて、一つ目の扉が開いた。
「すごい……!」
レイナが思わず声を上げる。
「片っ端から行くよ」
「はい!」
二人は手分けして部屋を開けていった。
一人、また一人。
子どもたちが通路へ出てくる。
歩ける子もいれば、立ち上がれない子もいる。
マリエンが簡単に怪我や熱を確かめ、レイナが回復魔法で支え、ルークが一人ずつ安全な区画へ収納していく。
「狭くてごめん。でも、すぐ安全なところに出すから」
「……うん」
「お兄ちゃん、こわくない?」
「大丈夫。絶対に守る」
そう声をかけるたび、子どもたちの小さな手が、ルークの服を掴んだ。
その重みが、胸にくる。
これだけの子たちが、こんな場所に閉じ込められていたのだ。
怒りが、静かに煮える。
「あと何人……?」
レイナが数えながら言う。
「八人……いや、九人目!」
最後の部屋の隅に、少し年上の少女が座っていた。
十四歳前後だろうか。
短く切った黒髪に、強い目。
他の子たちより痩せてはいるが、怯えるより先にこちらを値踏みするように見てくる。
「……ほんとに助けに来たの?」
「本当だ」
ルークが答えると、少女は少しだけ視線を細めた。
「遅い」
「ごめん」
思わずそう返すと、少女は一瞬だけきょとんとして、それから小さく顔を背けた。
「……別に。来たならいい」
レイナが扉を開ける。
少女は立ち上がったが、足元がふらついた。
ルークが支えると、少女は少し驚いたように目を見開く。
「歩ける?」
「平気」
強がってはいるが、無理は明らかだ。
「無理しないで。今は助かる方が先だ」
そう言うと、少女はほんの少しだけ黙り込んでから、ぼそっと言った。
「……じゃあ、頼む」
ルークはその少女も《無限インベントリ》へ収めた。
これで全員――
そう思った、その時。
地下の奥から、重い音が響いた。
ずん、と床が揺れる。
「……まだ何かいる」
マリエンが顔を上げる。
通路の最奥。
大きな鉄扉の向こうから、何かが壁を叩いていた。
どん。
どん。
どん。
「子どもじゃない」
ルークの声が低くなる。
レイナも杖を構えた。
「どうしますか」
「……見ないと終われない」
ルークは扉の前へ進んだ。
嫌な気配が濃い。
だが、ここを放置したまま子どもたちだけ連れて戻るのも危険だった。
背後からは、まだ正面の戦闘音が聞こえる。
時間は長くない。
「開ける。レイナさん、すぐ動けるように」
「はい」
ルークは鉄扉の閂部分を収納した。
次の瞬間、扉が内側から弾け飛ぶように開いた。
「っ!」
飛び出してきたのは、巨大な人影だった。
修道服の残骸のような布をまとってはいるが、もはや人間の形はほとんど残っていない。
背は二メートルを超え、片腕は異様に太く膨れ上がり、肩からは骨のような棘が突き出している。
顔の半分だけが、かろうじて人の面影を留めていた。
「……これ、まさか」
レイナの声が震える。
「見張り役……?」
異形は咆哮し、拳を振り上げた。
「下がって!」
ルークが叫ぶ。
拳が石床を砕き、破片が飛び散る。
まともに戦えば危ない。
でも、ここにはもう守るべき子どもたちはいない。
なら、やることは明確だ。
「収納展開!」
足元に光円が広がる。
異形は片足を取られ、わずかによろめいた。
「今です!」
レイナの光が、その顔面を打つ。
ひるむ。
そこへルークは拘束網を投げた。
網が異形の上半身へ絡みつき、動きを一瞬だけ止める。
「ルークさん!」
「うん!」
ルークは空中にも収納口を開いた。
足元、背後、頭上。
三方向から逃げ場を塞ぐ。
異形が暴れるたび、光の口が体の一部を飲み込む。
「まだだ……!」
腕がきしむ。
だが、ここで止めるわけにはいかない。
その時、遠くからヴェルトの声が響いた。
「ルーク! 無事か!」
「こっちは大丈夫!」
「なら、さっさと終わらせろ!」
次の瞬間、正面側の壁が一部吹き飛び、ヴェルトが飛び込んできた。
大剣を振り抜き、異形の肩を叩き斬る。
体勢が崩れた。
「今だ!」
ルークは叫んだ。
「収納――!」
光が一気に収束し、巨大な異形の体が、悲鳴のような音を立てながら《無限インベントリ》へ吸い込まれていく。
最後に拳一つ分ほどの異形化した腕が残ったが、それもヴェルトの一撃で弾かれ、完全に消えた。
静寂。
地下に残ったのは、荒い息だけだった。
「……終わった」
ルークが膝をつきそうになるのを、ヴェルトが片手で支えた。
「子どもたちは」
「全員、確保しました」
「そうか」
ヴェルトは短くうなずく。
「なら、勝ちだ」
その言葉は単純だった。
でも、今はそれが何よりしっくりきた。
◇ ◇ ◇
地上へ出ると、夜気がひどく冷たく感じた。
だが、その冷たさすら心地いい。
子どもたちは全員、《無限インベントリ》の安全な区画にいる。
修道服の女も、まだ生きている。
そして地下にいた異形も、封じた。
全部終わったわけじゃない。
黒幕はまだいる。
でも、今日助けられた命がある。
それが大きかった。
修道院の前庭では、衛兵たちが負傷者の手当てをしていた。
《白銀の牙》も傷だらけだが、全員立っている。
ラザンが現れ、ルークを見る。
「報告しろ」
「子どもは全員救出できました。最後に地下で見張り役みたいな異形と遭遇しましたが、封じました」
「よし」
ラザンはそれだけ言って、大きく息を吐いた。
そして、ほんのわずかに口元をゆるめる。
「よくやった」
その一言で、張りつめていたものが少しだけほどけた。
レイナも、目に見えてほっとしている。
マリエンが隣で微笑んだ。
「ちゃんと、助けられたわね」
その言葉に、ルークはようやく実感した。
本当に、助けられたのだ。
◇ ◇ ◇
帰路につく前、ルークは最後に、あの少し年上の黒髪の少女を外へ出した。
安全を確認した上で、毛布にくるまって座らせる。
少女は月を見上げ、それからルークを見た。
「……ほんとに外だ」
「約束したから」
「……うん」
短く答えたあと、少女は少しだけ黙り込んだ。
そして、ぶっきらぼうに言う。
「私、ノアっていう」
ルークは目を瞬かせた。
「ノア」
「助けてもらったのに、名前も言わないの変でしょ」
そう言って、少女――ノアは毛布をぎゅっと握る。
「……ありがと」
その声は小さかったが、確かだった。
ルークは少しだけ笑う。
「どういたしまして」
そのやりとりを、少し離れた場所でレイナが見ていた。
彼女もまた、やわらかく笑っていた。
夜はまだ終わっていない。
事件も、きっとこれで終わりではない。
けれど今は、それでいい。
助けられた命がある。
救い出した子どもたちがいる。
その事実だけで、前に進めると思えた。
遠く、崩れかけた鐘楼の上で、風が鳴る。
もうその音は、誰かを閉じ込める鐘ではない。
助けに来た者たちを見送る、夜の音だった。




