祈りの形をしたもの
資料室の空気が、一瞬で張りつめた。
“修道服を着た何か”。
その言葉が落ちた途端、レイナの顔色が変わったのを、ルークは見逃さなかった。
「詳しく、聞かせてください」
ルークが立ち上がると、伝令に来た職員は慌てて手元の記録板を見た。
「東部封鎖線の第三警戒路です。巡回中の衛兵二名が、林道を横切る人影を確認。最初は避難の遅れた民間人かと思って声をかけたそうですが……」
「……反応は?」
レイナが静かに問う。
「返事はなかったそうです。ただ、立ち止まって――そのまま、聞き取れない言葉を口にしていたと」
職員の喉がひくりと鳴る。
「その後、急に一人へ襲いかかった、と。負傷した衛兵は肩口を裂かれています。目撃したもう一人の話では、袖口から見えた腕が……人間の腕じゃなかったそうです」
資料室に沈黙が落ちた。
ルークはレイナを見る。
彼女は唇を引き結んだまま、机の端をぎゅっと握っていた。
怖がっている。
けれど、逃げる顔ではなかった。
「ラザン様は?」
ルークの問いに、職員は即座に答える。
「すでに封鎖線へ追加の衛兵を出しています。ただ、対象が本当に“人に見える何か”なら、討伐より確認を優先すべきだと。お二人にも現地確認をお願いしたいそうです」
「行きます」
ルークが答えるより早く、レイナが言った。
その声は少し掠れていたが、はっきりしていた。
「……レイナさん」
「大丈夫です」
そう言いながらも、彼女の指先には力が入っている。
「修道服、ということは……たぶん、教会絡みです。だったら、私も見なきゃいけないと思います」
ルークは一瞬だけ迷った。
だが、止める言葉は出なかった。
彼女が無理をしているのではなく、自分で立つと決めているのが分かったからだ。
そこへ、資料室の扉が再び開いた。
入ってきたのはリーナだった。息を切らしながら、小さな革袋を差し出してくる。
「これ、薬師会からです。封呪布、簡易浄化塩、それと……もし人型の異常個体だった場合の拘束札」
「ありがとうございます」
ルークが受け取ると、リーナは真っ直ぐに二人を見た。
「無茶はしないでください。確認優先。討伐しか選択肢がないと判断するまでは、できるだけ情報を持ち帰ってください」
「はい」
「……行ってきます」
レイナの返事に、リーナは小さく頷いた。
その目には、不安が滲んでいた。
でもそれ以上に、信じようとする意志があった。
◇ ◇ ◇
東門を出た頃には、空はまだ高く、陽は強かった。
けれど封鎖線へ近づくにつれ、風の温度が少しずつ下がっていく。
道中、しばらくレイナは無言だった。
ルークも、無理に話しかけることはしなかった。
ただ、第三警戒路へ向かう枝道に入ったところで、彼女がぽつりと口を開いた。
「……私、教会で育った時期があるんです」
ルークは歩幅を少しだけ緩める。
「育った、って……」
「両親が亡くなったあと、しばらく弟と一緒に、北区の小さな教会に身を寄せてました。そこで、読み書きと、簡単な治癒の祈りを教わったんです」
レイナは前を見たまま続けた。
「神官になりたかったわけじゃないんです。ただ……弟の発作がひどくて。少しでも、楽にしてあげたくて」
ルークは何も言わずに聞く。
彼女が自分から過去を話すのは、初めてだった。
「でも、教会って優しいだけの場所じゃありません。人を救う場所だからこそ、壊れた人もたくさん集まるし……捨てられたものも、隠されたものも、ある」
「……レイナさん」
「だから、昨日の礼拝堂を見た時、すごく嫌な感じがしたんです。ああいう場所って、信仰の形を借りると、簡単に“閉じた空間”になるから」
その言葉に、ルークは胸の奥が少し重くなるのを感じた。
祈る場所。
救う場所。
そういう場所が、実験や隠蔽の舞台にされていたのなら――レイナが動揺するのも当然だった。
「……話してくれて、ありがとう」
ルークがそう言うと、レイナは少しだけ困ったように笑った。
「黙ってると、たぶん、余計に変な顔しそうだったので」
「それは少し分かるかも」
「えっ」
「考えごとすると、表情に出るから」
それを聞いて、レイナは一瞬だけ目を丸くしたあと、ほんの少しだけ笑った。
その笑顔が見られただけで、ルークは少し安心した。
◇ ◇ ◇
第三警戒路の仮設詰所には、すでに数名の衛兵が集まっていた。
そのうち一人は肩を布で縛られ、椅子に座っている。血は止まっているが、顔色は悪い。
「来たか」
年嵩の衛兵長が二人へ向き直った。
「話は聞いてる。異常案件の優先協力者だな」
「ルーク・フレイアスです」
「レイナ・リーヴェルトです」
衛兵長は短く頷き、負傷した若い衛兵を示した。
「襲われたのはこいつだ。命に別状はないが、傷が妙だ。爪で裂かれたようでいて、焼けた跡もある」
レイナがすぐに膝をつき、傷口を確認する。
「……軽い浄化反応があります。でも、聖属性じゃない。似せてるだけです」
「似せてる?」
「はい。祈りや祝福に近い“形”を真似してる感じです。だから、余計に気持ち悪い」
その表現に、衛兵たちが顔をしかめた。
ルークは負傷者へ近づく。
「見たものを、できるだけ正確に教えてください」
若い衛兵は乾いた唇を舐めた。
「……最初は、修道女かと思ったんだ。頭から白いベールを被ってて、手には数珠みたいなものを持ってて」
「顔は?」
「ちゃんと見えなかった。いや……見えた、のかもしれないけど、覚えてない。気づいたら、すぐ近くにいて――祈るみたいに両手を合わせたと思ったら、次の瞬間、爪が伸びてた」
衛兵の肩が震える。
「声は、ずっと聞こえてた。祈りみたいな、歌みたいな……でも、言葉は一つも分からなかった」
ルークはその証言を頭の中で繋げた。
修道服。数珠。祈るような仕草。擬似的な浄化反応。
礼拝堂地下の実験施設と、あまりにも符合しすぎている。
「最後に見た場所は?」
衛兵長が地図を広げ、指を置く。
「ここだ。古い巡礼路の分岐。今は使われてない道だが、南東……つまり古い神殿跡の方面へ続いてる」
やはり、と思う。
流れは全部、そちらへ向かっていた。
「案内します」
衛兵長が言ったが、ルークは首を横に振った。
「封鎖線は維持してください。もし相手が人型で、しかも人間だった場合、衛兵の通常戦闘では逆に危険かもしれない」
「だが……」
「俺たちは、できるだけ確認と回収を優先します。見つけたら、すぐ連絡を返します」
レイナも隣で頷く。
「傷の浄化だけ先にやっておきます。この方は、絶対に安静に。変な発熱や錯乱が出たら、すぐ薬師会を呼んでください」
衛兵長は少し迷った末に、深く頭を下げた。
「……頼む」
◇ ◇ ◇
古い巡礼路は、すでに道の形を半分失っていた。
踏み固められていたはずの地面は苔と落ち葉に覆われ、ところどころ石碑の残骸が顔を出している。
その道を進みながら、ルークは何度も《状態解析》を使った。
そして、すぐに気づく。
周囲の空気そのものに、薄く魔力の滓が混じっている。
【周辺残留反応:祈祷系波形に偽装された異常魔力】
【進行方向:南東】
(偽装……)
(やっぱり、祈りを真似してる)
「レイナさん。こっちだ」
ルークが低く言うと、レイナはすぐに隣へ寄った。
「何か分かるんですか?」
「うまく言えないけど……スキルが、痕跡を拾ってる。たぶん対象はこの先にいる」
その時だった。
風に混じって、かすかな声が聞こえた。
歌っているようにも、泣いているようにも聞こえる、細い声。
二人は同時に足を止める。
「……聞こえましたよね」
「うん」
声は道の先、木立の向こうから流れてくる。
そこにあったのは、小さな墓地だった。
古い石の十字標が並び、半ば崩れた塀に囲まれている。
そして、その中央に――
一人、立っていた。
白ずんだ修道服。
泥と血で汚れた裾。
肩まで垂れたベールの下から覗くのは、痩せ細った顎の線。
両手には、確かに数珠が握られていた。
ただし、その指は人のものではない。
関節が不自然に長く、爪が骨のように尖っている。
「……っ」
レイナが息を呑む。
その“何か”は、墓標の前で祈るように膝をついていた。
口元はぶつぶつと動き続けている。
だが近づくにつれ、その祈りの言葉が、だんだん聞こえるようになった。
「――み、みちび、き……たま、え……」
レイナの顔色が変わる。
「これ……古い聖語です」
「分かるの?」
「一部だけ。でも、完全に正しくない……文が壊れてる」
ルークは喉がひりつくのを感じた。
それは祈りの真似事ではなかった。
祈りを、壊れたまま反復している。
まるで、最後の記憶だけがそこに残っているみたいに。
その時、ベールの奥の顔が、ゆっくりとこちらを向いた。
ルークは息を呑んだ。
顔の半分はまだ人間の女のものだった。
やつれてはいるが、確かに人の輪郭が残っている。
けれどもう半分は、赤黒く膨れた筋と裂けた皮膚に覆われ、片目だけが異様に白く濁っていた。
口元は裂け、牙のように変質した歯がのぞく。
「……人、だ」
ルークの口から、低く声が漏れる。
【対象:人間・女性】
【侵食率:六八%】
【精神状態:崩壊寸前】
【異常因子:高濃度】
【警告:急激な刺激で暴走確率上昇】
《状態解析》が、冷たく告げた。
人間。
異常個体ではあるが、元は間違いなく人だ。
「ルークさん……!」
レイナの声にも動揺が混じる。
その瞬間、修道服の女が立ち上がった。
ぎこちない。
だが次の一歩は、人とは思えない速度だった。
「下がって!」
ルークが叫ぶ。
同時に、女の数珠がばらりと千切れた。
珠が宙に散り、その一つ一つが白く発光する。
次の瞬間、それは小さな光弾となって二人へ降り注いだ。
「《フレアライト》!」
レイナが咄嗟に光で相殺する。
白い閃光がぶつかり合い、墓地の空気が爆ぜた。
「聖術……いや、違う!」
レイナが歯を食いしばる。
「形だけです! 中身が全然、別物!」
修道服の女が、祈るように両手を組んだまま、地を滑るように迫る。
その袖口から、刃のように伸びた爪。
「収納展開!」
ルークは足元に光円を開く。
だが女は異形ハウンドの時のように跳ばない。
むしろ真正面から踏み込んできた。
その瞬間、光円に片足が沈む。
体勢が崩れた。
ルークはそこへ煙幕玉を投げつける。
「レイナさん、目を閉じて!」
白煙が墓地を包んだ。
女の動きが一瞬止まる。
今なら行ける――そう思った時、煙の向こうから、かすかな声が聞こえた。
「……たす、け……て……」
ルークの手が止まる。
「っ……!」
人間の声だった。
苦しげで、掠れていて、けれど確かに“助けて”と言った。
「ルークさん、迷わないで!」
レイナが叫ぶ。
「死なせないなら、今しかありません!」
その一言で、ルークの中の躊躇が切れた。
殺すんじゃない。
助けるために、止める。
そう決める。
「生体指定――隔離収納!」
煙の中、複数の小さな収納口を同時に展開する。
片腕。
片脚。
背後。
逃げ道を削るように、光の口が女を囲んだ。
女が悲鳴とも祈りともつかない声を上げて暴れる。
だが、ルークは押し込んだ。
自分でも驚くほど、迷いなく。
「入れ――!」
最後に白煙ごと空間が歪み、修道服の女の姿が消えた。
静寂。
墓地には、千切れた数珠と、泥に汚れた足跡だけが残る。
ルークはその場に膝をつき、荒く息をついた。
「……入った」
「はい……!」
レイナも肩で息をしながら、ルークのそばへ駆け寄る。
「大丈夫ですか!?」
「うん、なんとか」
そう答えた瞬間、インベントリの内側で、またしても新しい感覚が弾けた。
【対象を隔離保管中】
【侵食因子と宿主反応を分離観測可能】
【警告:宿主生体反応、微弱ながら維持】
ルークの目が見開かれる。
「……生きてる」
「え?」
「まだ、生きてる。完全には侵食されてない」
レイナが息を呑み、次いで強く頷いた。
「じゃあ、急がないと……!」
彼女の声は震えていた。
怖さからではない。
希望が、ほんの少しだけ見えたからだ。
ルークは墓地に落ちた数珠の残骸を拾い上げる。
珠の一つに、小さな銀の飾りが付いていた。
そこに刻まれていた紋章を見た瞬間、レイナの表情が凍りついた。
「……これ」
「知ってるの?」
「はい……北区の小教会で、昔見たことがあります」
レイナの声がかすれる。
「王都東部に昔あった、孤児保護院付き修道院の印です。もう十年以上前に、火事で閉鎖されたって聞いてました」
ルークは数珠を握る手に力を込めた。
閉鎖された修道院。
古い神殿跡へ続く巡礼路。
礼拝堂地下の実験施設。
そして、人間を素材にしたかもしれない異常個体。
全部が、一気に現実味を帯びて迫ってくる。
「……戻ろう」
ルークは立ち上がる。
「今すぐ、ラザン様に報告しないと」
レイナも頷いた。
その横顔は青ざめていたが、目だけは逸らしていなかった。
もう、この件は“異常な魔物”の話ではない。
人が巻き込まれている。
しかも、おそらくかなり前から。
林道を引き返しながら、ルークはインベントリの奥を意識した。
隔離された修道服の女。
その命の火は、まだ消えていない。
救えるかもしれない。
でも同時に――
(もしこれが、一人目じゃなかったら)
その考えが頭をよぎった瞬間、背筋を冷たいものが這い上がった。
木々の間を抜ける風が、祈りの残響のように耳元を掠めていく。
そして王都へ続く道の先には、もう次の波が待っている気がした。




