封じられたままの証拠
翌朝。
〈三日月亭〉の食堂には、まだ朝のやわらかな光が差し込んでいた。
けれど、いつものような穏やかな空気とは少し違う。
ツネもメリアも、何も言わずにいるわけではないのに、どこか声を潜めている。
今日のルークが、ただ依頼へ向かうのではないと分かっているからだろう。
「……そんなに緊張した顔しなくても、朝飯は逃げないよ」
ツネが言って、テーブルに皿を置いた。
焼きたてのパンと、野菜を細かく刻んだ卵炒め。それに、鶏の骨から出汁を取った濃いめのスープ。
湯気と一緒に立ちのぼる香りは、昨日と同じように胃を刺激するのに、今日はなぜか喉の方が先に固くなる。
「そう見えますか?」
「見えるねぇ。あんた、考えごとすると眉間にちょっとだけ線が入るから」
「えっ」
思わず額に手をやると、メリアがくすっと笑った。
「本当ですよ。昨日の夜から、ずっとそんな感じでした」
「……そんなに分かりやすいんだ」
「分かりやすいです。でも、その方が安心します」
メリアはそう言って、ルークの前に小さな包みを置いた。
「これ、あとで食べてください。甘い焼き菓子。緊張した時って、ちょっと甘いもの入れた方が頭が回るので」
「ありがとう」
ルークが受け取ると、メリアは少し照れたように目を逸らした。
「ギルド長さん相手でも……ルークさんは、ルークさんでいてくださいね」
その言葉に、ルークは少しだけ肩の力が抜ける。
「うん。そうする」
食事を終え、外套を羽織って立ち上がる。
玄関を出る直前、ツネが背中越しに声を投げた。
「帰ってきたら、ちゃんと話しな。抱え込むのはよくない」
ルークは振り返り、小さく頭を下げた。
「はい。行ってきます」
◇ ◇ ◇
冒険者ギルド本部の朝は早い。
それでも今日のホールは、いつも以上に張り詰めて見えた。
通常依頼の受付列とは別に、東部方面の報告窓口へ人が集まり、職員たちが絶えず書類を運んでいる。
“異常個体”という言葉が、あちこちで聞こえた。
ルークが受付へ向かうと、リーナがすぐに気づいた。
「おはようございます、ルークさん。レイナさんはもう来ています」
案内された先は、いつもの小会議室ではない。
ギルド本部の奥。
重い扉をいくつも抜けた、地下へ続く石階段の先だった。
「……こんな場所、あったんですね」
ルークが思わず呟くと、リーナは振り返って小さく頷いた。
「機密保管区です。普通の冒険者は、まず入りません」
その声にも、いつもの軽やかさはない。
廊下の突き当たりにある黒い扉の前で、リーナは一度深呼吸した。
「ルークさん、レイナさん。中では見たこと、感じたことをそのまま話してください。推測は推測として添えてもらえれば大丈夫です」
「はい」
「わかりました」
二人が答えると、リーナは扉を叩いた。
「ルーク・フレイアスさん、レイナ・リーヴェルトさんをお連れしました」
「入れ」
低い声が返る。
扉の向こうにあったのは、応接室というより、簡素な作戦室だった。
中央の長机。
東部一帯の地図。
壁際の棚には封印箱や記録板が整然と並んでいる。
そしてその机の奥に、ギルド長ラザンが座っていた。
巨体。鋭い眼光。大戦鎚を背負わずとも、そこにいるだけで空気が引き締まる。
その隣には、長い銀灰色の髪を後ろで束ねた女が立っていた。
「情報部長のセラだ。昨日の報告はすでに受けている。座れ」
ラザンに促され、ルークとレイナは並んで椅子に座る。
真正面から向けられる視線に、喉が少しだけ乾く。
だが、逃げたいとは思わなかった。
ここまで来たのは、自分の足だ。
「まず礼を言う」
ラザンが口を開いた。
「お前たちが持ち帰った証拠がなければ、あの廃村の異常は“たまたま危険な個体が流れてきた”で片付けられていた可能性が高い」
「……いえ。俺たちは、見つけただけです」
「見つけて、持ち帰った。それができるやつは多くない」
短く言い切られ、ルークは口を閉じた。
隣でレイナも、少しだけ背筋を伸ばす。
「報告を聞こう。昨日、礼拝堂の地下で何を見た」
ラザンの問いに、ルークは順を追って話し始めた。
広場にあった《岩殻ボア》らしき巨大死骸。
胸部の破孔。
散乱していた紫色の薬瓶の破片。
礼拝堂内部の荒れ方。
動かされた祭壇の台座。
地下室に並んだ檻、注射具、魔族文字、そして薬剤反応。
レイナも補足する。
「魔族文字は、祈祷文ではありませんでした。個体管理や段階識別に近い記号です。少なくとも、行き当たりばったりの犯行ではないと思います」
セラが机上の記録板に何かを書き込んだ。
「継続的な運用を前提にした実験施設、か」
「さらに、地下で低位寄生体らしきものにも遭遇しました」
ルークが続ける。
「薬剤残滓を摂食して、不安定な状態でした。酸性の体液を持っていて、光属性への反応が強かったです」
ラザンの目がわずかに細くなった。
「……寄生体までいたか」
「それと」
ここで、ルークは一瞬だけ迷った。
どこまで話すべきか。
だが隠しても仕方がないと思い直す。
「俺の《無限インベントリ》が、異形ハウンドを収納した時に反応しました」
室内の空気が少し変わる。
セラの視線が鋭くなった。
「どんな反応だ」
「“異常因子を検出”“外部投与型魔力侵食を確認”……そういう感覚が、頭に流れ込んできました。あと、“隔離処理”というのも」
レイナがルークを見る。
昨日、細かい部分までは聞いていなかったのだろう。
ラザンは黙ったまま続きを待っていた。
「そのあと、スキルがレベルアップしました。《無限インベントリ》Lv3。新しく“状態解析”と“隔離保管”が使えるようになったみたいです」
「……みたい、か」
「はい。まだ全部は把握しきれてません。でも、危険なものを他と分けて保管できる感覚があります。たぶん、昨日持ち帰った証拠が劣化していないのも、その影響です」
数秒、沈黙が落ちた。
やがてセラが低く呟く。
「収納系で、そこまで……」
「普通、ありえん」
ラザンが断じた。
けれど、責める響きではなかった。
事実を切り出す、硬い声だ。
「ルーク。お前、自分のスキルについてどこまで知っている」
「……正直、ほとんど」
ルークは苦く笑うしかなかった。
「昨日までは、生きた相手の収納と、任意座標展開で驚いてたくらいです。今は、驚くことが増えすぎて、どこから驚けばいいのか分からなくなってます」
その返答に、セラがわずかに口元を和らげた。
ラザンも鼻で短く息を吐く。
「だろうな」
厳しい顔のまま、だがどこか呆れに近いものが混じっている。
「……昨日回収した現物は?」
「隔離してあります。必要なら出せます」
「一部だけだ。部屋全体を巻き込むようなことがあれば困る」
「はい」
ルークは机の端に空間を開き、隔離指定した小瓶の破片と、異形ハウンドから剥離した黒赤色の組織片を慎重に取り出した。
ほんの小片だ。
だが、室内の空気がぴりりと張る。
組織片は死んでいないかのように、内部で鈍く脈打っていた。
レイナが息を呑む。
「……まだ、動いてる……?」
「いや」
セラが身を乗り出し、封呪板越しに観察する。
「正確には、“止まりきっていない”。魔力侵食が進行する直前で、封じ込められている状態だ」
「ありえん」
今度は、ラザンではなく、部屋の隅で待機していた白衣の男が声を上げた。
薬師会から呼ばれていた解析官らしい。
「こんな状態で保てるなら、変異の過程を逆算できる……! 通常なら採取した瞬間から崩壊が始まるんだぞ!」
ルークは少しだけ身を引いた。
熱のある目で見られるのは、あまり慣れない。
「落ち着け」
ラザンの一言で、解析官ははっとして一歩下がる。
セラが組織片から目を離さずに言った。
「ルークのスキルは、単なる保管ではない。状態を制御している。少なくとも、因子の暴走を一時停止できるレベルで」
その結論は、ルーク自身にとっても重かった。
(状態を、制御……)
自分のスキルがそこまでのものだとは、まだ実感できない。
だが昨日の感覚を思い返せば、否定もできなかった。
「ラザン様」
セラが顔を上げる。
「結論として、東部廃村はただの放棄拠点ではありません。少なくとも中規模の実験施設。さらに、変異個体の経過観察まで行っていた可能性が高い」
「だろうな」
「そして、ルークの《無限インベントリ》は、現時点で唯一、安全に証拠物を保全できる手段です」
部屋が静まる。
ラザンはしばらく黙っていたが、やがて指を机に一度だけ打ちつけた。
「決まりだ」
その一言で、全員の視線が集まる。
「ルーク・フレイアス、レイナ・リーヴェルト。お前たちを本日付で東部異常案件の優先協力者に指定する」
「優先……協力者?」
ルークが聞き返すと、ラザンは頷いた。
「正式な常設部隊ではない。だが、通常依頼よりも上位の情報に触れる権限を与える。現場確認、痕跡記録、証拠回収。主任務はそこだ」
「戦闘は、必要なら他部隊が受け持つ」
セラが補足する。
「お前たちは“見つけて持ち帰る”ことに集中しろ。今の時点で、それができる人員は貴重だ」
ルークは息を呑んだ。
認められた、という感覚と。
もう普通の新人冒険者ではいられない、という感覚が同時に押し寄せる。
「……俺たちで、いいんですか」
「良いから呼んだ」
ラザンは即答した。
「現場に出たこともないやつが机上で騒ぐより、お前たちの目の方が信用できる」
その言葉に、レイナがそっと拳を握るのが分かった。
彼女もまた、必要とされたのだ。
「それと、もうひとつ」
ラザンが引き出しから銀色の小板を二枚取り出した。
それぞれに簡素な印章が刻まれている。
「臨時通行証だ。東部の封鎖区画、資料保管室、記録庫第二層への立ち入りが可能になる。なくすな」
リーナが驚いた顔をした。
「第二層までですか……?」
「状況が状況だ。出し惜しみしてる場合じゃない」
小板を受け取った瞬間、ひんやりとした重みが掌に乗った。
それは、責任の重さそのものだった。
◇ ◇ ◇
面談が終わったあと、ルークとレイナは資料室へ通された。
そこで廃村周辺の古地図や、過去十年分の魔物出現記録を照合することになった。
机に並ぶ資料を前に、レイナがぽつりと呟く。
「……なんだか、すごい場所まで来ちゃいましたね」
「うん」
ルークも素直に頷く。
「でも、不思議と逃げたい感じはしない」
「私もです。……怖いのに、見なきゃいけないって思うんです」
二人で地図を広げる。
廃村。旧倉庫。礼拝堂。森の異常死骸発見地点。
ひとつずつ印をつけていくと、ばらばらだった点が、ある方向へ偏っていることが見えてきた。
「……こっちだ」
ルークが指でなぞる。
「全部、南東に流れてる」
「古い神殿跡の方角……?」
レイナが記録と見比べ、顔を上げた。
「これ、偶然じゃない。発生地点じゃなくて、“移動先”が揃ってるんです」
ルークの背筋に、ぞくりと寒気が走る。
何かが、あちらから流れてきている。
いや。
流している、のかもしれない。
その時、臨時通行証を持った職員が慌ただしく部屋に入ってきた。
「ルークさん、レイナさん! ギルド長からです!」
「え?」
「東部の封鎖線付近で、新たな異常個体が確認されました! しかも今度は、魔物じゃありません!」
部屋の空気が凍る。
ルークが立ち上がる。
「……人間、ですか?」
職員は青ざめた顔で首を振った。
「まだ断定できません。でも、衛兵の証言では――」
ごくり、と唾を飲み込んでから、絞り出すように言った。
「“修道服を着た何か”が、東の林道を歩いていたそうです」
レイナの顔色が変わった。
廃村の礼拝堂。
地下の実験施設。
そして、修道服。
全部が一本の線でつながるような、不気味な感覚。
ルークは机の上の地図を見つめた。
南東。
古い神殿跡。
その先にあるものは、もう魔物だけでは済まないのかもしれない。
掌の中の通行証が、やけに冷たく感じられた。




