礼拝堂の下
礼拝堂の広場に、しんとした静けさが落ちていた。
さっきまでそこにいた異形の唸り声も、爪が石を削る不快な音も、もう聞こえない。
残っているのは、焼けた魔力の臭いと、レイナの荒い呼吸だけだった。
「……入った、んですよね……?」
レイナが杖を握ったまま、恐る恐る問いかける。
ルークは、広場の中央から視線を外さないまま、小さくうなずいた。
「うん。たぶん、完全に収納できた」
けれど、“たぶん”という言葉とは裏腹に、彼の意識は今、インベントリの内側へ引き込まれていた。
さっきまでにない感覚。
触れたものをしまう、といういつもの使用感ではない。
もっと深く、もっと細かく、取り込んだ対象の内側をなぞるような――そんな奇妙な感覚が、頭の奥に流れ込んでくる。
次の瞬間、視界の端に淡い文字が浮かんだ。
【異常因子を検出】
【対象:生体/変異個体】
【外部投与型魔力侵食を確認】
【隔離処理を実行しますか?】
「……っ」
ルークは思わず息を呑んだ。
「ルークさん?」
「だ、大丈夫。ちょっと……スキルが反応してる」
「スキルが?」
レイナが目を丸くする。
ルークは短く呼吸を整え、意識の中で“はい”を選んだ。
すると、インベントリの奥で何かがかちりと噛み合うような感覚が走った。
【隔離処理を開始】
【侵食進行を停止しました】
【スキルレベルアップ】
《無限インベントリ》Lv3
【新機能開放:状態解析】
【新機能開放:隔離保管】
「……レベル、上がった」
「えっ?」
「《無限インベントリ》、Lv3になったみたいだ」
レイナが驚きに目を見開く。
「そ、そんな……戦闘の最中に、ですか?」
「うん。しかも……」
ルークは自分の手を見つめた。
《状態解析》。
名前だけなら簡単だが、流れ込んできた情報は、それ以上の意味を持っていた。
収納した対象の状態を、ある程度“読み取れる”。
そして、危険なものを他の収納物から切り離し、時間停止に近い形で封じ込められる。
(隔離保管……)
(これ、もしかして、かなり危ないものでも安全に持ち帰れるってことか……?)
そこまで考えて、背筋がひやりとした。
便利、というより、規格外だ。
リーナが聞いたらまた頭を抱えるかもしれない。
「……ルークさん?」
レイナの声で、意識を現実に戻す。
「ごめん。今の異形、ただの暴走じゃなかったみたいだ。スキルが、“外部から侵食された”って反応してる」
「外部から……?」
「たぶん、何かを投与された。薬か、呪術か、それに近いもの」
レイナの顔色が少しだけ青くなった。
「やっぱり……人為的、なんですね」
「そう思う」
ルークは礼拝堂の暗がりへ視線を向けた。
さっきの異形がいた場所。
その奥からはまだ、濃い魔力の残り香が漂ってくる。
「……中を見よう」
「はい」
レイナも頷いた。
怖くないはずがない。
けれど彼女はもう、最初に会った頃のようにただ怯えるだけではなかった。
その変化が、ルークには少し嬉しかった。
◇ ◇ ◇
礼拝堂の中は、想像以上に荒れていた。
長椅子は薙ぎ倒され、祭壇の布は黒く焦げ、壁面には深い爪痕がいくつも刻まれている。
半壊した天井から差し込む光が、舞い上がる埃を白く照らしていた。
「……戦った跡、というより」
ルークが低く言う。
「何かが暴れた跡、ですね……」
レイナが言葉を継いだ。
床には黒ずんだ血の跡が点々と続いている。
それは祭壇の裏手へ、さらに奥へと伸びていた。
ルークは一歩ずつ進みながら、意識の片隅で《状態解析》を使ってみる。
すると、視界に薄く情報が重なった。
【床面付着物:血液・高濃度魔力残滓・薬剤反応あり】
【経過時間:半日以内】
(半日以内……)
つまり、ここは最近まで使われていた。
偶然残った痕跡なんかじゃない。
「レイナさん、これ……新しい」
「え?」
「昨日や一昨日の跡じゃない。たぶん、つい最近まで誰かがここにいた」
レイナがぎゅっと杖を握る。
「誰かって……人間、ですか?」
「まだわからない。でも、自然にこうはならない」
祭壇の裏へ回り込んだ瞬間、ルークは足を止めた。
「……これ」
祭壇の台座が、わずかにずれていた。
床石との間に、細い隙間がある。
しかも、周辺の埃の積もり方が明らかに違う。
最近、動かされた痕跡だった。
「隠し扉……?」
レイナが息を呑む。
ルークは台座の縁に手を添えた。
「収納、限定指定」
淡い光が祭壇の一部だけを包み込む。
次の瞬間、重たい石の台座が音もなく消えた。
そこに現れたのは、地下へ続く狭い石階段だった。
「……ほんとに、あった」
レイナが呆然と呟く。
地下からは、冷たい空気が吹き上がってきていた。
湿っているのに、どこか薬品めいた臭いが混じっている。
「気をつけて。たぶん、ここが本命だ」
「はい」
ルークを先頭に、二人は地下へ降りていく。
階段の先にあったのは、小さな地下室だった。
礼拝堂の地下室、というにはあまりにも異質な空間。
壁際には鉄製の檻が三つ並び、そのうち二つは内側から無理やりひしゃげている。
床には鎖、注射具のような細長い器具、割れた薬瓶。
そして、部屋の中央には、円形の魔法陣が焼き付けられていた。
「……ひどい」
レイナがかすれた声を漏らす。
檻の中には、魔物の毛や鱗らしきものがこびりついていた。
ここが何のための場所だったのか、考えるまでもない。
「……実験、してたんだ」
ルークの喉から、低い声が落ちた。
魔物を捕らえて、薬か何かを投与して、観察していた。
その結果が、森や廃村に転がっていた異常死骸なのだとしたら。
胸の奥に、鈍い怒りが広がっていく。
レイナは壁際にしゃがみ込み、慎重に床を見た。
「ルークさん、これ……」
指差した先には、文字が刻まれていた。
人間の共通語ではない。
見慣れない曲線と棘のような線が組み合わさった、異様な文字列。
「読めない……」
「でも、魔族文字に近い気がします」
レイナが小さく言った。
「教会で昔、禁書の複写を見たことがあって……完全にはわからないですけど、この並び、祈祷文じゃありません。もっと……記録とか、番号に近いかも」
「番号?」
「はい。“個体”とか、“段階”とか、そういう分類に使う文字に似てます」
ルークは床に目を落とした。
檻。薬瓶。番号。
ぞっとするほど、無機質な空間だった。
命を命として扱っていない。
「……証拠を回収しよう。持てるだけ」
「はい」
ルークは《無限インベントリ》を開き、薬瓶の破片、注射具、檻の金具片、床に染みた薬液のついた石片を次々に分けて収納していく。
しかも今は《隔離保管》がある。
危険物を他と混ぜずに保てる感覚が、はっきりわかった。
「これなら……」
思わず口をつく。
「どうしました?」
「いや。前より安全に持ち運べそうだと思って」
レイナは少しだけ安心したように頷いた。
その時だった。
地下室の奥。
ひしゃげた檻の影から、ぬるりと何かが動いた。
「……っ!」
ルークが即座に短剣を抜く。
現れたのは、人の頭ほどの大きさの黒い塊だった。
表面は粘液に覆われ、ところどころに硬質な骨片のようなものが混じっている。
目も口も曖昧なのに、中央だけが脈打つように赤く光っていた。
「なに、これ……」
レイナの声が震える。
【対象:低位寄生体】
【状態:異常薬剤残滓を摂食/不安定】
《状態解析》が反応する。
(寄生体……?)
次の瞬間、その塊が跳ねた。
「レイナさん、下がって!」
ルークは床にナイフを滑らせ、寄生体の進路を逸らす。
ぶつかった石壁がじゅっと音を立てて溶けた。
「酸っ……!」
「《ライトバースト》!」
レイナの放った光が寄生体を直撃する。
だが塊は完全には消えない。
むしろ弾けるように分裂し、二つになった。
「面倒だな……!」
ルークは即座に判断した。
短剣で斬るのは悪手だ。
増える可能性がある。
「収納展開、限定!」
足元に小さな光円を開く。
分裂した片方がずぶりと沈んだ。
もう片方は壁を這って逃げようとする。
「させない!」
レイナが杖を突き出した。
「《ピュア・レイ》!」
細い浄化光が一直線に走り、逃げかけた寄生体の中心を貫く。
赤い核が弾け、塊は灰のように崩れ落ちた。
静かになった地下室に、二人の呼吸だけが響く。
「……今のも、実験の副産物……?」
「たぶん。薬の残りを食べて変質したのかも」
ルークは額の汗を拭った。
嫌な場所だ。
長居するほど危険が増す。
しかも――
「ルークさん」
レイナが階段の方を見る。
「上……音がしませんか?」
耳を澄ます。
確かに。
地上で、石を踏む音がした。
一つではない。
複数。
「……囲まれた」
ルークの声が低くなる。
礼拝堂の中に、何体か入り込んできたらしい。
さっきの異形の絶叫を聞きつけたのかもしれない。
「どうしますか……?」
「証拠は確保した。ここで消耗するより、持ち帰る方が大事だ」
ルークは地下室を見渡した。
そして、ひしゃげた檻に目を止める。
「少し荒っぽいけど……出口を作る」
「え?」
「この地下室、礼拝堂の真下だけじゃない。たぶん壁の向こう、外周に近い」
《状態解析》と収納の感覚を重ねる。
空間の広がりが、ぼんやりとわかる。
まだ完璧ではない。
でも、いける。
「収納、壁面指定――一部抜去!」
地下室の外壁の一角が光に包まれ、次の瞬間、ごっそりと消えた。
土がむき出しになる。
向こうには細い空洞。
昔の排水路か、基礎の隙間か。
「通れます!」
レイナが声を上げた。
「急ごう」
二人は荷物を抱え、狭い穴へ滑り込む。
その直後、礼拝堂の階段上で何かが吠えた。
ガン、と地下室の扉が揺れる。
間一髪だった。
土にまみれながら抜けた先は、礼拝堂の裏手にある茂みの中だった。
陽はまだ高い。
だが気分は、夜の底から這い上がってきたように重かった。
「……逃げ切れましたね」
レイナがへたり込みそうになりながら言う。
「うん。でも、あそこはもう“狩場”じゃない。完全に誰かの拠点だった」
ルークは礼拝堂の方を振り返った。
崩れた塔の向こうに、黒い鳥が何羽も舞い上がっている。
胸騒ぎが、消えない。
(あれは、偶然見つけた場所なんかじゃない)
(もっと早く、誰かが使ってた)
そして、おそらく――今もどこかで続いている。
◇ ◇ ◇
王都へ戻った頃には、空が赤く染まり始めていた。
ギルドへ駆け込むなり、リーナが椅子を蹴りそうな勢いで立ち上がる。
「ルークさん! レイナさん! 無事ですか!?」
「なんとか」
ルークは短く答えると、すぐに隔離保管した証拠物の一部を取り出した。
ガラス片、注射具、文字の刻まれた石片、薬液の染みた土。
どれも劣化していない。
リーナの目が大きく見開かれる。
「こ、これ全部……あの状態のまま……?」
「はい。たぶん危険物として分けて保管できてます」
「たぶんじゃないです、すごいです……!」
半ば叫ぶように言ったあと、リーナははっとして咳払いした。
「し、失礼しました。すぐギルド長に上げます。絶対に今すぐです」
「それと、礼拝堂の地下に隠し部屋がありました」
ルークが報告を続ける。
「檻と薬瓶、それに記録用みたいな魔族文字。実験施設みたいな場所でした」
その言葉に、リーナの顔色が変わった。
「……地下、ですか」
「はい。たぶん、廃村が捨てられたあとに使われていたんだと思います」
「わかりました。……これはもう、通常依頼の範囲じゃない」
彼女は真剣な声で言った。
「ルークさん、レイナさん。今日はもう追加行動は禁止です。休んでください。その代わり――」
書類棚から一通の封書を取り出し、二人の前に置く。
「明朝。ギルド長ラザン様が、直接お話を伺いたいそうです」
「……僕たちに?」
「はい。正式に」
ルークは封書を見つめた。
追放されたあの日には想像もできなかった位置まで、自分は来ている。
けれど同時に、踏み込んでしまったのは、もう後戻りできない領域なのだとも感じていた。
レイナが、そっと隣で息を吸う。
「ルークさん」
「うん」
「……私、怖いです。でも」
彼女は小さく笑った。
「ここまで来たら、知りたいです。何が起きてるのか」
ルークも、静かに頷く。
「僕も同じだよ」
窓の外では、夕暮れの鐘が鳴っていた。
王都はいつも通りの夜を迎えようとしている。
だがその足元で、確かに何かが動いている。
そして《無限インベントリ》の内側では、隔離された異形の気配が、まだ微かに脈打っていた。
まるで――
次の答えを、まだ隠しているかのように。




