灰の臭いがする村
朝の王都グランヴェルドは、いつもより少しだけ空気が張っていた。
市場の呼び声も、荷車の軋む音も、普段と変わらないはずなのに――どこか落ち着かない。
ルーク・フレイアスは、その理由をまだ知らなかった。
ただ、〈三日月亭〉の食堂へ降りた瞬間、ツネの表情を見て、何かあったのだと察した。
「おはようございます……って、どうかしました?」
「おはよう、ルーク坊。……いやね、さっきギルドの使いが来たんだよ。あんたに“できるだけ早く本部へ”ってさ」
「ギルドの使い?」
ルークが目を瞬かせると、厨房の奥からメリアが顔を出した。
「朝ごはん、少しだけ先に用意しちゃいました! 急ぎみたいだったので、持って行けるようにしてありますっ」
「え……ありがとうございます」
差し出されたのは、焼きたてのパンに薄切り肉と卵を挟んだ簡易サンドと、まだ湯気の立つスープの小瓶だった。
「道すがらでも食べられるようにしたよ。空腹でギルドに行って、難しい話なんか聞けるもんじゃないからね」
ツネはそう言って、腰に手を当てる。
「はい。助かります」
ルークは頭を下げた。
ほんの少し前まで、自分のためにこうして気を回してくれる人など、いなかった。
それだけで胸の奥が、あたたかくなる。
「ルークさん」
メリアが少しだけ声を潜めた。
「……気をつけてくださいね。最近、東の方から帰ってくる冒険者さんたち、みんな変な顔してるから」
「変な顔?」
「うまく言えないんですけど……怖いもの見たあと、みたいな」
ルークは短く頷いた。
「わかった。ありがとう」
そう言って外へ出る。
朝の冷たい空気が、頬を撫でた。
石畳を踏みしめながら歩く間、ルークは昨日までの報告を思い返していた。
廃村で遭遇した《影猟りハウンド》の群れ。
本来その土地にいないはずの《ブレイザーバグ》亜種の死骸。
そして、その全身に浮いていた赤黒い血管と、不自然な膨張。
(……やっぱり、ただの偶然じゃなかったんだ)
歩く速度が、自然と少しだけ速くなる。
◇ ◇ ◇
冒険者ギルド本部に着くと、受付ホールは朝だというのにざわついていた。
依頼板の前に冒険者が集まっているのではない。
職員たちの動きが、明らかに慌ただしいのだ。
「東門方面の巡回、二組追加!」
「異常個体報告は全部、第二記録庫へ!」
「薬師会への伝達、まだですか!?」
飛び交う声に、ルークは思わず足を止めた。
その時。
「ルークさん!」
受付の奥から、リーナ・エステルが手を振っていた。
だが、いつもの柔らかい笑顔ではない。
気丈に振る舞ってはいるものの、明らかに緊張している。
「おはようございます。急ぎって……」
「はい。こっちへお願いします。レイナさんにも連絡してあります。もう来てますから」
通されたのは、通常の受付ではなく、脇の小会議室だった。
扉を開けると、レイナが椅子から立ち上がる。
「ルークさん……!」
「おはよう。急に呼ばれたって聞いてるけど、何が……」
「それが……」
レイナの表情も硬い。
リーナは扉を閉めると、机の上に数枚の報告書を並べた。
「昨夜から今朝にかけて、東部近郊で異常報告が四件、入りました」
「四件……?」
「はい。全部、症状が同じです。筋肉の膨張、赤黒い血管の浮き上がり、理性の欠落。発見された魔物の種類は違うのに、異常の出方だけが一致しています」
ルークとレイナは顔を見合わせた。
やはり、あの死骸は始まりに過ぎなかったのだ。
「しかも今朝、廃村の南にある旧倉庫跡で、巡回中の衛兵が一人、負傷しました。襲ったのは《影猟りハウンド》ではありません。未確認の異常個体です」
「未確認……」
ルークが眉をひそめる。
「目撃証言が曖昧で、まだ断定できません。ただ、現場には例の異常死骸と同じ体液痕が残っていたそうです」
リーナが一拍置いて、真っ直ぐにルークを見る。
「それで、ギルド長から正式に指示が出ました。ルークさんとレイナさんに、東部廃村周辺の再調査をお願いしたいんです」
「僕たちに?」
「はい。理由は二つです」
彼女は書類をめくった。
「ひとつは、おふたりが現場を実際に見ていて、異常の特徴を正確に把握していること」
「もうひとつは――」
そこで、少しだけ言いよどむ。
「ルークさんの《無限インベントリ》が、異常個体の“保存”に最適だと判断されたことです」
「保存……?」
「昨日、提出してもらった《ブレイザーバグ》亜種の組織片、覚えてますか?」
「はい。念のため、少しだけ取ってありました」
「それを薬師会が確認したんですが……普通なら、半日もあれば壊死か魔力崩壊が進むはずなんです。でも、ルークさんがインベントリに入れていた標本だけ、採取直後とほぼ同じ状態だったそうです」
ルークはきょとんとした。
「え……それって、普通じゃないんですか?」
レイナが「やっぱり」という顔をする。
リーナは額に手を当てた。
「普通じゃありません……全然、普通じゃありません。むしろ大問題なくらい普通じゃないです」
「そ、そうなんだ……」
「はい。ものすごく大事なことです」
リーナは真面目な顔で頷いた。
「異常個体の正体を調べるには、“劣化していないサンプル”が必要なんです。今のところ、それを安全に持ち帰れる可能性があるのは、ルークさんだけです」
そこでようやく、ルークは自分のスキルが調査面でも必要とされているのだと理解した。
戦うためだけじゃない。
運ぶためだけでもない。
見つけて、保って、持ち帰る。
それができるからこそ、自分にしか担えない役目がある。
(……また、僕にしかできないことが増えた)
胸の奥で、静かな熱が灯る。
「受けます」
ルークは迷わず言った。
「レイナさんは……」
「もちろん、行きます」
レイナも、すぐに答えた。
その声は小さかったが、震えてはいなかった。
「回復と浄化が必要になるかもしれません。それに、昨日の場所なら、私も地形を覚えていますから」
リーナの表情が、少しだけ和らぐ。
「ありがとうございます。依頼は緊急扱いです。正式には“東部廃村周辺異常調査依頼”。達成条件は三つ」
指を折って読み上げる。
「一、異常個体の確認と排除」
「二、組織片あるいは証拠物の回収」
「三、原因に繋がる痕跡の記録」
「報酬は基本六万リル。危険度に応じて追加査定。ランク制限は本来D相当ですが、今回はギルド長判断で、おふたりに特例許可が出ています」
ルークは思わず目を見開いた。
「D相当……」
「はい。つまり、ここをきちんとやり切れれば――」
リーナは少しだけ微笑む。
「Dランク昇格、かなり現実的になります」
◇ ◇ ◇
準備を終え、二人が王都東門を出た頃には、空はすっかり高く晴れていた。
だが、廃村へ近づくにつれ、空気は目に見えない膜のように重くなっていく。
鳥の声が減る。
風が、草を揺らさなくなる。
「昨日より静かですね……」
レイナが不安そうに辺りを見回した。
「うん。静かすぎる」
ルークは歩きながら、腰の短剣の位置を確かめる。
同時に、インベントリ内の物資配置も意識した。
投擲ナイフ、煙幕玉、拘束網、予備の短剣、簡易食、回復薬、ロープ。
以前ならただ“荷物”だったそれらが、今は自分の戦い方そのものになっている。
廃村の入り口に差し掛かった時だった。
ルークが、ふと足を止める。
「……焦げ臭い」
「え?」
「血の匂いじゃない。灰……いや、焼けた魔力の匂いだ」
レイナも鼻をひくつかせ、すぐに顔を強張らせた。
「本当だ……何か、燃えたみたいな……」
村の中央へ近づくにつれ、その臭いは濃くなる。
朽ちた家屋の間を抜け、崩れた井戸の脇を曲がった先。
そこで二人は、足を止めた。
「……っ」
言葉が、出なかった。
広場の中央に、巨大な死骸が横たわっていたからだ。
四肢はねじれ、背から棘のような骨が突き出し、全身の筋肉が異様に膨れ上がっている。
元の種が何だったのか、一見しただけではわからない。
だが、ルークはその頭部の輪郭に見覚えがあった。
「これ……《岩殻ボア》か……?」
「でも、《岩殻ボア》って、もっと小型で……東部には出ないはずです……!」
レイナの声がかすれる。
死骸の周囲には、何かが這い回ったような跡と、地面を抉るほどの激しい戦闘痕。
そしてその胸部には――
「……穴が開いてる」
ルークは低く呟いた。
拳大ではない。
人の頭ほどもある、円形に近い破孔だった。
まるで、内側から何かが破って出て行ったかのように。
ぞわり、と背筋が粟立つ。
「ルークさん……これ、見てください」
レイナが指したのは、死骸の脇に散らばった紫色のガラス片だった。
小瓶の残骸。
しかも、一つではない。
「薬瓶……?」
ルークはしゃがみ込み、慎重に欠片を拾う。
触れた瞬間、指先に嫌な熱がまとわりついた。
「魔力が残ってる……」
「この前より濃いです。浄化しないと、手袋越しでも危ないかも」
「わかった。サンプルとして一部回収する。全部は触らない方がいい」
ルークは小さく息を吸い込み、《無限インベントリ》へ意識を向けた。
(収納――限定。対象、破片のみ)
淡い光がガラス片を包み、ひとつひとつ、丁寧に回収されていく。
すると。
その時だった。
広場の奥、崩れた礼拝堂の中から――
ガリ、と。
硬いものを噛み砕く音がした。
二人の動きが止まる。
音は、一度きりではなかった。
ガリ、ガリ、ガリ。
何かを咀嚼する湿った音が、暗がりの奥から響いてくる。
「……いる」
ルークが囁く。
レイナはすぐに杖を構え、呼吸を整えた。
礼拝堂の半壊した扉の向こうは、昼間だというのに異様に暗い。
そして、その闇の奥で。
ゆっくりと、二つの赤い光が持ち上がった。
目だ。
次いで見えたのは、異常に長い前脚。
地を擦るほど伸びた爪。
不自然に裂けた顎。
それは《影猟りハウンド》を基礎にしながらも、もはや別の何かだった。
体表には赤黒い血管が脈打ち、肩口からは硬質化した骨片が突き出している。
喉の奥から漏れる唸り声は、獣のものとも思えないほど濁っていた。
「……っ、変異種……!」
レイナが息を呑む。
ハウンドの異常個体。
しかも、ただ暴走しているだけではない。
明らかに“作られた”歪さがあった。
ルークは短剣を抜きながら、一歩だけ前へ出る。
「レイナさん。最初の一撃で目を潰せる?」
「……やります」
「僕が足を止める。動きが鈍ったら、浄化光を叩き込んで」
「はい」
異形のハウンドが、ぐるりと首を傾けた。
その口元から、まだ新しい血が糸を引く。
さっきまで何を食っていたのか、考えない方がよかった。
次の瞬間。
異形は、弾けた。
「来る!」
ルークが叫び、地面へ手を叩きつける。
「収納展開!」
広場の石畳に光円が走る。
だが異形は、昨日までの相手より速い。
光円を踏む直前で跳び、壁を蹴り、頭上から落ちてきた。
「っ――!」
短剣で受ける。
重い。
まるで鉄塊をぶつけられたような衝撃に、ルークの腕が痺れた。
「ルークさん!」
「大丈夫……まだいける!」
その声と同時に、レイナの杖先に白い光が集まる。
「《フレアライト》!」
閃光。
異形の片目が焼かれ、獣が絶叫した。
今だ、とルークは踏み込む。
「任意座標展開!」
空中、異形の落下先に小さな収納口が開く。
足首が半分、そこへ沈む。
体勢が崩れた。
「そこ!」
ルークは即座に拘束網を取り出し、異形の上半身へ投げつける。
絡まった。
だが次の瞬間、網が軋む。
「力が強すぎる……!」
「下がってください!」
レイナが前へ出た。
彼女の足元に、柔らかな光の陣が広がる。
「《ピュリファイ・ブレス》!」
浄化の光が、異形の頭部を正面から打ち抜いた。
ギャアアアアアアッ――!
その絶叫は、村中に響いた。
赤黒い血管が、焼けるように弾ける。
異形の動きが、一瞬だけ止まった。
ルークは迷わなかった。
「収納――生体指定!」
開いた光が、異形の全身を包む。
暴れる。
軋む。
だが、押し込む。
地面と空中、二つの収納口を連動させ、逃げ場を削る。
最後に、ぐしゃりと空気が歪むような感触とともに――
異形の体が、消えた。
静寂が落ちる。
「……入った」
ルークが荒い息のまま呟く。
レイナは膝に手をつきながら、なんとか頷いた。
「はぁ……はぁ……今の、昨日のハウンドと……別物でした……」
「うん。明らかに強化されてた」
ルークは礼拝堂の闇を見つめたまま、息を整える。
まだ、終わっていない気がした。
この一体だけで済むなら、あの死骸も、薬瓶も、ここまで露骨には残されていない。
まるで誰かが。
ここを“見つけさせた”みたいに。
ぞくり、と寒気が走る。
その時、インベントリの内側で、妙な感覚が弾けた。
今までにない、微かな脈動。
ルークは目を見開く。
「……え?」
「ルークさん?」
「今、何か……」
胸の奥へ、直接流れ込んでくるような感覚。
《無限インベントリ》が、取り込んだ異形に対して――
何かを“解析”しようとしている。
そんな、予感がした。
礼拝堂の崩れた窓から風が吹き込み、灰の臭いが強くなった。
遠くで、二度。
鐘のような、鈍い音が響いた。
まるで、この異変の幕がもう一段、上がったことを告げるように。




