第10話 伸ばされた手
「掃除をサボるなんて、あなたは碌な大人にならないわ!」
担任の女性教師に右手首を掴まれ、引き摺られるように歩かされる。
理由も聞かずに一方的に叱責する女性教師の背中を、壮太郎は嫌悪の表情で睨みつける。
「碌な大人じゃ無い人って、先生みたいな人の事を言うと思うんですけど」
女性教師は怒気を露わに壮太郎を睨む。女性教師は壮太郎の頬を叩いた後、強い力で壮太郎を引っ張って教室へ連れて行った。
教室内に入って来た女性教師を見て、お喋りしていたクラスの子達が慌てて席に着いて静かになる。
「帰りの会ですが、いつもより少し長く時間を取らせて貰います」
何が始まるのか分からないまま、壮太郎は女性教師の隣に立たされる。
「結人間君は、授業中に先生の話も聞かず、掃除をサボった。学校にも来ない悪い子です。この中で結人間君と友達だという子がいるなら、手を挙げてください」
クラス内を見渡して誰の手も挙がらないのを見ると、女性教師は芝居じみた悲しげな表情を作った。
「そうよね。結人間君は友達がいないわね。じゃあ、何で結人間君に友達がいないのか、分かった人は手を挙げて答えましょう」
次々と挙がる『結人間壮太郎』という人間を否定する言葉。
教室の中で行われる吊し上げの処刑。
ここでの絶対的な支配者である教師に誘導されるまま、子供達は己がやっている行為が『悪を倒す正義の行い』だと思い込み、異常な空間を作り上げた。
俯いた壮太郎の耳に、女性教師が小声で囁く。
「自分がいかに悪い子か分かったでしょう? 嫌われ者の結人間君」
女性教師がニタリと笑って壮太郎を見下ろす。
壮太郎は女性教師の手を振り解き、廊下へ飛び出した。
「壮太郎君!」
何故か丈の呼ぶ声が聞こえた気がしたが、壮太郎は振り返らなかった。
(もういらない! いらない! 全部!!)
壮太郎は全力で走った。
目的の場所に辿り着く頃には、息が切れて汗が噴き出していた。
目の前の赤い鳥居を見上げ、壮太郎は顔を歪める。
『壮太郎?』
『大丈夫?』
神社の境内に入ると、顔馴染みの小さな妖達が集まってくる。心配そうな顔で見上げる妖達を無視して、壮太郎は本殿へと向かう。
「七紫尾の狐」
呼べば、昼寝をしていた七紫尾の狐が顔を上げる。壮太郎を見て驚いた七紫尾の狐は、急いで近寄って来た。
『壮太郎。一体、何があった?』
「……僕はもう人間でいたくない」
壮太郎は七紫尾の狐を抱きしめる。涙がポロポロと溢れて床にシミを作った。
今日だけで、たくさん嫌な事が起きた。
そして、これからも続くだろう。
壮太郎が人の輪の中で生きようとする限り、永遠に終わらないのだと感じた。
壮太郎だって、最初は皆と仲良くしようとした。
危ないから助けた。だけど、除け者にされてしまった。
(どうして、人の中で上手く生きられなかったんだろう?)
姉も丈も友人がいる。二人とも普通の人には無い力を持っているにも関わらず、人の中で上手く生きられている。
苦しかった。悔しかった。
どれだけ人間なんてくだらないと言い聞かせても、”寂しい”と感じる自分が惨めで大嫌いだった。
「僕を狭間者にして」
涙まじりの願いを口にする。七紫尾の狐が真剣な目で壮太郎を見つめた。
『後悔はないか?』
壮太郎の頭に家族の顔と、何故か丈の顔が浮かんだ。
全てを振り払うように、壮太郎は首を横に振る。
「後悔は無いよ」
鉛が落ちたように、心が重たくなった気がした。
『わかった。それなら』
七紫尾の狐が自らの前足を噛む。
白い毛の上に滲んだ赤い血が宙へ集まり、壮太郎の目の前に赤い球体が浮かぶ。
『手を差し出し、我の血を呑め。そうすれば、お前は人ではなくなる』
七紫尾の狐はニタリと笑った。
『共に長い時を生きよう。歓迎するぞ。我が友よ』
壮太郎は手を差し出す。赤い血の球が壮太郎の手に吸い込まれるように落ち、両掌の上に真紅の血が注がれる。
怖いとは感じなかった。
ただ赤い血が美しかった。
壮太郎は喉を鳴らし、震える唇を掌に近づける。
「壮太郎君!!」
壮太郎は驚いて振り返る。
息を切らせて走って来た丈が、鳥居の下に立っていた。今にも酸欠で倒れてしまいそうな様子の丈に、壮太郎はポカンとする。
「……どうして、ここに?」
「一緒に帰ろうと思って壮太郎君を探してたら、壮太郎君がランドセルも持たずに急に走って行ったから、何かあったのかと思って」
息が落ち着いたのか、丈は顔を上げる。丈の真剣な目が壮太郎を射抜いた。
「帰ろう。壮太郎君」
どういう意味の”帰ろう”なのかと考えていると、丈が壮太郎へ歩み寄る。丈は壮太郎の手の中にある血を見て、顔を歪める。
「お願い」
(ああ、分かっているんだな)
壮太郎が人間を辞めようとしている事までは、丈は分かっていない。
けれど、呪術において血が強い力を持つ事は、呪いの一族である丈には分かる。
壮太郎の前にいるのは妖。その妖の傷と壮太郎の手に注がれた血は、何かあると推測できる。
「君だけで帰って。僕の邪魔をしないで」
壮太郎の拒絶に、丈は悲しげに顔を歪める。
丈を傷つけてしまった事に、壮太郎の心にも痛みが広がった。
「君には関係ないよね? 今日出会ったばかりだし。三家と言っても、別の家。僕は、もう誰にも関わりたくない。人間の全部が嫌いだ。僕は君の事も……」
言葉が止まる。壮太郎は震える唇で言葉を紡ぐ。
「大嫌いだ」
心がまた重くなる。
丈の顔が見れず、壮太郎は掌を見つめた。
赤い血が揺れる。
壮太郎は目を閉じて、一気に飲み干そうとする。
壮太郎の腕が引っ張られる。
驚いて目を開けると、丈が壮太郎の腕を掴んでいた。本殿の床に血が溢れる。溢れた血を見ていた壮太郎の両頬を丈が両手で掴む。
「俺の事、大嫌いでもいいよ。でも、人間全部が嫌いだなんて、悲しい事を言わないでよ!」
丈の目に涙が滲む。壮太郎はハッと息を呑んだ。
赤い血よりも、その透明な涙が美しいと感じた。
「君は、きっとこれからも、たくさんの人に出会うよ。その中には、君が大好きで、君を大好きになる人達がたくさんいる。全部の人間を好きにならなくていい。だけど、こんなに早くに諦めないで」
諭すのではなく祈りなのだと感じた。震える声で紡がれる言葉が、壮太郎の胸にじわりと広がる。
「俺は、君の事が好きだよ。どんなに傷つけられても、君は人を信じようとした。君は、あの三人を見捨てなかった。会ったばかりの俺や他の子を助けてくれた」
丈の手が壮太郎の両頬から離れる。丈は壮太郎の前に手を差し出した。
「人が怖いなら、君を受け入れてくれる人達の所まで俺が手を繋いで連れていく。一緒に探して、君が安心して笑える日まで。何度でも、何処までも」
壮太郎は丈の目から視線を逸らす事ができなかった。
側で見守っていた七紫尾の狐が壮太郎に手を差し出す。
『壮太郎。どちらの手を取るのか選べ』
差し出された二つの手を見つめる。
壮太郎の耳に、自分の心の声が響く。
ーーーー人生って、つまんない。
人として生きても、楽しくない事が多いだろう。つまらないと思う事が、これからも沢山ある。
ーーーー僕は人の中では生きられない。
たくさん否定された。これからも除け者にされる。僕は人と違うから。また酷い事を言われるし、酷い事をされるに決まっている。
ーーーー人間なんて、くだらない。
違うだけで責められる。人間として生きれば、僕が僕でいる事を拒否して、『一般的な人間』である事を強制され続ける。
「人間なんて大嫌いだ」
壮太郎は呟く。自分でも情けない程に涙声だった。
涙が頬を流れ落ちる。
壮太郎は涙を拭って思いを断ち切り、自分が望む手を掴んだ。




