第四話 牢獄
僕が二号店の店長となって、数ヶ月が経った。
この数ヶ月、僕の生活は正社員時代に匹敵するくらいの多忙さだった。まず新店舗であるため、オープニングスタッフを何人か雇うことになったのだが、問題のある店員を解雇したり、無断欠勤する店員の穴埋めをするために店長である僕のシフトはほぼ毎日に存在した。さらに、コンビニ本部社員さんとの打ち合わせや、セール商品の展開、季節品の発注、悪天候による客の減少への対応など、バイト時代には無かった業務が山のように積み重なり、僕の休息時間を食いつぶした。
だがそれでも、それでも僕は手にしたのだ。
『正社員』という肩書きを。
確かに以前と比べて格段に忙しくはなったが、僕はもうフリーターではない。職業も会社員と書ける。それは僕がこの数年間、何よりも望んでいたものだった。僕は社会の一員となったのだ。
そうだ。僕は今の環境に満足している。
「ヨキさん、応援にきましたよ」
その時、店のドアが開き、島津さんが入ってくる。彼女は一号店の店員だが、今は二号店の人手が足りないため、こちらにも入ってもらっているのだ。
「ああ、島津さん。悪いね、入ってもらって」
「いえ、お金もらえるなら頑張りますよ」
「……うん」
島津さんは僕が店長になったのとほぼ同時期に、専門学校を中退した。
理由は聞かなかった。彼女なりの理由があると思ったから。そうだと思いたかったから。
「とりあえず品出ししてもらっていいかな?」
「了解です。その後、レジ変わりますよ」
「うん、よろしく」
数十分後。
「ヨキさん、レジ変わりますよ」
「ありがとう。そういえば島津さんは、当分ウチで働いてくれるってことで大丈夫?」
「はい。まあ、特に辞める理由も無いですし、自分の時間も欲しいですしねぇ」
「そう……」
島津さんの言葉に、僕はどこか違和感を抱いていた。
僕は彼女が、大きな夢に向かって歩いていると思っていた。だから、彼女が夢を諦めて学校を中退したのはかなり辛い決断だったのだと思っていた。
だが彼女は、学校を辞めた後もこのコンビニで働いている。お金が必要になったのであれば、こんな時給の安いコンビニで働く意味もないし、そもそも彼女は週四日のシフトである。かといって、他の仕事を探しているようにも見えない。
なぜだろう、なぜ彼女は学校を辞めたのだろう。
いや、本当はわかっている。僕は以前、彼女が他の店員と雑談している場面に出くわし、その内容を聞いてしまった。
『あの専門って本当にダルい授業ばかりだった。それに比べて、ここはうるさい人がいなくて居心地がいいね』
ダルい授業。彼女にとって、専門学校の授業はそういうものだったのだ。彼女にとって、専門学校も単なる『つなぎ』に過ぎなかったのだ。
そして彼女は今も、『つなぎ』としてこのコンビニを使っている。今の自分が何もしていないわけではないことの証明に、この場所を使っている。
それならば彼女の『将来』は、一体いつ訪れるのだろう。
「ヨキさん、レジ点検終わりましたよ」
島津さんに声をかけられ、思考を中断する。いけない、今は仕事中なんだ。こんなことを考えている場合じゃない。
「ああ、ありがとう。そういえば最近、郡山くんってシフト入っていたっけ?」
「シローくんですか? 確か週に一回か二回は入っているみたいですけど、就活が忙しいとかでそんなには入れていないみたいですね」
「そう……」
郡山くんは数ヶ月前、大学院の入試に落ちてしまった。
あんなに勉強していたのにとは思ったが、僕は彼がどれだけ勉強していたのかは知らない。もしかしたら、本当はそんなに勉強していなかったのかもしれない。
しかし、勉強していたとしてもそうでなかったとしても、彼が試験に落ちてしまった事実は変わらない。彼もそのことはわかっていたのだろう。だから院試に落ちた後、彼はすぐに就活を始めた。
だけど、就活を始めた時期が遅かったためか、彼は未だ内定がとれていないそうだ。もうすぐ冬も終わり、卒業の時期になる。この時期でも募集をしている企業はまだあるだろうが、その中に彼が希望する企業があるかどうかはわからない。
というのも、僕には彼がどういう仕事をしたいのかさっぱりわからなかった。
経営について勉強していたとはいえ、彼の希望の業種について聞いたことは無かった。実際に彼が受けた企業は、サービス業だったり小売業だったり運輸業だったりと、多岐に渡っていた。あまり業種にこだわらないと言えば聞こえはいいのかもしれないが、言い換えれば特に希望の業種は無く、どこでも受けてみたという印象を受けた。
それに彼は面接に行ったはいいものの、面接官と口論になって帰ってくるというパターンが多かった。彼の言い分としては、『あの面接官は俺の能力を理解しちゃいない』だったり、『俺はあんな所で燻っていい人間じゃない』というものだったが、僕としては毎回そんなことを言っていては、決まるものも決まらないのではと思った。
とはいえ、実際に入る企業を決めるのは郡山くん自身であり、僕が口を挟んでいい領域ではない。僕は成り行きを見守ることしか出来なかった。それに、僕は以前のように彼や島津さんと気軽に話せる状況ではなかった。新店舗がようやく軌道に乗ってきたとはいえ、今も僕は多忙なのだ。
……しかし、僕の心にある考えがあることを否定することは出来なかった。
僕は……内心では今のこの状況を喜んでいるのかもしれない。
今の僕はコンビニ店長という正社員の立場で、島津さんと郡山くんはそこで働く店員、いわゆる僕の部下だ。かつては僕と彼らは同じ立場ではあったが、今は違う。むしろ、フリーターである島津さんや内定を取れずに卒業してしまいそうな郡山くんより、僕は立場が上なのだ。
その腐りきった優越感が、嘗ての仲間を見下す汚さが、僕が彼らに声をかけることを遠ざけていた。
僕は彼らに優越感を感じるとともに、罪悪感をも感じていた。だがその罪悪感さえも、僕が彼らを見下す免罪符に過ぎなかった。僕はそういう人間だったのだ。彼らを見下し、自分を保っていた。
そんな僕の頭に、彼らを救うための言葉はなかった。
数日後。
この日は僕の久しぶりの休日となる日の前日だった。その日のシフトが終わり、夜勤の郡山くんと交代することになる。
「……おつかれっす」
久しぶりに見た郡山くんはあからさまに元気が無かった。就活の開始と同時に黒く染められた髪も、彼の気分を表すかのようにツヤがなくなっている。
「おつかれ、郡山くん。就活はどうなの?」
正直言って、この質問に悪意が無かったと言えば嘘になる。そもそも、就活が上手くいっていれば自分から報告するものだ。それは僕自身が身をもって知っている。郡山くん自身が就活に関しての話題を振ってこないということは、上手くいっていないということになるのだ。
そして僕はそれをわかった上で質問をぶつけている。僕の優越感を満たすために。
「……上手くはいってないです」
郡山くんはそれだけ言い、着替えようとした。
「ほら見なさい、やっぱり私の言ったとおりになったでしょ?」
僕たちの前に、勝ち誇った顔の女性が現れる。
言うまでもない、黒峠さんだ。今日はヘルプで夕勤としてシフトに入っていた。だから僕と島津さんと一緒に働いていたのだ。
「……どういう意味ですか」
不機嫌な顔を隠そうともせず、郡山くんは黒峠さんに返事をする。無視すればいいものをとは思ったが、彼の性格からして、そうしないだろうとも思った。
「あんたは何もしていなかった。だからここに来てツケが回ったのよ。つまり今あんたが苦しいのは自業自得。それなのに、自分だけが辛いみたいに不機嫌な顔して仕事されると迷惑なのよね」
黒峠さんによる容赦ない攻撃。その攻撃に晒される郡山くんに、僕は嘗ての自分を重ねていた。
彼女の言葉はどこまでも正論だ。正しいことしか言っていない。だから僕らは反撃が許されない。僕らが悪で、彼女が正義だから。そして彼女は、それをわかっている。
「俺だって、俺だって必死に就活をしているんですよ!」
我慢ができなかったのか、郡山くんが大声で反論してしまう。だが、その反論は黒峠さんにとっては格好の的であった。
「必死にやっている? 社会じゃ結果出さなきゃ何の意味も無いのよ。そんなこともわからないような人が正社員になれるわけないじゃない」
郡山くんが拳を握りしめている。
「そこの島津さんだってそう。あんた、自分は女だから何とかなると思ってるんでしょ? だから甘いのよ。何もしてこなかったあんたが、なんとかなるわけないじゃない」
黒峠さんの攻撃は島津さんにも向く。島津さんは顔を真っ赤にするが、何も言えないでいた。
僕はその光景を見て考える。
今まで僕は、こんな一方的な攻撃に晒されていた。そしてさっき、僕は郡山くんに対して一方的な悪意をぶつけていた。
だけど、その光景は外から見たら、ここまで気持ちの悪いものだったのだろうか?
片方が片方を一方的に、何の反撃も許さずに攻撃する。同じ土俵に立たず、安全な位置から相手を攻撃する。そんな光景を見て、誰が楽しいのだろうか。
決まっている、それが楽しいのは攻撃している本人だけだ。
それを見た僕の中に、ある考えが浮かび上がるのと同時だった。
島津さんの方を向いて背を向けている黒峠さんに、郡山くんが殴りかかろうとしていたのが見えた。
「……この野郎!!」
……しかし。
「ぐうっ!!」
「!?」
なんとか僕は、それを体で止めることに成功した。
「ヨ、ヨキさん!?」
「郡山くん……だめだよ、足下に気をつけないと」
「え?」
「躓いて転びそうになったんだろ? 僕が支えたから転ばずに済んだけど、気をつけてね」
「……!」
僕の意図を察したのか、郡山くんは拳を引っ込めてくれた。
「なにアンタ? 言い負かされたからって、暴力に頼ろうとしたの? 本当に無能なのね」
尚も郡山くんに攻撃を続ける黒峠さんに対し、僕は向き直った。
「黒峠さん」
「なによ?」
「明日から来なくていいです」
「……は?」
「聞こえませんでした? 明日からはもう、ここに来なくていいです」
それは事実上の、解雇通告だった。僕もこんなことを言うのは初めてだ。
「な、何言っているのあんた!? 殴られそうになったのは私の方よ!?」
「ですが、場を乱していたのは明らかにあなたです。皆が働く上で雰囲気は重要だと僕は考えます。そして、その雰囲気を乱すあなたは、問題があると言わざるを得ません」
僕らしくない、きっぱりとした物言いに黒峠さんはたじろぐも、すぐに反論した。
「はあ!? あんた何様よ! あんただってどうせ雇われ店長にすぎないんでしょ!? オーナーと話させてよ! あんたをクビにしてもらうわ!」
「ご自由に」
「え?」
「あなたの言うとおりでした。僕らはお互いを見下し合い、お互いを利用していた。何もしないことへの言い訳にしていた」
「な、何よ急に……」
「ですが、僕はあなたを見ていて気づいたことがあるんですよ」
そして、僕は彼女に反撃する。
「あなたの言葉って正しいだけなんですよね」
「……は?」
「あなたの言葉は正しい。だけど、今言う言葉でもない。就活で疲れている郡山くんに向けて良い言葉じゃないんですよ」
「何言ってるの? 正しいなら何を言ってもいいじゃない!」
「違います。重要なのは『何を言ったか』ではなく、『誰が言ったか』『いつ言ったか』です」
そう、僕はようやく気づいた。
黒峠さんの言葉自体に、さして重要性は無かったのだ。だって彼女の言葉は、彼女だけが楽しむだけの言葉だから。黒峠さんは所詮、コンビニで働くパートに過ぎない、世間の代表ではない。だから彼女の言葉を気にする必要はない。
「あなたはここに入ってきたときから、僕たちを一方的に攻撃していた。あなたにはそれが出来た。なぜならあなたはもう就活をすることはない立場だから。僕たちと同じ立場になることは決してないから」
「だから何だって言うのよ?」
「あなたは安全な位置から正論を言うことで、自分の正しさを証明したかっただけ。それで満足したかっただけ。そんな人の言葉を僕たちが聞く必要はありません」
「なら、そうやって人の話を聞かずに、なれ合ってなさいよ! どうせその先には破滅しかないでしょうけど!」
「そうですね」
「はあ!?」
「僕らの先には破滅しかないのかもしれません。ですが、僕らはそれでも居場所が欲しかったんです。自分が何者かでいられる居場所が欲しかったんです」
そう、それが僕らの、少なくとも僕の望みだった。
僕は何者かでいられる居場所が欲しかった。郡山くんもそのために大学院に進もうとして、島津さんもそのために専門学校に入学したのだ。
僕らは、僕らを定義づけるための居場所が欲しかったのだ。
例えその場所が、一度入ったら二度と出られず、破滅へと落ちていく『牢獄』だったとしても。
「付き合ってられないわ。あんたのことはオーナーに報告させてもらうからね!」
黒峠さんは捨て台詞に近い言葉を吐いて帰って行った。
「……」
残された僕たち三人はしばらく無言だったが、僕は郡山くんに声をかけた。
「郡山くん」
「……はい」
「君の頑張りは世間では認められないかもしれない。黒峠さんの言うとおり、世間は結果しか見ないかもしれない」
「……」
「でも、それでも」
それでも……
「僕は君の頑張りを認める」
「……!」
「それは、君の力にはならないかな?」
郡山くんはうつむいたまま、言葉を発さない。
「シローくん……」
島津さんも、言葉をかけられないでいた。
「……あんたに認められても、何にもならないですよ」
「そうか……」
郡山くんの言うとおりだ。
僕が彼を認めたところで、彼の就活が成功するわけではない。採用担当に認められなければ、意味は無いのだ。
「だけど……」
「うん?」
「俺は誰か一人にでも、その言葉をかけて欲しかった」
……僕らの関係は、決して真っ当なものではないのかもしれない。
お互いになれ合い、お互いを慰め合い、前に進まない関係なのかもしない。
だが、それでも、それでも僕らは。
この『牢獄』に留まることを望むのだろう。
僕らが望んだ牢獄 完