『居酒屋 ひさご』第七話:『優しすぎる男と、ほんのり桜の餡掛け豆腐』
町内に夕方の五時を告げる『赤とんぼ』のメロディが、物悲しく響き渡る。
その音に釣られるようにして、徳利瓢介が店にやってくるのと、『居酒屋 ひさご』の剛大将が暖簾を片手にガラリと格子戸を開けるのは、まったくの同時だった。
大将が手に持った藍色の暖簾を店先にバサリと掛け、柱の「仕度中」の木札を裏返そうとした瞬間、瓢介が「へへっ」と愛想笑いを浮かべながら先回りして木札を「営業中」へとひっくり返す。もう何度も繰り返して、すっかり二人のいつもの風景になっていた。
「大将。おれの仕事の依頼、何かきてる?」
お腹の虫を鳴らしながら訊ねる瓢介に、大将はエプロンのポケットから筆ペンで書かれた半紙の切れ端をぶっきらぼうに突きつける。
そこには『細田』とだけ書かれていた。
「同級生の優太の家か。細田のおばさんが何か言ってたかい?」
「さぁな。昼下がりに店へ電話がかかってきてよ。蚊の鳴くような声で『瓢介さんを、その、おすこしお借りできないでしょうか』って言てったぞ。俺はおめーのかぁちゃんじゃねーんだ。何があったか知らねえが、行ってきな」
大将はそれだけ言い切ると、すぐに厨房の奥へと戻ってしまった。
半紙を確認し、瓢介は幼馴染の優太の家へと向かった。
出迎えてくれた母親は、息子同様に大変気が細いおとなしい性格で、すまなそうに手を合わせた。
「瓢介さん、急に呼び出してごめんねぇ。実は優太のことなんだけど……」
優太には長く付き合っている恋人がいるのだが、優しいばかりで繊細すぎるため、「今の俺の収入じゃ彼女を幸せにできないんじゃ」「もし断られたら、彼女のこれまでの時間を無駄にしてしまう」と、断られる最悪の想像ばかりしてプロポーズに踏み切れないのだという。
「あんたのあの、馬鹿げた勢いで、優太の背中をガツンと押してやっておくれよ」
「なるほど、人生の一大イベントに勢いがつかないわけね。よし、お安い御用だ!」
瓢介は引き受け、自室に引きこもって悩む優太の元へ乗り込んだ。優太は案の定、「俺なんかじゃ……」と毛布にくるまって怯えている。
瓢介はお調子者の浅知恵をフル回転させ、ポンと膝を叩いた。
「いいか優太、男は勢いだ! だったら、絶対に断れないくらいの感動を周りから作ってやればいいんだよ!」
瓢介が思いついたのは、大勢の人間を巻き込んだ派手な『フラッシュモブ』だった。たくさんに応援されれば、優太にも勢いがつくし、彼女も感動の渦に巻き込めるはずだ。瓢介は地元の劇団員や商店街の若い衆を勝手に巻き込み、下町の広場での一大作戦をセッティングし始めた。
その日の夜、瓢介が『ひさご』のカウンターで「完璧なサプライズを思いついた」と一人でビール片手に息巻いていると、いつの間にか隣の席に、百パーセントの満面の笑顔を浮かべた古今亭志ん米師匠が座っていた。
「おや、瓢介さん。何やら随分と楽しそうな企みですねぇ」
「聞いてくださいよ師匠! 繊細すぎて動けない優太のために、俺が大勢を巻き込んだド派手なプロポーズの舞台を用意してやるんです。これなら一発ですよ!」
ハハハと笑う瓢介を、志ん米師匠はお猪口をくいと干し、優しい口調のままチクリと刺した。
「瓢介さん。静かな夜の暗がりを好む猫を、お祭りのド派な神輿の上へいきなり担ぎ上げたら、その猫は喜びますかねぇ……。さ、夜も更けてまいりました。私はこれでお暇しますよ」
師匠はそれだけ言うと、お代を置いて風のように去っていった。
「猫? 神輿? なんの話だろ」
瓢介は首を傾げたが、深く考えずに計画を押し進めた。
数日後。ついに作戦決行の夕方がやってきた。
瓢介が裏で糸を引いているとも知らず、優太に連れられて広場に彼女がやってくる。優太が選んだ人だけあって、彼女もまた、極端に恥ずかしがり屋でおとなしいお嬢さんだった。
瓢介の合図で、突然、広場にド派手な音楽が鳴り響いた。
それと同時に、物陰から劇団員や商店街の連中が次々と飛び出し、二人の周りで激しく踊り出す。
圧倒されて固まる優太。しかし、それ以上に悲劇だったのは彼女の方だった。
大勢の知らない人間に囲まれ、一斉に注目を浴びた恐怖と凄まじい恥ずかしさで、彼女は顔を真っ赤にしてパニックになり、「……ごめんなさい!」と悲鳴を上げて、そのまま脱兎のごとくその場から逃げ出してしまった。
「あ、あれ……?」
踊り狂う連中の真ん中で、瓢介はハの字の眉を下げ、上げた手を止めて呆然と突っ立っていた。フラッシュモブは大失敗に終わった。
しかし、話には続きがあった。
慌てて彼女を追いかけた優太は、夕暮れの下町、二人きりになった静かな路地裏で、ゼェゼェと息を切らしながら彼女の前に立った。
「驚かせて、本当にごめん……! 俺、不甲斐ないけど、やっぱり君と一緒にいたいんだ。俺と結婚してください」
派手な音楽も、踊るサクラもいない静寂の中で、優太はいつもの等身大の、繊細で優しい言葉を絞り出した。彼女はまだ少し赤くなった顔のまま、ボロリと涙をこぼして、深く深く、嬉しそうに頷いたのだった。
お礼に細田の母親から感謝の言葉を受け取った瓢介は、一度自宅アパートへと引き上げ、その日は静かに夜を終えた。
数日後の夜。仕事を終えた瓢介は、一人の客として『居酒屋 ひさご』の引き戸を静かに開け、カウンターの隅に腰を下ろした。
ひと息ついてビールを喉に流し込むと、瓢介は我慢できずに、大将と隣の席の志ん米師匠に向かって得意のドヤ顔を浮かべた。さらに、興奮が冷めやらない様子でバッと立ち上がり、急に声を張り上げて当時の役者口調のセリフを口走ってしまった。
「フッ、愛の迷宮に怯える二人を救いし、至高の演出家・ひょうすけ! 俺が仕掛けたあの愛のモブがあったからこそ、優太は殻を破り、見事に花を咲かせたのです! これぞ名プロデューサー、商店街の未来は明るいね!」
大真面目にポーズを決める瓢介を、志ん米師匠は百パーセントの笑顔でおっとりと見つめた。
「なるほど、至高の演出ですか。ですが瓢介さん、あの優太さんたち、あの派手な大騒ぎがすっかりトラウマになってしまいましてね。結婚式は誰にも知らせず、二人だけでひっそりと、静かなお寺で挙げることにしたそうですよ。誰の招待状も刷っていないとか」
「……え?」
マントを翻すようなポーズのまま、瓢介のドヤ顔が凍りついた。
「誰も呼ばない……? じゃあ、俺の特等席の招待状は……」
瓢介はハの字の眉をこれでもかと下げ、上げた手をどう下ろしていいか分からずに困り果たした。一組のカップルを誕生させた主役のつもりだった男は、今や新郎新婦から最も警戒される「要注意お節介人物」になっていた。
「お前は豆腐を箸でつまむ練習でもしとけ」大将が呆れたように鼻で笑い、カウンター越しに小皿をドンと置いた。
「ほらよ。優太たちをオマージュした、ほんのり桜の餡掛け豆腐だ」
真っ白で崩れそうなほど繊細なお豆腐の上に、熱々の出汁と一緒に、ほんのり優しく赤らんだ桜えびの餡がそっと寄り添っている。大騒ぎの対極にある、一番優しくて温かい味がした。
「うぅ……美味いけど、出汁が目に沁みるぜ、大将……」
瓢介が情けない声を上げる中、志ん米師匠の楽しそうな笑い声が、静かな下町の夜に心地よく響き渡った。




