『居酒屋 ひさご』 第八話:『揺れるエースと、白黒の変わりおにぎり』
時計の針は朝の八時を回ったところだった。
すっきりと晴れ渡った青空の下、瓢介は河川敷でハァハァと息を荒げているぽっちゃりとしたパグ犬を連れていた。ゆうやみのママに頼まれ『こてつ』の散歩アルバイトの真っ最中だった。
「ほらこてつ、あんまり急ぐなよ。俺の腹の虫まで鳴き出しちまうだろ……」
瓢介が苦笑いをしているのんびりした空気をグラウンドの真ん中から、ぶち破るような怒号が響き渡った。
「雄輔は我が街の高校の元エースだぞ! 当然、伝統ある町内野球チームに入るべきだ!」
「フフ、ふざけないでください! これからはサッカーの時代です! 身体能力抜群のあいつがうちのチームに来れば、即エースですよ!」
こてつが「ウゥ」と低く唸って足を止める。瓢介がフェンスの隙間から覗き込むと、そこにはユニフォーム姿の町内野球チームのおっさん達と、今時の若者サッカーチームが、一人の高校生を挟んで激しく睨み合っていた。
おまけにサッカーチームの最前線で凄んでいるのは、雄輔の彼女の兄だった。妹の恋人である天才エースを、自分のチームに囲い込もうと必死なのだ。
「おいおい、朝っぱらから何が始まってんだ?」
瓢介がこてつのリードを握ったままグラウンドへ入っていくと、真ん中で頭を抱えていた元エースの雄輔が「あ、瓢介さん!」と救いを求めるような目を向けた。それを見たおっさん達と彼女の兄が、一斉に瓢介に詰め寄る。
「おい何でも屋! お前からも言ってやれ! こいつは野球をやるべきだよな!」
「いや、サッカーですよ! 妹の未来もかかってるんです!」
両者一歩も引かない頑固者同士の喧嘩だ。瓢介がこっそり雄輔にホンネを聴くと、彼は消え入るような声で呟いた。
「実は、本当は野球を続けたいんです。でも……新しく付き合い始めた彼女がものすごいサッカー好きで、おまけにその兄貴があそこにいるキャプテンなんです。サッカーやらないと別れるって妹に言えって脅されてて……断れなくて……」
恋心と家族の圧力の板挟み。これぞ下町の絶妙なジレンマだった。
「なるほどねぇ、お兄さんまで敵に回しちゃ拉致があかないわけだ。よし、お安い御用だ!」
瓢介は引き受け、こてつの散歩を終えて『ゆうやみ』のママの元へ送り届けると、一度自宅へ戻り、その日は静かに夜を終えた。
数日後の夜。仕事を終えた瓢介は、客として『居酒屋 ひさご』の引き戸を開け、カウンターの隅に腰を下ろした。
手がかりを整理しようと頭を抱えていると、いつの間にか隣の席に、百パーセントの満面の笑顔を浮かべた古今亭志ん米師匠が座っていた。
「おお、瓢介さん。そんなにハの字の眉を寄せて、今度はどんな難題ですか?」
「聞いてくださいよ師匠! 一人の天才エースを巡って、野球のおっさん達と、彼女の兄貴率いるサッカーチームがグラウンドで大喧嘩ですよ。お互いにプライドがあって、一歩も引かないんです」
ハァとため息をつく瓢介を、志ん米師匠はお猪口をくいと干し、優しい口調のままチクリと刺した。
「瓢介さん。黒い烏と白い鷺が、一粒の餌を巡って争っている時はね、どちらの羽の色にも染まらない、まったく新しい『別のフィールド』を用意してやれば、お互いにすんなり納得するものですよ。若者ってのは、恋人の前で見せる『新しい顔』に憧れるものですからねぇ……。さ、私はこれでお暇しますよ」
師匠はそれだけ言うと、お代を置いて風のように去っていった。
「別のフィールド……新しい顔? あッ、そうか!」
厨房の奥から大将が「またろくでもねえことを思いついた顔だな」とボソリと呟いた。瓢介はポンと膝を叩いた。
次の休日の朝八時。瓢介はお調子者の浅知恵をフル回転させ、再び河川敷のグラウンドに両チームを集めた。
「いいかお前ら! どっちに転んでも恨みっこなしだ! 野球のバッティングと、サッカーのキックを融合させた、町内合同の新スポーツ『キックベース大会』で白黒つけようじゃねえか!」
ドヤ顔の提案に、渋々乗っかる両チーム。おっさん達の老獪な守備テクニックと、お兄さん率いる若者たちの猛烈なスピードが激突し、試合は予想を超えて大盛り上がりとなった。
そして何より、渦中の雄輔は、その試合で見事なキック(サッカー)と、豪快な走塁(野球)の両方で大車輪の活躍を見せた。
応援に来ていた彼女は、その姿を見て目を輝かせた。
「すごい……! 野球のルールで走ってる姿も、サッカーのキックも、どっちも最高に格好いい!」
彼女が大感激したことで、お兄さんもおっさん達も、ついに矛を収めた。
「それなら、日曜の午前は野球チーム、午後はサッカーチームに両方助っ人として入るってのはどうだ?」
瓢介の機転により、雄輔は両方のスポーツを円満に続けられる形で、見事に大解決となったのだ。
数日後の夜。仕事を終えた瓢介は、再び客として『ひさご』の引き戸を静かに開け、カウンターに腰を下ろした。
ビールを喉に流し込むと、瓢介は我慢できずにバッと立ち上がり、急に当時の審判のような役者口調でポーズを決めた。
「フッ、若き才能の羅針盤・ひょうすけ! 俺が編み出したあの至高のルールがあったからこそ、二つの猛獣は手を取り合い、恋の蕾も開いたのです! これぞ下町のキューピッド、商店街の未来は明るいね!」
大真面目にポーズを決める瓢介を、志ん米師匠は百パーセントの笑顔でおっとりと見つめた。
「なるほど、キューピッドですか。ですが瓢介さん、あの両チーム、彼を午前と午後の試合へ送り迎えするための『専用車の運転手兼マネージャー』として、あなたを指名したそうですよ。なんでも、二つのチームの掛け持ちスケジュールを管理できるのは、あなたしかいないと自治会に申請を出したとか。断ったらまた喧嘩が始まると言っていましてねぇ」
「……え?」
ホイッスルを吹くようなポーズのまま、瓢介のドヤ顔が凍りついた。
「俺が運転手……? じゃあ、俺の週末ののんびり昼酒の時間を……」
瓢介はハの字の眉をこれでもかと下げ、上げた手をどう下ろしていいか分からずに困り果てた。二つのチームを救った英雄のつもりだった男は、今や新郎新婦ならぬ両チームから、一番都合よく使われる「専属の足(移動係)」になっていた。
「お前は相変わらずのお調子もんだな」
大将が呆れたように鼻で笑い、カウンター越しに小皿をドンと置いた。
「ほらよ。お前をオマージュしたおにぎりじゃねえ。野球の白いボールと、サッカーの白黒のボールをオマージュした、変わりおにぎりだ」
真っ白で綺麗な塩むすびの隣に、海苔をパッチワークのように繊細に貼り付けた、美しい白黒のサッカーボール風のおにぎりが並んでいる。大騒ぎの対極にある、一番素朴で、ホッとする味がした。
「うぅ……美味いけど、塩味が目に沁みるぜ、大将……」
瓢介が情けない声を上げる中、志ん米師匠の楽しそうな笑い声が、静かな下町の夜に心地よく響き渡った。




