『居酒屋 ひさご』第九話:『『居酒屋 ひさご』消えたどんぐりと、あつあつの塩煎り銀杏』
町内に夕方の五時を告げる『赤とんぼ』のメロディが、物悲しく響き渡る。
その音に釣られるようにして、瓢介がいつものようにやってくる、『居酒屋 ひさご』の剛大将が暖簾を片手に戸を開けると。
瓢介が「待ってました、へへっ」と愛想笑いを浮かべながら木札を「営業中」へとひっくり返す。もう何度も繰り返して、いつもの風景。
「大将、おれの仕事の依頼きてる?」
お腹の虫を鳴らしながら訊ねる瓢介に、大将はエプロンのポケットから筆ペンで書かれた半紙の切れ端をぶっきらぼうに突きつける。
そこには『自治会 田村』とだけ書かれていた。
「え、田村のじいさん? あのボランティア無理強いじいさんが、俺に何の用だよ」
「さぁな。昼下がりに店へ電話がかかってきてよ。いつも偉そうな癖に、今日に限って消え入りそうな声で『瓢介くんを大至急うちへ向かわせてくれ』って懇願してやがったぞ。全く、ここは俺の店だってのによ。何があったか知らねえが、行ってきな」
大将はそれだけ言い切ると、すぐに厨房の奥へと戻ってしまった。
瓢介は首を傾げながら、町内の自治会長である田村邦夫の家へと向かった。
いつもなら「瓢介くん、今度の週末はドブさらいのボランティアだよ」と傲慢に命令してくる頑固じいさんだが、今日ばかりは真っ青な顔をして、玄関先でオロオロと震えていた。
「おお、瓢介くん! よく来てくれた! 頼む、頼むから誰にも言わずに助けておくれ!」
いつもと違う必死の形相に、瓢介は一歩引いた。
「な、なんだよ会長。お化けでも出たのかい?」
「お化けならどれだけ良かったか! 実はさぁ……」
田村会長は涙目で事情を吐露した。
近所に住む娘家族がハワイ旅行に行っている一週間、チワワの「どんぐり」の世話を頼まれていたのだという。それが今朝の散歩中、河川敷のベンチでほんの少し目を離した隙に、リードごと行方不明になってしまった。
「娘に知られたら、もう二度と孫の顔を見せてくれんくなる! 瓢介くん、頼む、内密に探してくれ!」
「なるほど、娘さんの怒りで孫に会えんくなる事にに怯えてるわけね。よし、お安い御用だ!」
瓢介は引き受け、さっそく手がかりを探しに下町の路地へと飛び出した。
しかし、あくる日の夕方になっても、小さなチワワの足取りは全く掴めない。下町じゅうの隙間やゴミ箱の裏を覗いて回り、瓢介はすっかり疲れ果てていた。
その日の夜、瓢介が『ひさご』のカウンターの隅に座り、「どこにもいない。あんな小さな犬、どう探しゃいいんだ」と頭を抱えていると、いつの間にか隣の席に、百パーセントの満面の笑顔を浮かべた古今亭志ん米師匠が座っていた。
「おや、瓢介さん。そんなに綺麗なハの字の眉を寄せて、今度は迷子探しですか?」
「聞いてくださいよ師匠。いつも偉そうな田村のじいさんが、チワワの『どんぐり』を失くして半泣きなんですよ。でも、どこを探しても見つからなくて……」
ハァとため息をつく瓢介を、志ん米師匠はお猪口をくいと干し、優しい口調のままチクリと刺した。
「瓢介さん。小さな『どんぐり』ってのはね、探そうと思って地面ばかり見ていても見つからないものですよ。意外と、自分よりも大きくて温かい『別の何か』の懐に、すっぽりと潜り込んで温まっているものですがねぇ。……さ、私はこれでお暇しますよ」
師匠はそれだけ言うと、お代を置いて風のように去っていった。
「別の何か……大きくて温かいもの? あッ、そっか!」
厨房の奥から大将が「答えが出るのが遅ぇんだよ」とボソリと呟いた。瓢介はポンと膝を叩いた。
翌朝の八時。瓢介はゆうやみのママに頼まれ『こてつ』の散歩アルバイトの真っ最中だった。
「よしこてつ、お前の鼻が頼りだ。大きくて温かいもの、心当たりがあるだろ?」
こてつは瓢介の言葉を理解したように、短い足をパタパタと動かして河川敷の茂みへと突進していった。
たどり着いたのは、河川敷の土手の陰、一匹の大きな野良のボス猫が朝日に当たって丸くなっている場所だった。
驚いたことに、その大きな猫のふさふさとしたお腹の毛の中に、小さなチワワの「どんぐり」が、寒さを凌ぐようにすっぽりと潜り込んで、気持ち良さそうに丸くなって寝ていたのだ。
「本当に大きくて温かいものの懐にいたよ!」
こてつの大金星だった。瓢介は無事にどんぐりを確保し、震えて待っていた田村会長のもとへ送り届けた。会長はチワワを抱きしめ、「恩に着る!」と男泣きに泣いた。
数日後の夜。仕事を終えた瓢介は、一人の客として『居酒屋 ひさご』の引き戸を静かに開け、カウンターの隅に腰を下ろした。
ビールを喉に流し込むと、瓢介は我慢できずにバッと立ち上がり、急にブリーダーのような役者口調のセリフを口走ってポーズを決めた。
「フッ、下町の迷い犬を導く、孤高のブリーダー・ひょうすけ! 俺とこてつの名コンビがあったからこそ、消えたどんぐりは無事に巣へと戻ったのです! これぞ下町の救世主、商店街の未来は明るいね!」
大真面目にポーズを決める瓢介を、志ん米師匠は百パーセントの笑顔でおっとりと見つめた。
「なるほど、救世主ですか。ですが瓢介さん、あの田村会長、すっかりあなたとこてつちゃんの腕前に感服してしまいましてね。今度は『町内ペット防災訓練の特別顧問』として、あなたを指名したそうですよ。断ったらまたボランティアを無理強いすると言っていましてねぇ」
「……え?」
格好良く決めていた瓢介のドヤ顔が、一瞬で凍りついた。
「特別顧問……? じゃあ、またタダ働き……?」
瓢介はハの字の眉をこれでもかと下げ、上げた手をどう下ろしていいか分からずに困り果てた。頑固じいさんを救った主役のつもりだった男は、今や会長から最も都合よく使われる「町内の便利駒」に逆戻りしていた。
「お前は相変わらずのお調子もんだな」
大将が呆れたように鼻で笑い、カウンター越しに小皿をドンと置いた。
「ほらよ。田村のじいさんの冷や汗の味だ。じっくり煎った、あつあつの塩煎り銀杏だ」
薄皮の向こうから、どんぐりのような美しいエメラルドグリーンの実が顔を覗かせている。熱々の実に塩がパラリと振られた、秋の最高に粋なアテだった。
「うぅ……美味いけど、銀杏の苦味が目に沁みるぜ、大将……」
瓢介が情けない声を上げる中、志ん米師匠の楽しそうな笑い声が、静かな下町の夜に心地よく響き渡った。




