『居酒屋ひさご』第十話:『下町ののど自慢と、喉に優しい大根おろし煮』
町内に夕方の五時を告げる『赤とんぼ』のメロディが、物悲しく響き渡る。
その音に釣られるようにして、瓢介がいつものようにやってくる、『居酒屋 ひさご』の剛大将が暖簾を片手に戸を開けると。
瓢介が「待ってました、へへっ」と愛想笑いを浮かべながら木札を「営業中」へとひっくり返す。もう何度も繰り返して、いつもの風景。
「大将、仕事の依頼きてる?」
お腹の虫を鳴らしながら訊ねる瓢介に、大将は『おめーよー、登場がだんだんと雑になってきてねーか?』エプロンのポケットから筆ペンで書かれた半紙の切れ端をぶっきらぼうに突きつける。
そこには『のど自慢』とだけ書かれていた。
「え、田村のじいさん? またボランティアさせられんの?」
「さぁな。昼下がりに店へ電話がかかってきてよ。『明日朝十時からののど自慢大会で、演歌歌手がドタキャンして大ピンチだ。瓢介をよこせ』ってよ。俺はおめーの店番してんじゃねーんだぞ。何があったか知らねえが、行ってきな」
大将はそれだけ言い切ると、すぐに厨房の奥へと戻ってしまった。
瓢介は急いで自治会長・田村邦夫の家へと向かった。
明日の本番を控え、会長は真っ青な顔で頭を抱えていた。
「瓢介くん! 明日の昼三時までのイベントなんだが、目玉の歌手が出られん。音響機材も調子が悪い。このままでは私の世間体が丸潰れだ、内密になんとかしてくれ!」
「一晩で代わりのプロなんて呼べないが、最強の助っ人を俺が集めてやる!」
瓢介は引き受け、その夜のうちに下町の仲間たちへ必死に連絡を回した。のど自慢と聞いて、スナック『ゆうやみ』のママも「行く行くー!」と二つ返事で参加を決めてくれた。
あくる日の朝九時、のど自慢の会場。
瓢介の根回しのおかげで、頼もしい助っ人たちが集まっていた。
普段エレキギターをやっていてオーディオの知識が豊富な、洗濯屋アクアブルーの清水の兄ちゃんがテキパキと音響の配線を直して極上のカラオケBGMを響かせ、力持ちの高校生・雄輔が重いステージ機材を軽々と運んでいく。
午前十時、のど自慢大会が幕を開けた。
ハナから参加してくれている『ゆうやみ』のママが、抜群の歌唱力でトップバッターとして会場を一気に温め、客席からは幼馴染の優太と恥ずかしがり屋の奥さんも静かに応援に駆けつける中、商店街の連中が自慢ののどを披露して大いに盛り上がる。
やがてお昼時、会場が弁当や休憩で一度落ち着く時間になった。トリの歌手がいない分、ここで時間を引き延ばさなければ後半のスケジュールが持たない。
舞台裏で時計を睨んでいた瓢介は、その場でとっさの機転を利かせた。ステージにパイプ椅子を二つ並べると、客席にいた駄菓子屋の繁子バァさんを呼び寄せたのだ。
「さぁみなさん、お昼の箸休めは、岡本商店の繁子バァさんによる『下町の知られざる昔話トークショー』だ!」
突然のプログラムに会場がざわめく。バァさんの一人舞台では退屈させてしまうかもしれない。そこで瓢介は自分もマイクを握り、相方として横に座った。
「バァさん、そういえばさ、商店街の裏にあるあのお堂って、大昔は幽霊が出たって本当かい?」
「何言ってんだい。ありゃ幽霊じゃなくて、昔のいたずら小僧がな……」
瓢介がお調子者らしい軽快な口調でテンポよく質問を投げかけると、バァさんは乗せられるようにして、生き生きと下町の懐かしい昔話を語り出した。対談形式の小気味よい掛け合いは、まるで落語のステージを見ているかのような楽しさだった。
お弁当を食べていたご近所さんたちも「おい、瓢介とバァさんが面白いこと始めたぞ」と身を乗り出し、会場は温かい笑い声に包まれた。
瓢介の機転で無事にお昼の時間を繋ぎきり、大会は後半戦へ。
そしていよいよ、午後二時半を過ぎて大トリの時間を迎えた。
「みんな! 最後の締めは、下町の若者たちによるスペシャルステージだ!」
瓢介の呼びかけでステージの幕が上がると、清水の兄ちゃんが調整した極上のカラオケ音源から、今をときめく『YOASOBI』のアップテンポなイントロが鳴り響いた。
ステージの真ん中、雄輔の彼女が満面の笑みでノリノリになって前に躍り出た。その胸元に抱えられているのは、マジックで手書きの鍵盤が描かれた、段ボール製のハリボテのキーボードだ。
隣では雄輔も、段ボールで作った特製のぶっといドラムスティックを両手に持って、弾けるような笑顔でエアーパフォーマンスを披露している。『和太鼓かー!』なんてつっこみもあったり
ボーカルを務めるのはもちろん、スナック『ゆうやみ』のママである。夜の街で鍛えた圧倒的な歌唱力で ikura さんさながらの高音を響かせると、手作りのハリボテ楽器で全力で飛び跳ねる若者たちの熱気に押され、会場のボルテージは最高潮に達した。
最後は出場者も客席のおじいさんやおばあさん達も全員がステージに上がり、手拍子を合わせながらの大合唱。午後三時、のど自慢大会はプロの一曲よりも遥かに温かい熱気の中、これ以上ないほどの大成功で無事に幕を閉じた。
数日後の夜。仕事を終えた瓢介は、一人の客として『居酒屋 ひさご』の引き戸を静かに開け、カウンターの隅に腰を下ろした。
ビールを喉に流し込むと、瓢介は我慢できずにバッと立ち上がり、急に敏腕プロデューサーのような役者口調のセリフを口走ってポーズを決めた。
「フッ、下町のステージを統べる、伝説のディレクター・ひょうすけ! 俺の一晩の根回しと、あのハリボテの『YOASOBI』を成功させた至高の演出があったからこそ、のど自慢は歴史に残る大成功を収めたのです! これぞ下町のトップスター、商店街の未来は明るいね!」
大真面目にポーズを決める瓢介を、志ん米師匠は百パーセントの笑顔でおっとりと見つめた。
「なるほど、伝説のディレクターですか。ですが瓢介さん、あの田村会長、あなたのあの現場での見事な掛け合いっぷりにすっかり惚れ込んでしまいましてね。今度は『町内敬老会のトークショーの相方』として、あなたを指名したそうですよ。もちろんボランティアで、断ったら……」
「……え?」
格好良く決めていた瓢介のドヤ顔が、一瞬で凍りついた。
「トークショーの相方……? じゃあ、またタダ働き……?」
瓢介はハの字の眉をこれでもかと下げ、上げた手をどう下ろしていいか分からずに困り果てた。イベントを救った主役のつもりだった男は、今や会長から最も都合よく使われる「町内の便利駒」に逆戻りしていた。
「トークショーの為にも今夜は鮭抜きでコレでも食ってろ」
大将が呆れたように鼻で笑い、カウンター越しに小皿をドンと置いた。
「ほらよ。のど自慢で声をからしたお前へのアテじゃねえ。下町の連中を一つにまとめた、鶏つくねの雪見大根おろし煮だ」
出汁がじんわりと染みた温かい鶏つくねの上に、喉に優しい真っ白な大根おろしがたっぷりとあしらわれている。大騒ぎのお祭りのあとにふさわしい、一番優しくて、心に沁みる味がした。
「うそーこんな美味いもんを酒なしだなんて殺生な〜大将……」
瓢介が情けない声を上げる中、志ん米師匠の楽しそうな笑い声が、静かな下町の夜に心地よく響き渡った。




