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『居酒屋ひさご』 第十一話:『職人の染み抜きと、味が染みた牛すじ大根』

 町内に夕方の五時を告げる『赤とんぼ』のメロディが、物悲しく響き渡る。

 その音に釣られるようにして、瓢介がいつものようにやってくる、『居酒屋 ひさご』の剛大将が暖簾を片手に戸を開けると。

 瓢介が「待ってました、へへっ」と愛想笑いを浮かべながら木札を「営業中」へとひっくり返す。もう何度も繰り返して、すっかり二人のいつもの風景になっていた。

「大将、おれの仕事依頼きてる?」

 お腹の虫を鳴らしながら訊ねる瓢介に、大将はエプロンのポケットから筆ペンで『清水』と書かれた半紙の切れ端を『ほらよっ』っと瓢介の顔に突きつけた。

「洗濯屋の清水のおっかぁだ、さっき店に電話がかかってきて、旦那と息子が喧嘩してるつってた。俺はおめーの店番してんじゃねーんだぞ、何があったかは自分で聞いてきな。」

 大将はそれだけ言い切ると、すぐに厨房の奥へと戻ってしまった。

 半紙を握りしめ、瓢介は『洗濯屋アクアブルー』へと向かった。

 店の勝手口では、清水のおかぁさんがエプロンの端をきつく握りしめ、今にも泣き出しそうな顔で瓢介を待っていた。

「ああ、瓢介さん、よく来てくれたわ……。もう、あの二人ったら店の中で一言も口をきかないのよ。店のことになるとお互いに頑固で、もう私、どうしていいか分からなくて」

 おかぁさんの案内で作業場の奥へ入ると、そこには肌がヒリつくような張り詰めた沈黙が流れていた。

 息子の清水の兄ちゃんは、古びた事務机の上で、頭を抱えるようにして大量の請求書と伝票を睨みつけている。その背中はどこか硬く、苛立ちに満ちていた。

 一方で、老いた親父さんは、薄暗い染み抜き台の奥で黙々とブラシを握り、薬品のツンとした匂いの中にその丸まった背中を沈めている。

 おかぁさんがお茶を淹れてくると言って席を外した隙に、瓢介はまず、兄ちゃんの方へ声をかけた。

「おい、兄ちゃん。おかぁさんが泣いてるぞ。何が原因でそんなにバチバチやってんだよ」

 兄ちゃんは作業場に響く洗濯機の音にかき消されないよう、しかし親父さんには聞こえないような低い声で、吐き出すように本音を漏らした。

「……俺だって、店をめちゃくちゃにしたいわけじゃないんだ。大手のチェーン店が『生地が傷むから』って真っ先に突っ返すような、繊細なシルクや高級な着物、そんな何でも完璧に綺麗にしちまう親父の染み抜きの技を、俺は誰よりもリスペクトしてる。あんな神がかった真似、機械にできるわけがない。だけどよ……」

 兄ちゃんは伝票をくしゃりと握りしめ、悔しそうに奥歯を噛み締めた。壁には、かつて彼がのめり込んでいたエレキギターが寂しそうに掛けられている。

「親父は、俺に別の仕事を探せって言って、絶対に技を教えてくれないんだ。俺は折角、他の道を諦めてこの店を継ぐって言ってるのに、親父が俺の何に不満があるのか、さっぱり分からないんだよ。店を継いで本気で手伝うって言っている息子の気持ちを、なんで頭ごなしに拒絶して、毎日毎日『早く出て行け』としか言わないんだ? どうしてそこまで俺を拒むのか理由が分からなくて、悔しくてたまらないんだよ」

 瓢介は次に、頑なに染み抜き台に向かい続ける親父さんの横へと回った。

「親父さん、兄ちゃんも店を思ってのことさ。少しは話を聞いてやったらどうだい」

 親父さんはしばらく手を止めなかったが、やがて薬品のボトルを置くと、深く、重いため息をついた。その手は長年の薬品ですっかり荒れ果てている。親父さんは、薄暗い手元を見つめながらポツリと呟いた。

「……あいつの言うことは、頭じゃ分かってるさ。店をやりたいって気持ちもな。だけどよ、瓢介くん。この『洗濯と染み抜きの技』ってのは、大手が拒否するような汚れを落とす、うちが生き残るための唯一の武器だ。同時に、俺の命そのものなんだよ。それを、夢から逃げ出して、行く宛がなくなってトボトボ戻ってきたような奴に、簡単に引き継がせるわけにはいかねえんだ」

 親父さんは、壁のギターをひどく厳しい目で見つめ、それから寂しそうに目を細めた。

「ギター一本で食っていけるほど甘い世界じゃない。だけど、夢に破れたからって、消去法でこの汚くてきつい職人の世界に逃げ込むような甘い根性じゃ、この店を守る責任なんて背負えやしない。あいつがあのギターの夢からただ逃げるために、一時しのぎの『飯のタネ』としてしかこの店を見ていないうちは、俺は絶対に技を教えん。あいつには、逃げじゃなく、自分の足で自立してほしいんだ。それが親としての最後の意地なんだよ」

 お互いがお互いを深く想い合っているのに、過去の挫折と親子の意地が邪魔をして、肝心の本音が完全にすれ違っている。おかぁさんが涙を流す理由が、瓢介の胸にも痛いほど染み渡った。

 その日の夜。瓢介が『ひさご』のカウンターの隅で「あの頑固親子、お互いを思ってるのにこれじゃ平行線だ。どうすりゃいいんだ」と頭を抱えていると、いつの間にか隣の席に、百パーセントの満面の笑顔を浮かべた古今亭志ん米師匠が座っていた。

「おや、瓢介さん。随分と難しい顔をして、今度はどんなお悩みですか?」

「聞いてくださいよ師匠。清水の親子が、お互いの覚悟と信頼を巡って大喧嘩なんです。どっちの本音も真っ直ぐで、俺じゃ裁ききれなくて……」

 ハァとため息をつく瓢介を、志ん米師匠はお猪口をくいと干し、優しい口調のままチクリと刺した。

「瓢介さん。仕立てのいい着物ってのはね、表の華やかな柄じゃなく、裏地の見えない縫い目の丁寧さで決まるものですよ。不器用な男の背中ってのは、言葉じゃなく、その『手元』を動かしている時に一番本音が漏れるものですがねぇ……。さ、夜も更けてまいりました。私はこれでお暇しますよ」

 師匠はそれだけ言うと、お代を置いて風のように去っていった。

「手元を動かしている時……裏地の縫い目? あッ、そっか!」

 厨房の奥から大将が「たまにはいい気づきをするじゃねえか」とボソリと呟いた。瓢介はポンと膝を叩いた。

 翌日。瓢介はいつものお調子者な大騒ぎを一切封印し、ある「特別な依頼品」を持ってアクアブルーの作業場を訪れた。それは、第十話ののど自慢大会で、スナック『ゆうやみ』のママがステージで着ていた、お気に入りの派手なステージブラウスだった。

「清水さん、兄ちゃん。これ、ママからの特別な依頼なんだ。何かの落ちない染みがべったりとついて困ってるらしくてさ。二人で力を合わせて、仕上げてくれないか」

 親子は一瞬、お互いを見た。しかし、親父さんはフイと顔を背けた。

「……俺はやらん。その手の現代ものの化学繊維は、俺の古い知識じゃ生地を傷める。あいつにやらせろ」

「なんだよ親父! 俺にやれって言ったって、この頑固な染みのケミカルの調合は親父にしかできないだろ!」

 またいつもの喧嘩が始まりそうになった。そこで、瓢介が二人の間に割って入った。

「兄ちゃん、お前さ、親父さんが何でお前に技を教えないか、ずっと分からなくて焦ってたろ」

 瓢介は真っ直ぐに兄ちゃんを見つめた。

「親父さんはね、お前がギターの夢に破れて、ただ行く宛がないからってこの店に逃げ込んできたと思ってんだよ。一時しのぎの飯のタネとしてしか店を見てない奴に、自分の命である技は渡せないってさ」

「……え?」

 兄ちゃんは息を呑み、目を見開いた。初めて知った親父の不満の理由。兄ちゃんは拳をきつく握りしめ、震える声で親父さんの背中に叫んだ。

「違うよ……! 俺は逃げ込んだんじゃない! ギターをやってた時、本気で上を目指してたからこそ、プロの世界の凄さが分かったんだ。それと同時に、誰も真似できない染み抜きの技をずっと一人で続けてきた親父の凄さが、やっと本当に理解できたんだよ! 負け犬の消去法なんかじゃない、俺は、この世界一格好いい親父の技を、本気で、一生かけて守りてえんだ!」

 その言葉に、親父さんの頑固な背中が、初めて大きく揺れた。

 親父さんはゆっくりと振り返り、息子の目をじっと見つめた。そこには、かつての迷いや甘さはどこにもなかった。本物の覚悟を目の当たりにした親父さんは、深く息を吐き出すと、ブラウスを手に取り、厳しいプロの顔つきになった。

「……あいつ、何を食べた。いつつけた。家で何か洗剤を試したか」

「え?」と呆気にとられる瓢介に、親父さんはぶっきらぼうに重ねた。

「染み抜きの基本は『問診』だ。情報を集めねえで適当な薬品を混ぜたら、ポリエステルは一発で溶けてパーになるぞ」

 瓢介はハッと記憶を掘り起こした。

「あ、ええと! ママがのど自慢の裏手で、お弁当の唐揚げをこぼしたって言てった。時間は二日前。おふくろさんが預かってからは、水も洗剤も何もつけてないってさ!」

「よし」

 親父さんは棚から引き出した膨大なケミカルのボトルから、油の成分に適合する薬品を数種類、絶妙な比率で調合し始めた。

 しかし、二日前の油汚れは想像以上に頑固で、最初の溶剤ではびくともしない。

「チッ、植物性の油だけじゃねえな。調味料に別の成分が混ざってやがる」

 親父さんの表情が険しくなる。ここからは職人の知識と経験による『試行錯誤』の領域だった。親父さんは別のケミカルをほんの数滴混ぜ、目立たない裏地で繊維の縮みがないかテストを繰り返す。別の薬品を試し、適合を論理的に導き出していくその圧倒的な手元を、兄ちゃんは一瞬たりとも見逃さないよう、鋭い目で食い入るように見つめた。

 親父さんはブラウスを特製の染み抜き台の上に広げると、調合した薬品を慎重に染みへ浸透させていく。そして、バキュームのスイッチを入れた。ゴォーという低い吸引音が作業場に響く。

 親父さんがブラシで優しく繊維をほぐすと、ケミカルによって瞬時に浮き上がった頑固な油汚れが、染み抜き台の強力なバキュームによって下へと一気に吸い取られていった。汚れを生地に広げず、完全に抜き去るプロの技。

 兄ちゃんは生地の裏側から絶妙なテンションで親父さんの作業をサポートしながら、汚れが吸い込まれて消えていく瞬間を注視した。親父さんもまた、息子の無駄のないサポートと、自分の技を本気で盗もうとするその真剣な手捌きに、確かな「信頼」を感じ取っていた。

「……やっぱり、すげえや。俺に、そのケミカルの適合、教えてくれよ」

 薬品の匂いが漂う沈黙の中で、兄ちゃんがまっすぐ親父さんの目を見て、心の底から声を絞り出した。

 親父さんは黙々と後片付けを始めながら、小さく、しかし力強く頷いた。

「……一回しか言わねえから、よく見てろ」

親父さんのその言葉に、おかぁさんは静かに涙を拭い、二人の背中に向かって微笑んだ。言葉は少なかったが、湯気のない静かな作業場で、二人の「手元」は完全に重なり、職人として、親子としての本当の信頼が、確かに通じ合っていた。最新の機械なんかなくても、この誰にも真似できない膨大なケミカルの知識と染み抜きの技があれば、店は絶対に守っていける。兄ちゃんの目に、もう迷いはなかった。

数日後の夜。仕事を終えた瓢介は、一人の客として『居酒屋 ひさご』の引き戸を静かに開け、カウンターの隅に腰を下ろした。

ビールを喉に流し込むと、瓢介は我慢できずにバッと立ち上がり、急に偉そうなコンサルタントのような役者口調のセリフを口走ってポーズを決めた。

「フッ、下町の伝統産業を救い、親子の絆を再生せし至高の仲介人・ひょうすけ! 俺が持ち込んだあの衣装があったからこそ、二つの天才職人は手を取り合い、下町の技術は未来へ受け継がれたのです! これぞ下町の守護神、商店街の未来は明るいね!」

大真面目にポーズを決める瓢介を、志ん米師匠はいつもの百パーセントの満面の笑顔でおっとりと見つめた。

「なるほど、至高の仲介人ですか。ですが瓢介さん、あの清水の親子、すっかり仲が良くなりすぎてね。今度は『瓢介のお節介に感謝する会』を開くから、あんたを今週末のドブさらいに招待したいと、おかぁさん達が嬉しそうに自治会に話していましたよ。特別なゲストだそうです」

「……え?」

格好良く決めていた瓢介のドヤ顔が、一瞬で凍りついた。

「ドブさらいに招待……? じゃあ、またタダ働き……?」

瓢介はハの字の眉をこれでもかと下げ、上げた手をどう下ろしていいか分からずに困り果てた。親子を救った英雄のつもりだった男は、今や下町の連中から、一番都合よくお礼を押し付けられる「愛され便利駒」に逆戻りしていた。

「お前は相変わらずのお調子もんだな」

大将が呆れたように鼻で笑い、カウンター越しに小皿をドンと置いた。

「ほらよ。お前みたいな野暮天へのアテじゃねえ。清水の親子をオマージュした、大将特製の牛すじ大根だ」

箸がすっと通るほど柔らかく、時間をかけて芯までしっかりと味が染み込んだ大根と、トロトロになるまで煮込まれた牛すじ。お互いの頑固な旨味が一つに溶け合った、一番優しくて、温かい味がした。

「うぅ……美味いけど、出汁の熱さが目に沁みるぜ、大将……」

瓢介が情けない声を上げる中、志ん米師匠の楽しそうな笑い声が、静かな下町の夜に心地よく響き渡った。


『居酒屋 ひさご』第十一話・後書き特別企画

【楽屋裏トーク】


濱田(瓢介役):

「はい、というわけで『居酒屋 ひさご』第十一話、読者の皆様ありがとうございましたー! いやぁ、今回は洗濯屋の清水のおっかぁからのSOS。染み抜きケミカルを巡る、ガチの大人の人情話でしたね。……って、ちょっと小日向さん! さっきから何ですかその、完全に魂が抜けたようなフニャフニャした笑顔は!」

小日向(志ん米師匠役):

「えぇ〜?(満面のふにゃふにゃした笑顔で) いやあ、だってさぁ、濱田くん。本編の志ん米師匠って、人間国宝ですごく粋なセリフをチクリチクリと言わなきゃいけないじゃない? あれ、僕の性格からすると本当に役不足っていうか、ハードルが高くてさぁ……。ほら、僕、普段はこんなだし、落語の長いセリフを覚えるだけで、もう頭がふにゃふにゃになっちゃうのよぉ〜」

濱田:

「いや、役不足じゃなくて力不足……いや、小日向さんのキャリアで力不足なわけないでしょ! 役作りですよ! ほら、今完全に素顔が出ちゃってますから! 読者の皆さんが『あの策士の志ん米師匠どこ行ったんだ!?』ってひっくり返りますから、シャキッとしてください!」

宇梶(剛大将役):

「(腕組みをしてガハハと豪快に笑う) いいじゃねえか、濱田。小日向さんはいつも現場を和ませてくれてんだからさ。それに比べたら、俺なんか本編じゃいつも強面で腕組みして、『ほらよっ』とか『何があったかは自分で聞いてきな』とか、凄みを利かせてるだろ? あれ、ぶっちゃけ俺、なーんにも考えてないんだよね」

濱田:

「えっ、宇梶さん、いま何て言いました……?」

宇梶:

「いや、だからさ。大将のセリフってぶっきらぼうで短いだろ? だから、現場じゃカメラが回った瞬間に、その場のノリと直感だけでドンと立ってるだけ。清水の家で何があったかとか、裏の細かい設定なんか、実はこれっぽっちも頭に入ってないんだガハハ!」

濱田:

「ちょっと宇梶さん!! ダメですって、それ言っちゃ! 宇梶さんのあの圧倒的な存在感があるから、この下町の世界観がバシッと締まってるんですよ!? 『実は何も考えてない』とか、後書きで暴露しないでくださいよ! 営業妨害ですよ!」

小日向:

「でもねぇ、宇梶さん。濱田くんは本当に凄いのよ。僕たちがこんなふうにフニャフニャしたり何も考えてない横で、台本を真っ黒になるまで読み込んでさぁ。あの『ハの字の眉』の角度ひとつ取っても、前日から鏡の前で『よし、今回は35度で行こう』とか、ものすごくストイックに役作りして挑んでるんだから。本当にしっかりしてるわよねぇ〜」

宇梶:

「おう、濱田の役作りは職人技だよな。のど自慢の時の、あの段ボールのハリボテ楽器のくだりも、濱田が『もっと手作り感を出しましょう!』ってスタッフに熱く提案したらしいじゃねえか」

濱田:

「いや、裏の仕事の話はもういいですから! 恥ずかしいから! 頼みますから、二人とも本編のイメージを守ってください! 俺がどれだけ裏で必死にしっかり役作りして回そうとしても、お二人の素のキャラが強すぎて、後書きの文字数がいくらあっても足りないんですからね! ほら、最後はなろうの読者の皆さんに、ビシッと大将と師匠の顔で挨拶してください!」

宇梶(大将の顔に戻って低音で):

「……おう。お前ら、自分の甘さも噛み締めながら、次回の第十二話も、楽しみに待ってな」

小日向(師匠の100%の笑顔で):

「フフフ、本編で私が言った『裏地の見えない縫い目』のように、次回も丁寧な物語をお届けしますよ。どうぞお楽しみにねぇ……(あ、終わった? 濱田くん、お腹空いたから大将に何か作ってもらおうよぉ〜)」

濱田:

「だから、最後にフニャフニャに戻らないでくださいってば!!」

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