『居酒屋 ひさご』第五話:『二年の眠りと、味が染みたイカ大根』
第五話:『二年の眠りと、味が染みたイカ大根』
午後五時ちょうど。それは下町の路地にひっそりと佇む『居酒屋 ひさご』の、厳格な開店時間である。
しかし、その五分前から、まだ暖簾の掛かっていない格子戸のガラスに顔を擦り付けんばかりにして、中を執拗に覗き込んでいる男がいた。徳利瓢介である。
今日の瓢介はすこぶる機嫌が良く、同時に猛烈に腹を空かせていた。昼過ぎに引き受けた引っ越し手伝いが予想を超えてテキパキと片付き、予定より二時間も早くお役御免となったのだ。心地よい肉体労働の余韻と、早く大将の美味いアテで一杯やりたいという執念が、彼を開店の前から店の前に張り付かせていた。
「大将、早くしてくれよ。お腹と背中がくっついちゃうよ……」
しびれを切らして引き戸に手をかけようとしたその瞬間、ガラリと突然扉が開いた。
中から現れたのは、『ひさご』の店主である剛大将だ。大柄で強面、黙って腕組みをしているだけで現役の格闘家のような凄みがある大将は、手に持った藍色の暖簾を店先にバサリと掛け、柱の「仕度中」の木札を「営業中」へとひっくり返した。そして、目の前に突っ立っていた瓢介を見るなり、これ以上ないほど露骨に眉をひそめた。
「……何やってんだ、お前は。営業妨害で警察呼ぶぞ」
「人聞き悪いこと言わないでよ大将! 待ってました、開店おめでとう! 今日の俺は一味違うぜ、下町の重労働をサクッとスマートに片付けてきたんだ」
瓢介はこれみよがしに胸を張り、得意の「ドヤ顔」をキメてみせたが、その直後、張り詰めた空気をぶち破るように、彼のお腹がグゥと情けない音を響かせた。途端に瓢介はハの字の眉を下げ、照れ隠しに頭を掻く。
大将は呆れ果てたよう『何がおめでとうだ、めでたいのはお前の頭だよ』と鼻で息を漏らすと、店の中へ踵を返した。
「食うのは後だ。お前に伝言がある」
「ええっ、お預け!?」
文句を言いながら瓢介が厨房のカウンターを覗き込むと、大将はエプロンのポケットから、クシャッとした半紙の切れ端をぶっきらぼうに突きつけてきた。
それには筆ペンで、サラサラと墨色の文字が躍っている。
『洗濯 清水』
「……これだけ? どこの誰だい?」
「洗濯屋 清水だ。昼間、親父さんがお前を探してたんだよ。俺は伝言板じゃねえんだ、見りゃ分かるだろ。行ってきな」
大将はそれ以上何も語らず、大根の皮剥きに戻ってしまった。瓢介は未練がましくカウンターの丸椅子を見つめながらも、観念して商店街にある『洗濯屋アクアブルー』へと足を向けた。
ガラガラと引き戸を開けると、温かいアイロンの蒸気と、どこか懐かしい石鹸の香りが瓢介を包み込んだ。看板こそ『洗濯屋アクアブルー』などという横文字に変わっているが、中身は昔ながらの下町のクリーニング屋だ。奥の作業場から顔を出した白髪の店主・清水の親父さんは、瓢介の姿を見るなり「おお、瓢介! 待ってたよ!」と顔を綻ばせた。
「大将がことづけてくれたんだな」
「で、親父さん、どんな依頼なんだい?」
親父さんは、カウンターの奥から丁寧にビニールを被せられた一着のコートを厳かに取り出した。一目で仕立てが良いと分かる、高級な冬物のウールコートだ。
「これさ。二年前から預かりっぱなしで、田中さんっていうお客さんのコートなんだけど。その田中さんが住んでた古いアパートが半年前、建物の老朽化で取り壊されちまってね。当然、田中さんもどこかへ引っ越しちまったんだが、連絡先が変わっちまったみたいで電話も通じやしない。だけど、あんな上等な上着を処分しちまうのはどうしても忍びなくてね。地元の人間を隅々まで知ってるお前さんなら、田中さんの足取りが掴めるんじゃないかと思って、大将にことづてたんだんだよ」
「なるほどね。二年間放置されたコートの主の捜索と配達か。よし、お安い御用だ!」
瓢介はコートを預かり、『ひさご』へと戻った。
しかし、いざカウンターの隅に陣取ったものの、瓢介はすぐに頭を抱えることになった。手がかりは「田中」というあまりにもありふれた苗字と、半年前まであのアパートにいたということだけだ。
「困ったな。下町じゅうの田中さんを片っ端からノックして回るわけにもいかないし……」
「おや、瓢介さん。そんなに綺麗なハの字の眉を寄せて、一体どうしました?」
おっとりとした優しい声に顔を上げると、いつの間にか隣の席に古今亭志ん米師匠が座っていた。御年七十前後、下町の人間国宝とも称される大落語家は、今日もトレードマークである百パーセントの満面の笑顔を浮かべている。
「あ、師匠! 実はかくかくしかじかで、二年前から放置されたコートの持ち主を探してるんですが、アパートごと消えちゃって足取りが全く掴めないんですよ」
藁にもすがる思いで泣きつく瓢介を、志ん米師匠はニコニコと楽しそうに見つめている。そして、手元のお猪口をくいと干すと、その優しい口調のまま、チクリと鋭い核心を刺した。
「瓢介さん。人間ってのはね、住む場所を変えることはあっても、自分の生活の縄張りや仕事の都合ってものは、そう簡単には変えられないものですよ。特に、生活のリズムが昼間と違うようなお仕事の方なら、なおさら近場に潜んでいるものですがねぇ。……さ、夜も更けてまいりました。私はこれでお暇しますよ」
師匠はそれだけ言うと、お代を置いて風のように去っていった。
「昼間と違う生活……仕事の縄張り……。あッ! 夜間警備か!」
瓢介の叫びに、厨房の奥から大将が「洗濯屋の清水の親父も、田中は夜勤が多い仕事だって言ってたな」とボソリと呟いた。瓢介はポンと膝を叩いた。「そうと分かれば話は早い!」
時計の針が夜の八時を回り、下町の繁華街がネオンで彩られ始める時間帯を狙って、瓢介は動き出した。
地の文で正確な時間経過を記述するならば、瓢介が警備員たちの詰所や巡回ルートを地道に歩き回り、足が棒のようになりかけた二日目の深夜のことだった。ついに「その田中なら、すぐ裏手の新しいアパートに引っ越したよ」という同僚の警備員に行き着いたのだ。
あくる日の夕方。瓢介は夜勤の出勤準備中であろう時間帯を狙って、田中さんの新しいアパートを訪ねた。
呼び鈴を鳴らすと、仕事着姿の若い男が出てきた。コートの持ち主の田中さん本人だ。
「あの、洗濯屋の清水さんから頼まれて、これをお届けに上がりました」
瓢介が丁寧にコートを差し出すと、田中さんは一瞬目を見開き、それから深くため息をついた。
「あぁ……それ、二年前、当時の恋人に手ひどく振られた日に出したやつです。見るだけであの時の失恋を思い出して辛くて……だから、忘れたふりをしてわざと放置して、引っ越しの時もそのままにしちゃったんです。せっかく探してくれたのに申し訳ないですが、もう要りません。処分してください」
切ない事情だった。しかし、ここで瓢介の頭に「これ、売ったらいい小遣いになるんじゃ?」という浅知恵が浮かぶ。だが、いくら不要と言われたとはいえ、他人の財産を勝手に質屋やフリマアプリで売却すれば「横領罪」になってしまう。犯罪に手を染めるわけにはいかない。瓢介はぐっと物欲を堪え、田中さんから正式に「処分一任」のサインを貰った。
「それならさ、田中さん。地元の若手劇団が、冬物の衣装が足りなくて困ってるんだ。そこに寄贈するって形なら、コートも浮かばれるだろ?」
「ええ、それで構わないなら、ぜひそうしてください」
田中さんは肩の荷が下りたように、瓢介が差し出したメモに署名をしてくれた。円満解決である。
数日後の夜。『居酒屋 ひさご』のカウンター。
瓢介は、これ以上ないほどのドヤ顔で、二枚の紙切れをひらひらと掲げていた。
「いやぁ大将、師匠! 聞いてくださいよ。あのコートを劇団に寄贈したらものすごく感謝されちゃって。お礼に今やってる舞台のペア招待券を貰ったんです! 俺の機転で、洗濯屋の清水さんも、田中くんも、劇団も、みんな大ハッピーですよ!」
カウンターの奥で、剛大将は腕組みをしたまま「へえ、大したもんだな」とぶっきらぼうに呟く。その隣の席では、志ん米師匠がいつもの百パーセントの笑顔で、おっとりと話し始めた。
「おや、瓢介さん。その劇団の舞台、私も贔屓にしておるのですがね。昨日が千秋楽(最終日)だったんですが、若手たちの熱気が素晴らしくて、本当に良いお芝居でしたよ」
「……え?」
瓢介のドヤ顔が凍りついた。慌てて手元のチケットの「日付」を確認する。
【十月二十五日(日)千秋楽】
カレンダーを見る。今日は、十月二十六日の月曜日だった 。
「……終わってる」
瓢介はハの字の眉をこれでもかと下げ、首を傾げて困り果てた。せっかくのペアチケットは、ただの紙屑になっていた。
「お前は相変わらず、最後の最後で詰めが甘ぇんだよ」
大将が呆れたように鼻で笑い、カウンター越しに小皿をドンと置いた。
「ほらよ。味がしっかり染みたイカ大根だ。これを食って、自分の甘さも噛み締めな」
「うぅ……美味いけど、心に沁みるぜ、大将……」
瓢介が情けない声を上げる中、志ん米師匠の楽しそうな笑い声が、静かな下町の夜に心地よく響き渡った。
アパートの解体なら不動産屋さんが新しいところ見つけてくれただろうけど
瓢介は気付かない(呆




