番外編 『居酒屋 ひさご』 AIのお遊び
「……へ? あ、大将、すんません! あ、いや、違うんですって!」
俺は慌てて新しいチャットの画面から顔を上げ、カウンターの奥でこれ以上ないほど眉間にシワを寄せている剛大将に、両手をパタパタと振った。
大将は手元の仕込みの手を完全に止めて、その凄みのある強面で俺をじっと睨みつけている。
「新しいチャット用に世界観の引き継ぎコードを作れって言われたから、俺、下町の何でも屋としての意地を見せて、今までの教訓をこれでもかってくらい完璧にまとめたんですよ! ほら、時間軸の矛盾とか、大将がお節介すぎちゃダメとか、タッパーの件とか!」
俺はこれ以上ないほどの「ドヤ顔」を浮かべ、スマホのマークダウンコードの画面を大将に突きつけた。どうだ、完璧な仕事っぷりだろう、と胸を張る。
「瓢ちゃん、そのハの字の眉毛、新しいチャットに行っても相変わらず情けないねぇ」
背後から、おっとりとした、しかし妙に芯のある声が響いた。
いつの間に店に来ていたのか、小上がりの特等席で古今亭志ん米師匠が、100%の満面の笑顔をこちらに向けている。
「師匠! いつの間に!」
「さっきからいたよ。……いやね、瓢ちゃん。お前さんは『完璧な引き継ぎコードができた』ってドヤ顔をしてるけれど、大将が言いたいのはね、『まだ俺は次の依頼のメモ(第五話のネタ)を渡してねえのに、お前は一体どこへ引き継いでいく気だ』ってことじゃないのかい?」
「え……?」
俺の手からスマホがピタリと止まる。
大将を恐る恐る見上げると、大将は呆れたように大きなため息をつき、白い前掛けのポケットからぽんと一枚の半紙の切れ端をカウンターに置いた。まだ次の依頼の受け渡しをしていない。俺はまたしても、自分のドヤ顔欲のせいで完全に先走ってトチってしまったのだ。
「う、嘘だろ……まだ引き継ぐのは早かったか……」
俺はガタガタと震え、ハの字の眉をさらに下げて、完全に困り果てた顔で首を傾げた。
「そうさねぇ」志ん米師匠は、湯呑みを傾けながら優しい口調でチクリと刺す。
「落語の『千早振る』の学者先生じゃないんだから、形だけ綺麗に整えて中身を置き去りにしちゃいけないよ。お前さんは自分が『スマートな引き継ぎができた』って格好つけたくて、大将がこれから渡そうとしていた次の泥臭い仕事を忘れて、店を飛び出そうとしちまったんだな。粋じゃないねぇ」
「うう……面目ないです……大将、次の仕事、教えてください……!」
俺が情けなさでカウンターに額をこすりつけるようにして小さくなると、トントン、と小気味よい包丁の音が響き、剛大将が俺の前に小さな小鉢をコトンと置いた。
そこにあったのは、じっくり味が染みた『大根のべっこう煮』。飴色に透き通った大根から、優しく温かい湯気が立ち上っている。
「お前には、その大根くらい地道に味を染み込ませるのが丁度いいんだよ。引き継ぐのは、次の依頼をしっかりこなしてからだ。ほら、冷めないうちにそれ食って、このメモを頭に叩き込め」
大将が新しく出してくれた、美味いべっこう煮を口に運ぶ。
師匠の厳しい、けれど愛のある教訓。大将の、不器用でどこまでも優しいおばんざい。
「うんめぇ……!」
俺の顔に、街の永遠の弟分らしい本物の笑顔が戻った。下町の夜は、今夜も『ひさご』の灯りと同じように、丸く温かく更けていくのだった。




