『居酒屋 ひさご』第四話:ツッパリ少年と、レンコンのはさみ揚げ
営業開始にはまだ三時間以上もある、昨日の昼下がりの二時。
普段なら絶対に顔を出さない仕込みの時間、俺――徳利瓢介は、『ひさご』の勝手口の引き戸をそっと開けていた。
「……大将、いる?」
「あぁ? なんだ瓢介、邪魔だぞ」
厨房の奥から、地鳴りのような剛大将の声が飛んでくる。大将は強面をさらに険しくして、夕方の営業に向けた仕込みの真っ最中だった。
「いやさ、大将……実は今日の仕事が急にキャンセルになっちゃってさ。このままだと、稼ぎがゼロの『あぶれ何でも屋』になっちゃうんだよ。じいさんばあさんから、切実な伝言メモとか届いてない?」
俺がハの字の眉をこれ以上ないほど下げて懇願すると、大将は呆れたように大きなため息をついた。
「ったく、お前がうろちょろすると仕込みが進まねえ。……これでも食って、さっさと行ってこい。ちょうどさっき、新田さんの奥さんが店に直接きてな。お前に頼みたいことがあるってよ」
大将がぶっきらぼうに差し出してきたのは、試作中だという揚げたての『蓮根のはさみ揚げ』。サクッとした衣の間から、肉厚で美しい蓮根と、じゅわっと肉汁が染み出すひき肉が顔を覗かせていた。小腹の空いたお腹に、隠し味の利いた絶品料理が染み渡る。
「うんめぇ! で、大将、仕事は!?」
「これだ」
大将が強面のまま、白い前掛けのポケットからぽんと一枚の半紙の切れ端をよこした。達筆な文字で『新田さんの奥さん・拓也』とだけ書かれている。
「新田さんちの拓也って、あの中学生の大人しい子? どうしたの?」
「奥さんの話しだと、最近、学校のちょっとヤンチャなグループに目を付けられて怯えとるらしい。なんとかナメられないようにする方法を教えてやってくれってよ」
「なるほどねぇ! よし、仕事にあぶれてる場合じゃない。この街の永遠の弟分、瓢介の出番です! あいつをバシッと男にしてやりますよ!」
俺は残りの半分を勢いよく口に放り込み、これ以上ないほどの「ドヤ顔」を浮かべて勝手口から飛び出した。大将が背後から「妙な色気出すんじゃねえぞ」とぶっきらぼうに釘を刺す声が聞こえたが、すっかり調子に乗った俺の耳には届かなかった。
――そこから丸一日の時間が流れた、今日の夕暮れ時。
ガラガラと勢いよく『ひさご』の正面の引き戸が開いた。
「へへ、大将! ただいま戻りましたよ!」
俺はこれ以上ないほどの満面の「ドヤ顔」で店に滑り込んだ。ちょうど開店直後の時間帯だが、いつも小上がりにいるはずの志ん米師匠の姿はない。今日は上野の寄席でトリを務めるらしく、店には来られないと聞いていた。
静かな店内、カウンターの奥の剛大将は、いつもの凄みのある顔をさらに険しくして腕組みをしていた。
「おう、瓢介。お前、やっぱり拓也に余計なこと吹き込んだな。さっき開店前に、新田さんの奥さんが半泣きでここに飛び込んできたぞ。お前のせいで、拓也が公園でヤンキーどもに囲まれて泣かされたって大騒ぎだったぞ」
「へへん! 大将、奥さんはただの心配性、中身を何も分かっちゃいません。この徳利瓢介、仕事は百パーセント大成功ですよ!」
俺はふんぞり返り、カウンターの丸椅子に腰掛けた。
大将は「お前なぁ……」と呆れた顔のまま、昨日も作った『蓮根のはさみ揚げ』の小皿をドンと目の前に置いた。
「いいから聞けよ。今日の放課後、拓也の奴、そのヤンチャな子たちに公園で囲まれてな、お前さんに教わった通りに『俺が本当に怖いのは退屈だけさ……』って、震える声でポーズを決めたんだとよ。あまりに拓也がガタガタ震えながら言うもんだから、相手に根掘り葉掘り詰め寄られたら、拓也の奴、パニックになって『本当は、オフクロが買ってくるお徳用のピーマンの肉詰めが死ぬほど大嫌いなんだよお!』って、涙目で本音を叫んちまったんだ。今じゃすっかり面白がられて、明日みんなでピーマンの肉詰めを持ち寄って無理やり食わせるって大騒ぎになってるんだぞ。奥さんは、いじめがエスカレートしたんじゃないかって真っ赤な顔で泣いてたんだ。お前さんの仕込みはただツッパるだけの張り子の虎だ。自分のドヤ顔のために、多感な中学生につまんねえ事させんじゃねえ。粋じゃねえな」
一気にまくしたてた大将は、包丁をまな板にトンと鋭く突き立てて俺を睨みつけた。
俺ははさみ揚げを一口ハフハフと頬張り、美味さに目を細めながら、ニヤリと人差し指を立てた。
「大将、だから分かってないなぁ! そこからが、俺と拓也の裏の『大作戦』なんですよ」
「……あぁ?」
「拓也の奴、本当はピーマンの肉詰めが『死ぬほど大好物』んです。でも家じゃお姉ちゃんたちに全部食われちゃうから、もっとたくさん腹一杯食べたいってのが、あいつの密かな夢だったんですよ。つまり落語の『饅頭こわい』の完全再現です! 拓也は、ヤンチャグループが自分を困らせようとして、明日大量の手作りピーマンの肉詰めをタダで持ってきてくれる予定なんです。あいつはそれを公園のベンチでバクバク食べて、ついでにそいつらと『お前の母ちゃんの肉詰め、美味いな!』なんて言いながら、一緒に食う取り付けてきたんですよ! ナメられるどころか、胃袋を掴んで一瞬でマブダチ計画です!」
店内を数秒の静寂が包んだ。
包丁を握ったまま、腕組みをした大きな背中の大将が、完全に呆気にとられて目を丸くしている。奥さんと一緒になって俺を怒鳴りつけていた大将は、自分の早合点にようやく気付いたようで、みるみるうちに強面が赤くなっていった。
「……フン」
大将はきまずそうに視線をそらし、包丁を握り直してトントンと小気味よい音を響かせた。それから、厨房の奥から年季の入った大きめのタッパーを取り出し、新しくカラリと揚げたものを手際よく詰めて、フタをパチンと閉めて俺の前に置いた。
半透明のフタの向こうに見えるのは、蓮根の穴の中に、細かく刻んだピーマンを肉と一緒にギッシリ詰め込み、カラリと揚げた別バージョンの『はさみ揚げ』だった。
「大将……これ……」
「……明日、この特製はさみ揚げも食わせてやれ。タッパーはちゃんと洗って返せよ。それと、奥さんにはお前が今夜中にちゃんと説明して、安心させておけよ。」
大将はバツが悪そうにぶっきらぼうに顎をしゃくった。
「蓮根ってのはな、見ての通り穴だらけだ。中身が空っぽだったらただのスカスカだが、こうやって中に美味い肉をぎっしり詰めときゃ、立派なご馳走になる。……無理に突っ張るんじゃねえ、自分の好きなもんをしっかり胸に詰めて生きていきゃ、それが一番の武器になるって、明日、拓也に伝えてこい」
じわじわと胸の奥が温かくなる。大将は、俺が仕事にあぶれてまで拓也のために付き合って汗をかいたことを知っているからこそ、自分の早合点を照れ隠ししながらも、俺たちの「饅頭こわい作戦」を、最高の料理で応援してくれたのだ。
「大将……! ありがとうございます!」
「お前には、そうやって他人のために頭と体を使う泥臭い仕事が丁度いいんだよ。ほら、冷めないうちにそれ食ってさっさと帰れ」
大将の、不器用でどこまでも優しいおばんざいを口に運ぶ。
いつもなら師匠にやり込められる役回りを、今日はいない師匠の代わりに、大将がその大きな背中で最高に粋に、そしてちょっぴりお茶目に締めくくってくれた。
「うんめぇ……!」
俺の顔に、街の永遠の弟分らしい本物の笑顔が戻った。下町の夜は、今夜も『ひさご』の灯りと同じように、丸く温かく更けていくのだった。
(第四話・了)




