『居酒屋 ひさご』第三話:横文字の隠居と、わけぎのぬた和え
ガラガラと引き戸を開けると、ツンとした心地よい酢の香りと、爽やかな味噌の香りが店内に漂っていた。
「おう、瓢介。待ってたぞ。お前、商店街の老舗和菓子屋『一福堂』の大旦那に、一体何を教え込んだんだ? さっき大旦那が、町内会の役員連中に平謝りしながら、真っ赤な顔で逃げるように帰っていくのを見かけたぞ」
カウンターの奥で、腕組みをした剛大将が、いつもの強面をさらに険しくして声をかけてきた。小上がりの特等席では、古今亭志ん米師匠が「待ってました」と言わんばかりに、100%の満面の笑顔を浮かべて湯呑みを傾けている。
「へへ、大将、師匠! それは誤解ですよ。俺はただ、大旦那の『若者にナメられたくない』っていう切実な願いを、完璧に叶えて差し上げたんですから!」
瓢介は埃をパパッと払い、これ以上ないほどの「ドヤ顔」を浮かべて丸椅子に腰掛けた。
注文もしないうちに目の前に差し出されたのは、色鮮やかな小鉢に盛られた『わけぎとアサリのぬた和え』。瑞々しい緑のわけぎと、ぷっくりとしたアサリに、艶やかな白味噌ベースの酢味噌がとろりとかかっている。
「事の始まりは、今朝の五時ですよ。一福堂の大旦那から『こっそり手伝ってくれ』って、裏口に呼び出されたんです。大旦那(75歳)、最近の若い衆が使う『SNS』とか『タイパ』とか、カタカナの横文字がさっぱり分からなくて悩んでたんですよ。今夜、地域の若手経営者たちを集めた『商店街の活性化会議』があるらしくてね。『そこで知ったかぶりをして恥をかきたくない。ナメられないように、最新の若者言葉を教えてくれ』って涙ながらの依頼です」
瓢介はぬた和えを一口ハフハフと頬張り、わけぎのシャキシャキとした食感とアサリの旨味に目を細めながら、得意げに人差し指を立てた。
「そこで、この街の永遠の弟分、瓢介の出番です。俺は午前中から夕方までみっちり付き合って、大旦那に最新の言葉を叩き込みましたよ! 例えば『タイパ』は『タイムパフォーマンス』の略で、時間を無駄にしないこと。……でもね、ただ教えるだけじゃつまらない。大旦那が会議でバシッと知的にマウントを取れるように、ちょっと俺流の『スパイス』を利かせた格好いい例文を作って、丸暗記させたんです!」
胸を張って、ふんぞり返る瓢介。
「『最近の若者はタイパを気にするが、和菓子作りってのはタイムをパスして(無駄にして)パフォーマンス(演技)をする、つまり時間を忘れて魂の芝居を打つってことなんだよ』ってね! どうですか大将、これを聞いた若手連中、大旦那の深い言葉にスタンディングオベーション間違いなしでしょ?」
しかし、剛大将は呆れたように大きなため息をつき、ただ静かに「……ほう」とだけ呟いた。その妙な間に、瓢介は「あれ?」と首を傾げる。
「どうかしました、大将? 完璧なアドバイザーぶりでしょ?」
「瓢ちゃん、そのハの字の眉毛、本当に相変わらずだねぇ」
背後から、おっとりとした、しかし妙に芯のある声が響いた。志ん米師匠が、満面の笑顔のままチクリと刺す。
「さっきね、その活性化会議を終えた若手連中が、うちの前で頭を抱えていたよ。……いやね、大旦那、瓢ちゃんに教わったその『俺流のスパイス』とやらを、すっかり真に受けちゃってね。会議の冒頭で堂々と『これからは、我が一福堂もタイパの時代だ! つまり、これからは時間を徹底的に無駄にして、ただのパフォーマンス(お芝居)で和菓子を作る!』って大真面目に宣言しちゃったんだってさ」
「え……ええええーーっ!? そのまま言っちゃったんですか!?」
瓢介の手から箸がピタリと止まる。
「それだけじゃないよ。大旦那はね、『これからはインフルエンサーの力も借りる!』って息巻いてたそうじゃないか。お前さん、インフルエンサーをどう教えたんだい?」
「いや、それは、その……『インフル(流行風邪)にかかったみたいに、人をフラフラにさせるほど熱狂的なファンを持つ人』って……」
「大旦那はね、若手たちに向かって『うちの饅頭を食べたら全員インフルエンサーにしてやる! 全員フラフラになるまで高熱を出させて、うなされながら一福堂の噂を流させるんだ!』って叫んだそうだよ。若手たちは、和菓子に毒でも盛る気かって恐怖で震え上がって、会議はガタガタのままお開きさ」
「う、嘘だろ……」
瓢介はガタガタと震え、ハの字の眉をこれ以上ないほど下げて、完全に困り果てた顔で首を傾げた。良かれと思って教えた適当な解釈が、大旦那の生真面目さと合わさって最悪の誤解を生んでしまった。
志ん米師匠は、湯呑みを傾けながら優しい口調のままチクリと刺す。
「百人一首の『千早振る』の意味を聞かれて、本当は何も知らないのに、その場で適当な嘘をついて相撲取りの恋物語にしちまう学者先生の落語があるけれどね。お前さんがやったことは、その学者先生以下だよ。大旦那はね、お前さんを信頼して頭を下げてきたんだ。分からない横文字を『分からないから教えてくれ』と若い者に頭を下げられる大旦那は、本来とても粋な人なんだよ。それを、お前さんの半端な知ったかぶりと妙な色気のせいで、町の恥晒しにしちまった。粋じゃないねぇ」
「うう……面目ないです……。俺、大旦那に謝ってきます……!」
瓢介が情けなさでカウンターに突っ伏したその時、トントン、と小気味よい包丁の音が響き、剛大将が瓢介の前に別の小皿をコトンと置いた。
そこにあったのは、先ほどのわけぎの根元に近い白い部分だけを、さっと湯通しして特製の甘味噌を添えただけのシンプルな料理だった。
「大将……これ……」
「大旦那には、さっき俺から電話して、お前が浅知恵でトチっただけだと話して、この店に呼び出してある。もうすぐ来る。……これを大旦那に食わせろ」
大将はぶっきらぼうに顎をしゃくった。
「わけぎってのはな、漢字で『分け葱』って書くんだ。一本の根元から、いくつも枝分かれして育つからその名がついた。……大旦那が若い奴らの言葉を分かりてえと思ったのはな、そうやって自分から若い連中と同じ根元で、枝分かれして繋がろうとしたからだ。知ったかぶりなんかさせねえで、大旦那には大旦那の、長年培ってきた美味い和菓子の味がある。背伸びなんかしねえで、胸張って若者と『分け隔てなく』話しなって、お前がその料理を前にして、自分の言葉で頭を下げて伝えてこい」
瓢介は目を丸くし、それからじわじわと胸の奥が温かくなるのを感じた。大将は、瓢介が大旦那のために午前中からずっと付き合って汗をかいたことを知っているからこそ、そのトチりの後始末を、ちゃんと先回りして用意してくれていたのだ。
「大将……! ありがとうございます!」
「お前には、そうやって何度も泥をかぶって、人に頭を下げにいく不器用な仕事が丁度いいんだよ。ほら、大旦那が来る前に自分の分を食っちまえ」
大将が新しく出してくれた、しっかり出汁の利いたぬた和えを口に運ぶ。
師匠の厳しい、けれど愛のある教訓。大将の、不器用でどこまでも優しいおばんざい。
「うんめぇ……! よーし、大旦那が来たら、きっちり謝って、一から話してきます!」
瓢介の顔に、いつもの、街の永遠の弟分らしい本物の笑顔が戻った。下町の夜は、今夜も『ひさご』の灯りと同じように、丸く温かく更けていくのだった。
(第四話・了)




