『居酒屋 ひさご』第一話:ぽっちゃりパグと、大将の裏メニュー
カラガラと引き戸を開けると、出汁のいい香りと共に、カウンターの奥からいつもの凄みのある視線が飛んでくる。
「おう、瓢介。そういや、先週渡した『ゆうやみ』の件はどうなったんだ? ママさんがなんか言ってたか?」
カウンターの中で腕組みをした剛大将が、ぶっきらぼうに声をかけてきた。
小上がりの特等席では、志ん米師匠が湯呑みを片手にこちらをニヤニヤと眺めている。
「へへ、大将、師匠! 待ってました、その言葉!」
瓢介は待ってましたとばかりに、これ以上ないほどの「ドヤ顔」を浮かべて丸椅子に腰掛けた。
注文もしないうちに目の前に差し出されたのは、『冬瓜と鶏そぼろの冷やし餡かけ』。ガラスの小鉢に盛られた冬瓜は、まるで透き通る翡翠のように美しく面取りされ、繊細な生姜の香りが優しく鼻腔をくすぐる。とてもこの巨漢の大将が作ったとは思えない美しさだ。
「ママさんの愛犬、パグの『こてつ』ですよ。見に行ったらさ、もう犬っていうか、動く食パン。獣医さんに『このままじゃ関節を痛めるからダイエットさせろ』って怒られたらしくてね。そこで、下町の何でも屋・瓢介の出番ってわけです」
瓢介は冬瓜を一口ハフハフと頬張り、出汁の旨味に目を細めながら、人差し指を立てた。
「この一週間、俺はこてつに『スパルタ・ブートキャンプ』を課してたんですよ。ママさんが甘やかしてオヤツをあげるのを一切禁止させて、俺が毎日、坂道ダッシュの散歩に連れ出したんです。こてつが『もう歩けない』って顔をしても、心を鬼にして引っ張りました。結果、今日量ったらなんと、五百グラムの減量に成功! ママさん、涙を流して喜んで、俺に金一封をくれようとしたくらいですから!」
胸を張って、ふんぞり返る瓢介。
しかし、剛大将は表情一つ変えず、ただ静かに「……ほう」とだけ呟いた。その妙な間に、瓢介は「あれ?」と首を傾げる。
「どうかしました、大将? 完璧な人助け……いや、犬助けでしょ?」
「瓢ちゃん、そのハの字の眉毛、あいかわらず情けないねぇ」
背後から、おっとりとした、しかし妙に芯のある声が響いた。志ん米師匠が、100%の満面の笑顔をこちらに向けている。
「さっきね、店に来る途中で『ゆうやみ』のママが、目を真っ赤にして大慌てで店に鍵をかけてるのを見かけちゃってさ。夜の稼ぎ時に店を閉めて、タクシーに飛び乗ってたよ。瓢ちゃん、何か聞いてないかい?」
「え!? タクシー? なんで……今日で無事に減量成功してハッピーエンドのはずじゃ……」
瓢介は慌ててポケットからスマホを取り出した。ちょうどその時、ママから通知が飛び込んでくる。短い悲痛な文面と、夜間救急の動物病院の待合室の写真だった。
『瓢ちゃん、どうしよう! こてつがお腹を空かせたストレスで、私の大切なシャネルの靴の飾りをボロボロに噛みちぎって、そのまま飲み込んじゃったの……! 今日の営業は休みにして、急いで夜間病院に来て吐き出させる処置をしてもらってます。あの子、私にまったく懐かなくなってたし、こんなことになって……ごめんね、ダイエットなんてさせるんじゃなかった……』
「う、嘘だろ……誤飲って……」
瓢介はガタガタと震え、ハの字の眉をさらに下げて、完全に困り果てた顔で首を傾げた。そんな瓢介に、志ん米師匠は優しい口調のままチクリと刺す。
「落語の『元犬』じゃないんだから、犬に人間の理屈を急に押し付けちゃいけないよ。瓢ちゃん、お前さんは自分が『一週間で成果を出してやった』っていうドヤ顔がしたくて、こてつの気持ちも、ママさんの寂しさも、置き去りにしちまったんだな。急な絶食と猛特訓じゃ、ただの監禁と虐待だよ。腹が減ってりゃ、目の前にある革靴だって噛みちぎりたくもなるさ。粋じゃないねぇ」
「うう……面目ないです……。俺、今から病院に行ってきます!」
立ち上がろうとする瓢介の前に、トントン、と小気味よい包丁の音が響き、剛大将が小さな皿をコトンと置いた。
そこにあったのは、細かく刻んだ温野菜と、脂気を完璧に抜いたささみのスープ煮だ。味付けは一切されていないが、素材の甘い香りが立っている。
「大将……これ……」
「さっきママさんから、病院に向かうタクシーの中から泣きながら電話があった。……処置が終わったら、病院の帰りにこの店に寄るように言ってある。こてつのダイエット用フードだ」
大将はぶっきらぼうに顎をしゃくった。
「飯の量を減らすんじゃねえ。美味くてカロリーの低いものを食わせてやりゃ、犬も飼い主もストレスは溜まらねえ。……お前が明日からの散歩の帰りに、これをママのところに届けるんだ。今度は『普通の散歩』でな」
瓢介は目を丸くし、それからじわじわと胸の奥が温かくなるのを感じた。大将は、瓢介のトチりをすべて包み込むように、裏で完璧な後始末を用意してくれていたのだ。
「大将……! ありがとうございます!」
「お前には、そのくらいの手間をかける泥臭い仕事が丁度いいんだよ。ほら、冷めないうちに自分の分も食え」
大将が新しく出してくれた、今度はしっかり出汁の利いた『冬瓜のそぼろ煮』を口に運ぶ。
師匠の厳しい、けれど愛のある教訓。そして大将の、不器用でどこまでも優しいおばんざい。
「うんめぇ……! よーし、明日からまた、こてつの散歩やり直しだ!」
瓢介の顔に、いつもの、長屋の弟分らしい本物の笑顔が戻った。下町の夜は、今夜も『ひさご』の灯りと同じように、丸く温かく更けていくのだった。
(第一話・了)




