第二話 公園の老人 (四)
四 また来る日
美紀が老人へ頭を下げる。
「本当にありがとうございました」
「大したことはしてない」
「でも、私たちだけでは気づかなかったので」
「次から気づけばいい」
老人は足元の鞄を持ち上げた。
「家へ帰ったら、首輪ごと見てもらえ。曲がったのが、そこだけとは限らん」
「分かりました」
美紀は端末を開き、家の点検項目へ首輪の確認を追加した。
その様子を見て、航が老人へ言う。
「機械に見せるんだって」
「さっき言っただろ」
「おじいさんが直したのに?」
「直したから、もう見なくていいとはならん」
老人は鞄をベンチへ戻した。
「人が見たあとに機械が見てもいいし、機械が見たあとに人が見てもいい」
航は美紀の端末と、老人の鞄を交互に見た。
「どっちが先でも?」
「そのときによる」
「今日は、おじいさんが先だった」
「たまたまだ」
老人はベンチへ腰を下ろした。
ハルがまた戻ろうとする。
航はリードを引かず、その場にしゃがんだ。
「ハル、まだ帰りたくないの?」
尻尾が揺れている。
「また来ればいいでしょう」
美紀が言った。
航は老人を見た。
「おじいさん、明日もいる?」
「知らん」
「いついるの?」
「決めてない」
「じゃあ、会えないかも」
「公園なんだから、好きなときに来ればいい」
「おじいさんも?」
老人は少し黙った。
「犬がよく来る時間には、いることが多い」
「今くらい?」
「そうだ」
「じゃあ、今くらいに来る」
「毎日来るとは言ってない」
「ぼくは来るよ」
「学校があるんじゃないのか」
「学校のあと」
「宿題は」
「まだない」
「そのうち出る」
「終わってから来る」
老人は面倒そうに息を吐いた。
「勝手にしろ」
航はうなずいた。
「ハルも連れてくる」
「犬だけでいい」
「ハル、一人では来られないよ」
「なら、仕方ないな」
航は立ち上がった。
老人に手を振る。
「またね」
老人は手を上げなかった。
「前を見て歩け」
航が前を向く。
美紀ももう一度軽く頭を下げ、航と並んで歩き始めた。
ハルは何度か後ろを振り返った。
そのたびに航は立ち止まったが、もうリードを引かなかった。
「ハル、行くよ」
声をかけると、ハルは航のところまで戻り、再び隣を歩き始めた。
公園の出口まで来たところで、航が足を止めた。
「ハル、待って」
航はしゃがみ、金具を横から見た。
指で押すと、開いたあと、元の位置へ戻った。
「ちゃんと戻った」
美紀が追いつくと、航は金具から手を離して立ち上がった。
「明日も見る」
「そうしてね」
航はうなずいた。
今度はハルの横へ並び、ゆっくり歩き出した。
二人と一匹の姿が、公園の外へ消えた。
老人はベンチに座ったまま、しばらく出口を見ていた。
航の声が、木の向こうからかすかに聞こえた。
何を言っているのかまでは分からない。少しして、ハルの首輪が鳴る音も聞こえなくなった。
公園には、遊具の近くで遊ぶ子どもたちの声と、自動清掃機の低い動作音だけが残った。
老人は視線を足元へ戻した。
さっきまでハルが伏せていたところには、芝が少し倒れていた。靴の先にも、鼻を押しつけられた感触が残っているような気がした。
老人は片足を動かした。
そこにはもう何もいなかった。
鞄を膝へ引き寄せる。
留め具を外すと、中の工具は出かける前とほとんど同じように並んでいた。ただ一本だけ、置かれている向きが違っている。
老人は先ほど使ったプライヤーを取り出した。
先端には、金具を挟んだ薄い跡が残っている。ポケットから布を出し、その部分をゆっくり拭いた。
拭けば、跡はほとんど見えなくなった。
昔使っていたものより小さく、軽い。
家でこの鞄の工具を使うことは、ほとんどなかった。それでも外へ持ち出す日は、出かける前に留め具を開き、中身を確かめている。
老人はプライヤーを布の仕切りへ戻した。
隣にある短いドライバーの向きも直し、鞄の留め具を閉じようとした。
そのとき、端末が震えた。
老人の手が止まる。
画面には、久しぶりに見る名前が表示されていた。
《近いうちに、聞きたいことがある》
老人は文章を一度読んだ。
画面を閉じようとして、もう一度読む。
「聞きたいこと」としか書かれていない。何についてなのかも、いつ来るのかも分からなかった。
返事を入力する欄を開く。
《何をだ》
そこまで打って、指が止まった。
文字を消す。
今度は、
《いつ来る》
と打った。
それも消した。
老人は端末を膝の上へ置いた。
芝生の向こうを、自動清掃機が進んでいる。落ち葉を拾い、進んだあとには何も残さない。
老人は、しまったばかりのプライヤーを取り出した。
開いて、閉じる。
小さな音がした。
さっき直した金具と、よく似た音だった。
老人は出口のほうを見る。
航たちの姿は、もう見えない。
端末の画面が暗くなる。
老人はプライヤーを元の場所へ戻し、今度こそ鞄の留め具を閉じた。
返事は送らないままだった。




