第三話 母の小さな活動 (一)
一 赤い袋
航が学校へ通い始めて、五日が過ぎた。
朝はまだ、美紀と直人が玄関まで見送っていた。
学校までは歩いて行ける距離だったが、航は毎日ちがう道を選んだ。初めの二日は美紀も途中までついていったが、三日目からは、近所に住む同じ教室の子と待ち合わせるようになった。
その日の午後、航は家へ帰るなり、鞄を置いてハルの首輪を調べた。
金具を横から見て、指で押す。
開いたあと、元の位置へ戻った。
「だいじょうぶ」
だれに言うでもなくつぶやく。
美紀は台所から、その様子を見ていた。
「毎日見てるの?」
「うん」
「忘れてないんだ」
「忘れたら、おじいさんに言われるから」
航はハルへ首輪を着けた。
「お母さん、今日、公園まで行ける?」
「うん。今日は大丈夫」
「じゃあ、早く行こう」
航はすぐにリードを持った。
ハルは二人より先に扉の前へ座り、尻尾を床へ打ちつけていた。
外へ出ると、日差しはまだ明るかったが、学校から帰ってくる子どもや、家の前へ椅子を出す人が増えていた。
航はハルを引かず、隣へ並んで歩いた。
ハルが道の端へ寄ると、その場で待つ。用が済むと、
「行くよ」
と声をかける。
老人に教えられたとおりだった。
「上手になったね」
美紀が言う。
「前から上手だったよ」
「そうだったかな」
「ちょっと引っぱっただけ」
「ハルもそう言ってる?」
航はハルを見た。
「もう忘れたって」
「都合がいいね」
公園へ向かう途中、前から小さな女の子と母親が歩いてきた。
二人とも、前日に道で顔を合わせたことがあった。
女の子は赤い布の手提げ袋を持っていた。袋の表には、不ぞろいな白い花がいくつも描かれている。
すれ違う直前、女の子の持っていた袋が傾いた。
中から小さな容器が転がり、道の上で止まる。
「あっ」
女の子がしゃがみ込んだ。
航もハルのリードを持ったまま、容器を拾う。
「これ?」
「うん」
航が差し出すと、女の子は両手で受け取った。
袋の片方の持ち手が、付け根から半分ほど外れていた。
母親がその部分を確かめる。
「また切れちゃったね」
女の子は袋を抱えるように持った。
「新しいのはいらない」
「同じ形のものも選べるよ」
「これがいい」
「でも、そのままだと持てないでしょう」
女の子は袋の表を美紀へ向けた。
白い花の間には、小さな青い犬のようなものが描かれていた。
「自分で描いたの?」
美紀が聞いた。
女の子はうなずいた。
「この花は、お姉ちゃんが描いた」
指で、ほかより大きな花を示す。
「同じ布に移してもらうこともできるけど」
母親が言った。
女の子は袋を胸へ抱えた。
「同じじゃない」
美紀はしゃがみ、持ち手の付け根を見た。
縫い目の近くで布が薄くなっている。糸だけを縫い直しても、また裂けそうだった。
「見てもいい?」
女の子は袋を美紀へ渡した。
美紀は持ち手を軽く引き、裏側を確かめた。
外れた部分の周りにも、ほつれが広がっている。
「これは、縫うだけだとまた切れるかもしれないね」
女の子の顔が曇った。
母親が端末を開いた。
「補修を頼めるところを探してみます。近くにもあると思うので」
美紀は袋の裏側を見たまま言った。
「布を一枚当てれば、まだ使えると思います」
母親が顔を上げる。
「分かるんですか?」
「家のものを直すことがあったので」
美紀は持ち手の付け根へ指を添えた。
「ここだけ引っ張られないように、裏から支えれば」
そこで口を止めた。
頼まれてもいないのに、引き受けようとしているような気がした。
「すみません。補修を頼める場所があるなら、そのほうが確実だと思います」
女の子は袋を受け取らず、母親を見上げた。
「お願いしてもいいんでしょうか」
母親が聞いた。
「私に?」
「難しくなければ」
美紀はすぐには答えなかった。
補修用の布も糸も家にある。直人の服や航の袋を繕うことは、以前から何度もあった。
ただ、人のものを預かるとなると話が違った。
「今日中でなくても大丈夫です」
母親が言った。
「うまくいかなければ、途中で返していただいても」
女の子が袋を差し出した。
「直る?」
美紀は袋を受け取った。
「たぶん」
「たぶん?」
「今見えている傷みだけなら」
女の子は考えてから、うなずいた。
「じゃあ、お願い」
母親が端末を操作しようとする。
「お名前と、活動の――」
「登録はしていないんです」
美紀が言った。
母親の指が止まった。
「あ、そうなんですね」
「近所ですし、明日ここでお返しします」
「それでは、何かお礼を」
「大丈夫です。まず、直るか見てみます」
女の子が念を押す。
「花は消さないでね」
「消さないよ」
「青いのも」
「これも残す」
美紀が青い犬を指すと、女の子は安心したように笑った。
「ハルに似てる」
航が言った。
「似てないよ。これは耳が長いもん」
「ハルも耳あるよ」
「長くない」
二人が袋の絵を見比べる。
母親が美紀へ頭を下げた。
「では、お願いします」
母子と別れたあと、航は美紀が抱えた袋を見た。
「お母さん、直せるの?」
「やってみないと分からない」
「おじいさんみたい」
「どこが?」
「見てから決めるところ」
「そうかな」
「公園、行かないの?」
「行くよ」
美紀は袋を腕に掛けようとして、外れかけた持ち手に気づき、抱え直した。
航が笑った。
「それじゃ持てないよ」
「だから直すんでしょう」
ハルが先へ進みかける。
航はリードを引かず、名前を呼んだ。
「ハル、行くよ」
ハルは振り返り、二人のところへ戻ってきた。
三人はそのまま、公園へ向かった。
美紀は歩きながら、何度か袋の持ち手へ目を落とした。
裂けた場所だけでなく、その周りの布も弱くなっている。
家にある布で足りるだろうか。色が表へ響かないほうがいい。縫い目も、なるべく元の形へ合わせたい。
気づくと、もう直す順番を考えていた。




