第三話 母の小さな活動 (二)
二 同じの
公園から戻ると、美紀は赤い袋を食卓へ広げた。
航は手を洗い、ハルに水を出してから、すぐにそばへ戻ってきた。
「もう直すの?」
「先に傷んでいるところを見ておこうと思って」
表には白い花と、耳の長い青い犬が描かれている。近くで見ると、花びらの線には何度も重ねた跡があった。
航が犬を指した。
「やっぱりハルじゃない」
「耳が違う?」
「顔も違う」
足元で寝ようとしていたハルが、名前に反応して顔を上げた。
美紀は袋を裏返した。
持ち手の縫い目が裂け、その周りの布も薄く伸びている。外れたところだけ縫い戻しても、中へ物を入れれば、また同じ場所へ力がかかる。
「破れてるところ、そこだけじゃないの?」
航がのぞく。
「大きく破れているのはここだけ。でも、その周りも弱くなってる」
「まだ破れてないよ」
「まだね」
美紀は裁縫箱を取り出した。
以前の家から持ってきたもので、角には細かな傷がついている。蓋を開けると、色の違う糸と針、布の切れ端が入っていた。
「どれ使うの?」
「裏に当てる布を探す」
「見えなくなるのに?」
「見えないところが弱いままだと、また切れちゃうから」
航は袋の裏側へ顔を近づけた。
「おじいさんも、横から見ろって言ってた」
「首輪の金具を?」
「見えるところだけじゃわかんないって」
美紀は袋の裂け目へ布を重ねた。
「同じかもしれないね」
白い布では、表から透けて見えた。
少し黄色がかった布を重ねると、赤い地の色へなじんだ。糸は航が選んだ。
「ぼくもできる?」
美紀が最初の一針を入れたところで、航が聞いた。
「今日は見てて」
「どうして?」
「人から預かったものだから」
「お母さんは失敗しないの?」
「するかもしれないよ」
「じゃあ、なんでやるの?」
美紀は糸を強く引きすぎないように整えた。
「するかもしれないから、確かめながらやるの」
「それでもだめだったら?」
「そのときは、ちゃんと話す」
航は手元を見た。
「女の子が、これがいいって言ったから直すの?」
「それもある」
やがて航は椅子から下りた。
「ハルと遊ぶ」
「針があるから、こっちへ来ないようにしてね」
「わかった」
隣の部屋から、床の上を何かが転がる音と、航の笑い声が聞こえ始めた。
美紀は袋へ向き直った。
縫っては表へ返し、花の絵に糸が重なっていないか確かめる。
途中で縫い目が元の線から外れ、数針だけ戻した。
窓から入る光が、食卓の中央から端へ移っていく。
遊ぶ音は、いつの間にか聞こえなくなっていた。
見ると、航は床へ寝転び、ハルの背中へ腕を乗せていた。
二人とも目を閉じている。
美紀は最後の糸を結び、余った部分を切った。
袋を表へ返すと、外れかけていた持ち手は元の位置へ戻っていた。裏側には当て布の形が見えるが、表からはほとんど分からない。
中へ重さのあるものを入れ、持ち上げてみる。
縫い目は動かなかった。
「できた?」
航が部屋の入口から聞いた。
髪の片側が潰れている。
「たぶん」
「まだ、たぶん?」
「明日、もう一度見てからね」
航が袋へ近づいた。
「花、消えてない」
「約束したから」
「青いのもある」
航は持ち手を見た。
「どこ直したか、わかんない」
美紀は袋を裏返し、当て布を見せた。
「こっち」
「でも、前と同じだね」
「同じように見えるなら、よかった」
「新しくなってないよ」
「新しくするんじゃなくて、使えるようにしたかったから」
航は袋を見ていた。
「女の子、よろこぶかな」
「どうだろう」
「ぼくはよろこぶと思う」
「どうして?」
「同じのだから」
航の言った「同じの」という言葉が、美紀の中に残った。
翌日の午後、美紀は赤い袋を持って家を出た。
昨日と同じ道の端で、女の子と母親が待っていた。
女の子は美紀の姿を見ると、先に駆け寄ってきた。
「直った?」
「たぶん、大丈夫」
美紀はしゃがみ、袋を差し出した。
女の子は持ち手ではなく、最初に表の絵を見た。
白い花を目で追い、最後に青い犬へ指を置く。
「ある」
「消さないって約束したでしょう」
女の子は袋を裏返し、増えた縫い目を指でなぞった。
それから表へ返し、腕を伸ばして眺める。
「同じのだ」
美紀は息を吐いた。
母親が袋の内側を確かめる。
「丁寧に直してくださったんですね」
「引っ張られるところだったので、広めに布を入れました」
女の子は袋へ昨日の容器を入れ、持ち上げた。
「大丈夫」
「強く振らないでね」
母親が止める。
女の子は袋を胸の前へ抱えた。
「ありがとう」
美紀の返事は、ひと呼吸遅れた。
「どういたしまして」
その言葉を言うのが、思っていたより照れくさかった。
母親が端末を開いた。
「何かお礼をさせてください」
「本当に大丈夫です」
「でも、時間もかかったでしょう」
「私も、久しぶりにできて楽しかったので」
母親は端末を閉じた。
「では、また困ったときに相談してもいいですか」
美紀は女の子の腕に戻った袋を見た。
「私にできるものでよければ」
女の子が袋を持ち上げる。
「これ、お姉ちゃんに見せる」
「直ったところを?」
「同じところを」
母子が角を曲がるまで、袋は女の子の腕で揺れていた。




