第三話 母の小さな活動 (三)
三 自分で直す
その日の夕方、家の端末へ伝言が届いた。
《上の娘も、自分の鞄を直してみたいと言っています》
その下に、
《美紀さんに、そばで見ていただくことはできますか》
と続いていた。
美紀は食卓の椅子へ座った。
自分で直すのと、子どもに針を持たせるのは違う。鞄がどのように傷んでいるのかも、写真だけでは分からなかった。
美紀は、子どもだけを預かるように見えない言葉を探し、返事を書いた。
《鞄の傷み方を見ながら、一緒にやってみる形でもよければ。針を使うので、お母さんもご一緒いただけると安心です》
返事は夕食の支度を始めたあとに届いた。
《ありがとうございます。三人で伺います》
灰色の鞄の写真が添えられている。
さらに、
《週末でもよろしいでしょうか》
と続いた。
美紀は予定を開いた。
土曜日の夕方には、移住した日に街を案内した支援室の女性が、生活の様子を確認しに来ることになっていた。
昼過ぎからなら、時間がかかっても間に合いそうだった。
《土曜日の一時ごろでしたら大丈夫です》
美紀はそう返した。
週末の午後、母親が二人の娘を連れてやってきた。
妹は直した赤い袋を腕に掛け、姉は写真で見た灰色の鞄を抱えていた。底の角が擦れ、縫い目から糸が出ている。
「これも直すの?」
航が聞いた。
「今度は、お姉ちゃんが直すんだよ」
妹が先に答えた。
「私が言おうとしたのに」
姉は鞄を食卓へ置いた。
食卓には、美紀の裁縫箱と、何種類かの布が並んでいた。
母親は裁縫箱をのぞく。
「近くで見るの、初めてかもしれません。家で直してもらうときは、預けて終わりなので」
姉が鞄を美紀の前へ押し出した。
「どこからやればいい?」
美紀は鞄を受け取らず、向きを変えた。
「どこが一番傷んで見える?」
姉は糸が出ている縫い目を指した。
「ここ」
「触るとどう?」
「やわらかい」
「反対側と比べてみて」
姉は両方の角を交互に押した。
「こっちは硬い」
母親も触れて、声を上げる。
「あ、本当。私は糸しか見てなかった」
「こっち、薄くなってる」
姉が言った。
美紀は布を数枚取り出した。
「薄くなったところを、別の布で支えます」
姉は小さな布を重ねたが、傷んだ部分が外へ出た。
自分で布をずらし、ひと回り大きなものを取る。
「こっちなら入る」
「うん。そっちがよさそうだね」
妹も身を乗り出した。
「私もやりたい」
「今日はお姉ちゃんの鞄でしょう」
「私の袋は、もう直ってるから」
航が言う。
「こわれてなくても、見ればいいんだよ」
「何を見るの?」
「糸が出てないかとか」
妹は赤い袋を裏返した。
「出てない」
「うすくなってない?」
妹が指で押す。
「わかんない」
「今は大丈夫そうね」
母親が言った。
妹は持ち手を引こうとしたが、母親に止められた。
航がうなずく。
「何度もさわったら、今度は自分でこわすって、おじいさんも言ってた」
妹は手を離した。
「じゃあ、もう見たから終わり」
「何もなかったら、それで終わり」
航は満足そうに言った。
美紀は姉へ針を渡した。
「持ったことはある?」
姉は首を横に振った。
「じゃあ、ゆっくりね。先には触らないように」
最初の一針は、考えていた場所より大きく外れた。
「あ」
糸が斜めになる。
「変になった」
「戻せるよ。このまま留めることもできるけど、どうする?」
姉は糸を見てから、針を元へ戻した。
「もう一回やる」
二度目の針も真っすぐではなかったが、さっきより布の端に近かった。
それから姉は、何度も裏と表を確かめながら縫い進めた。糸を強く引きすぎたときだけ美紀が手を添えた。
妹と航は、いつの間にかハルと遊んでいた。
窓から入る日差しが手元から外れ、母親が照明をつけた。
姉は途中で指を休めたが、鞄から離れようとはしなかった。
角を一周したころには、外の光が赤くなっていた。
最後の結び目は布から離れた場所にできた。
姉は美紀に教わりながら糸を戻し、もう一度結ぶ。
今度は布の近くに、小さな結び目ができた。
「できた」
姉は余った糸を切り、鞄を表へ返した。
縫い目は不ぞろいだったが、薄くなった角は裏から支えられている。
持ってきた本と水筒を入れ、鞄を持ち上げた。
縫い目は開かなかった。
「直った」
姉は美紀を見る。
「これ、私が直したって言っていい?」
「もちろん」
姉は曲がった縫い目を指でなぞった。
「ここは上手じゃない」
「最初のほうでしょう。最後はずっとそろってるよ」
母親も鞄をのぞき込んだ。
「本当に持ててるね」
「私が縫ったから」
姉は鞄を肩へ掛けた。
帰る支度をしながら、母親は裁縫箱を見た。
「こういう集まりって、ほかにもあるんですか?」
「分かりません。私は家のものを直していただけなので」
「てっきり、どこかで教えている方なのかと思いました」
「今日が初めてです」
「初めてだったんですか?」
母親は姉の鞄を見る。
「それでも、この子は自分で直せました」
「私も、傷んだ鞄を見たのは初めてでした」
母親は美紀へ頭を下げた。
「今度は私もやってみたいです」
「一緒にやりましょう」
三人が帰ったあと、家の中が急に静かになった。
食卓には、切り落とした糸と布の端が残っていた。
美紀は針の本数を確かめ、裁縫箱へ戻した。
「お姉ちゃん、上手だった?」
航が戻ってきた。
「最初より、最後のほうが上手だったよ」
「お母さんは何したの?」
「どこを見るか、一緒に考えた」
「それだけ?」
「それだけかもしれないね」
「でも、またやるって言ってた」
美紀が裁縫箱の蓋を閉じたとき、玄関の呼び出し音が鳴った。




