第二話 公園の老人 (二)
二 外れかけた金具
ベンチの近くまで来ると、ハルが老人のほうへ鼻を向けた。
「ハル、こっち」
航がリードを引く。
老人が顔を上げた。
犬ではなく、航の手元を見ている。
「引くな」
航の手が止まった。
老人はリードの先を指した。
「そこ、外れかけてるぞ」
美紀がハルの首元を見る。
首輪とリードをつなぐ金具が、わずかに外側へ曲がっていた。
老人はベンチから立ち上がった。
「もう一度強く引いたら、犬だけ先へ行く」
美紀は金具へ手を伸ばした。
指で押してみると、開いた部分が途中で止まり、元へ戻らなかった。
「いつからでしょう」
「さあな」
老人はハルの前へしゃがんだ。
ハルが鼻を近づけると、老人はすぐには触らず、握った手の匂いを嗅がせた。
ハルは何度か鼻を動かしたあと、その手を舐めようとした。
老人は手を引いた。
「まだだ」
ハルはその手を目で追った。
老人が美紀を見る。
「首輪を外してもいいか」
「お願いします」
「坊主、犬を押さえられるか」
「できる」
航はハルの横にしゃがみ、首へ腕を回そうとした。
老人が止めた。
「首を締めるな。身体だ」
航は腕を下ろし、今度は後ろからハルの胴を抱えた。
ハルは少し身体をよじったが、逃げようとはしなかった。
「これでいい?」
「もう少し下だ。前脚の後ろ」
航が腕の位置を直す。
「強くしすぎるなよ」
「逃げたらだめなんでしょ」
「逃げない程度でいい」
「どれくらい?」
「犬を見ろ」
航は腕の中のハルを見た。
ハルは口を開けて息をしながら、老人の手元へ顔を向けている。
「苦しくない?」
ハルの耳が少し動いた。
「大丈夫だって」
「お前が答えるな」
老人はリードを外し、続いて首輪を抜いた。
ハルが大きく首を振る。耳が航の顎に当たり、航は顔をしかめた。
「じっとして、ハル」
ハルはもう一度だけ身体を動かし、その後は航の腕の中で落ち着いた。
老人は外した首輪を裏返した。
金具を開き、横から眺め、爪で押してみる。
「ばねじゃないな。こっちが曲がってる」
足元の布の鞄を引き寄せた。
鞄の留め具も古く、開くときに小さな音がした。
中には何本かの工具が、布の仕切りに収まっていた。どれも新しくはなかったが、錆びてはいない。
航が身を乗り出す。
ハルもつられて前へ出ようとした。
「動くな」
「ぼく?」
「両方だ」
航はハルを抱え直した。
老人は二本の工具を取り出し、片方を戻した。残したほうは、手のひらに収まる小さなものだった。
「それ、何?」
「挟むものだ」
「名前は?」
「名前を聞いてどうする」
「覚える」
老人は一度だけ航を見た。
「先の細いプライヤーだ」
「ぷらいやー」
航は確かめるように言った。
老人は金具を挟んだ。少し力を入れ、止める。向きを変え、また挟む。
金属がかすかに鳴った。
航は黙って手元を見ていた。
老人の指がわずかに震えている。
工具の先が一度、金具から外れた。
老人は何も言わずに持ち直した。
美紀が少し腰を浮かせる。
「何か押さえましょうか」
「いらん」
答えは早かった。
美紀はそのまま座り直した。
老人は工具を持つ位置を変えた。膝の上に首輪を置き、片手で金具の根元を押さえる。
もう一度、ゆっくり力を加える。
「固いの?」
航が聞いた。
「動くなと言っただろう」
航は口を閉じた。
ハルの背中へ顎を乗せるようにして、また老人の手元を見る。
老人は金具から工具を外した。
指で何度か開閉する。
一度目は途中で止まった。
老人は眉を寄せ、もう一度工具を当てた。
「新しいの、もらえるよ」
航が言った。
老人の手は止まらなかった。
「家に言ったら、すぐ来る」
「知ってる」
「これと同じのもあると思う」
「あるだろうな」
「そっちのほうが早いよ」
老人は返事をしなかった。
金具を横から見て、ほんの少しだけ曲げ戻す。
工具を外し、また指で押した。
今度は最後まで開き、指を離すと元の位置へ戻った。
小さな音がした。
「直った」
航が声を上げる。
「まだだ」
老人は金具を何度か開閉した。
次に首輪へリードをつなぎ、強く引いた。角度を変えて、もう一度引く。
「なんで何回もやるの?」
「一回動いたくらいじゃ分からん」
老人は金具を航の前へ出した。
「どこが悪かった」
航は目を近づけた。
「ここ」
曲がっていたところを指す。
「前と何が違う」
「まっすぐになった」
「それだけか」
航は金具を押した。
開いたあと、元へ戻る。
「あ、戻る」
「さっきは戻らなかった」
「うん」
老人は金具を航の手から取り戻した。
「新しいのに替えたら、分かったか」
航は少し考えた。
「何が?」
「どこが悪かったかだ」
「分かんない」
老人は金具を見た。
「そういうこともある」
航はまだよく分からない顔をしていた。
老人はそれ以上説明せず、首輪をハルの首へ戻した。
「もう離していいぞ」
航が腕を緩めると、ハルはすぐに立ち上がった。
身体を大きく振り、首輪を鳴らす。
そのまま老人の膝へ近づき、鼻先を押しつけた。
老人は工具を鞄へ戻してから、ハルの頭へ手を置いた。
今度は追い払わなかった。
耳の後ろを二度ほど掻く。
ハルは目を細めた。
美紀がリードを受け取る。
「助かりました。気づいていませんでした」
「犬が逃げたら、探すほうが面倒だ」
「それでも、ありがとうございます」
老人はハルを撫でたまま、返事をしなかった。
航が首輪の金具を押す。
開いて、戻る。
もう一度押そうとしたところで、老人が航の手を軽く払った。
「何度も触るな。今度はお前が曲げる」
「そしたら、また直せる?」
「壊す前提で話すな」
航は手を引っ込めた。
老人は航の顔を見る。
「坊主、名前は」
「航」
「犬は」
「ハル」
老人は足元の犬を見た。
「そうか」
ハルが老人の膝へ、もう一度鼻を押しつける。
「ハルは、おじいさんのこと好きみたい」
「犬は、誰にでもこうする」
「しないよ」
「お前に分かるのか」
「ずっと一緒にいるから分かる」
老人は何も言わなかった。
ただ、ハルの頭から手を離すまで、少し時間がかかった。




