第十一話 交代する夫婦 (四)
四 残っていた場所
翌朝、美紀が玄関へ行くと、航はすでにハルへリードをつけていた。
「お母さんも行くの?」
靴を履こうとしている美紀を見て、航が尋ねた。
「今日は一緒に行こうかな」
「活動は?」
「休み」
「具合悪い?」
「悪くないよ」
航は不思議そうな顔をした。
「悪くなくても休むの?」
「休むこともあるの」
美紀は靴を履き、立ち上がった。
ハルは二人を待たず、扉の前で身体を揺らしている。
「ハル、まだ」
航がリードを引いた。
扉が開くと、ハルはいつもの道へ迷わず進んだ。
美紀が航と一緒に散歩をしたのは、いつ以来だろう。
活動を始めた頃には、まだ何度か一緒に歩いていた。依頼が増え、午後にも予定が入るようになってからは、航が一人で出ることが多くなった。
公園までの道は変わっていない。
それでも、航は美紀の覚えのない場所で何度か立ち止まった。
低い壁の隙間をハルに嗅がせ、角を曲がる前には、向こうから人が来ていないか確かめる。途中で会った女性には、航のほうから手を上げた。
「おはよう、航くん」
「おはよう」
女性はハルの名前も知っていた。
美紀が頭を下げると、女性も軽く会釈を返し、そのまま通り過ぎていった。
「知っている人?」
「ときどき会う人」
「名前は?」
「知らない」
航は気にした様子もなく歩き続けた。
公園へ入ると、ハルの足が速くなった。
「走らないで」
航がリードを短く持つ。
ハルが向かう先には、義一がいた。
いつものベンチの近くに腰を下ろし、木の板を膝へ載せている。その横には、低い作業台が置かれていた。
「来たか」
義一は航を見て言った。
そのあとにいる美紀へ気づき、眉を上げた。
「坊主は毎日のように来るが、あんたは久しぶりだな」
「ご無沙汰しています」
「忙しいらしいな」
美紀は何と答えるか迷った。
「今日は休みました」
「そうか」
義一はそれ以上聞かなかった。
ハルが作業台の周りを嗅ぎ始める。
「そこはだめだぞ」
航がリードを引いた。
作業台の上には、細い木の棒と小さな車輪が並んでいた。ベンチの横には、四角い木枠が置かれている。
以前見たときよりも、手押し車らしい形になっていた。
「これ、進んだんだね」
美紀が言うと、航は木枠の横へしゃがんだ。
「ここ、ぼくがつけた」
指さした先には、細い板が二本、平行に留められていた。
留め具の周りには、何度か位置を直した跡がある。
「一回、曲がった」
「一回じゃない」
義一が言った。
「三回だ」
「最後はできたよ」
「最後だけな」
航は気にせず、作業台の下から別の板を取り出した。
美紀は木枠を見た。
「ずっと作っていたの?」
「途中でやめてた」
航が答えた。
「飽きたんだ」
義一が言う。
「飽きてないよ。ほかのことしてたの」
「始めたと思えばいなくなって、忘れた頃にまた来る」
義一は木の板の端を布で拭いた。
「もう作らないのかと思っていました」
美紀が言うと、義一は手を止めた。
「作らない日が続いただけだ」
板を作業台へ戻す。
「捨てる理由にはならん」
航が、並んでいた車輪の一つを持ち上げる。
「今日は、これつける」
「先に軸を測れ」
「前に測ったよ」
「忘れてるだろうが」
「覚えてる」
「じゃあ言ってみろ」
航は車輪を持ったまま黙った。
義一が鼻を鳴らす。
「測れ」
航は渋々、作業台の端から細い測定具を取った。
美紀は二人のやり取りを眺めた。
航がここで何をしているのか、詳しく聞いたことはなかった。
ハルの散歩へ行き、義一と会って、手押し車を作っている。それくらいは知っていた。
けれど、航がどこを失敗し、何日来なくなり、いつ戻ってきたのかは知らなかった。
義一が道具の場所を教えなくても、航は迷わず手を伸ばした。
作業台には、航の使う道具が前と同じ場所に残されていた。
「お母さんもやる?」
航が尋ねた。
「今日は見ていようかな」
「お母さん、こういうの得意だよ」
「布ならね」
「木も直せる?」
「木は、榊さんのほうが詳しいよ」
義一が顔を上げた。
「教えるとは言ってないぞ」
「でも、教えてるじゃん」
航が言うと、義一は答えず、測定具の向きを直した。
美紀はベンチへ腰を下ろそうとした。
その上には、古い布といくつかの部品が置かれていた。
義一が気づき、片手でまとめて作業台の下へ移す。
「そこへ座れ」
「ありがとうございます」
「物をどけただけだ」
美紀はベンチの端へ座った。
ハルがすぐに足元へ来て、前足を伸ばして伏せる。
航と義一は、車輪をつける位置を確かめていた。
「こっち」
「ずれるだろうが」
「じゃあ、こっち?」
「自分で見ろ」
航は木枠を持ち上げ、何度も角度を変えた。
義一は答えを言わずに待っている。
美紀はハルの背中を撫でた。
自分がいなくても、航は散歩へ出ていた。
公園までの道を覚え、途中で会う人が増え、義一との間には美紀の知らない時間が積み重なっていた。
寂しいと思った。
自分が一緒にいなくても、航の日常は続いていた。
同時に、安心もしていた。
自分がいなくても、この子の一日は途中で止まらない。
「ついた」
航が声を上げた。
片側の車輪が、木枠へ仮留めされていた。
「まだついただけだ」
義一が言う。
「回るよ」
航が車輪を指で動かす。
車輪は半分ほど回り、引っかかって止まった。
「あれ」
「だから測れと言った」
「もう一回やる」
航は留め具を外し始めた。
義一は文句を言いながら、作業台の上へ小さな箱を置いた。
中には、別の長さの部品がいくつも入っている。
美紀はその様子を見ていた。
完成には、まだ時間がかかりそうだった。
航がまた飽きて、しばらく来なくなることもあるのかもしれない。
それでも義一は、作業台を片づけないのだろう。
「今日は見てるだけか」
義一が美紀へ尋ねた。
「はい」
義一はそれだけ聞くと、航の手元へ目を戻した。
誰も美紀へ、手伝うように言わなかった。
次の予定を確かめる端末も、ここにはなかった。
美紀はベンチに座り、ハルの背中を撫でていた。
しばらくして、航がまた車輪を回した。
今度は、さっきより長く回った。
「見て」
「見てるよ」
美紀が答えると、航は満足そうに笑った。
自分がいなくても続いていた場所に、自分の座るところも残っていた。




