第十一話 交代する夫婦 (三)
三 変わらないもの
その日の夜、直人は居間のテーブルで端末を見ていた。
活動先から送られてきた資料らしい。画面には細かな図と文字が並び、直人はときどき指で拡大しながら読んでいる。
航は床に座り、ハルの前へ小さな布を広げていた。
「これ、ハルの毛布にする」
「そのままだと小さくない?」
美紀が言うと、航は布をハルの背中へ掛けた。
半分ほどしか隠れなかった。
「二枚つなげる」
「自分で?」
「お母さんがやる」
「それは、自分でとは言わないんじゃないかな」
直人が画面から目を離さずに言った。
航は考えたあと、布を畳んだ。
「じゃあ、あとで教えて」
「今日はやらないよ」
「明日?」
「明日も分からない」
航は布を抱え、ハルと一緒に自分の部屋へ戻っていった。
足音が遠ざかると、居間が静かになった。
美紀は作業用の袋から、余った糸と布を取り出した。種類ごとに分け、引き出しへ戻していく。
「今日、変わった依頼があったの」
直人が画面から顔を上げた。
「どんな?」
美紀は、夫婦が数年ごとに家と外の役割を交代し、同じ鞄を使っていることを話した。
「ずっと、そうしてきたんだって」
「珍しいね」
「そうなの?」
「家のことを分ける人はいるだろうけど、何年かごとに役割を入れ替えるのは、あまり聞かないかな」
直人は端末を伏せた。
「一人しか分からないことを、家に残したくないんだって」
「それは分かる」
直人はすぐに答えた。
「どちらかがいないと回らない状態は、危ないからね」
美紀は手にしていた糸を箱へ入れた。
「交代したら、相手が自分のやっていたことを、自分なしでできるようになるでしょう」
「うん」
「それが、少し怖いって」
直人は眉を寄せた。
「怖い?」
「役割を渡すのは簡単だけど、相手の中で自分の役割が終わるのは怖いって言ってた」
美紀は箱の蓋を閉じた。
直人は黙っていた。
「でも、夫婦であることまで終わるわけじゃないでしょう」
「そうだね」
直人は美紀を見た。
「僕は、君が何をしていても変わらないよ」
美紀は笑った。
「うん」
直人の言葉は、嬉しかった。
以前、美紀が何もできない日にも、直人は変わらずそばにいた。
予定を変え、代わりに連絡をし、必要な手続きを引き受けてくれた。それを重荷に感じている様子を、美紀へ見せたこともなかった。
「私も、活動を少し減らそうかと思ってるの」
直人の表情が変わった。
「活動を?」
「全部じゃないよ」
美紀は空になった作業用の袋を畳んだ。
「講習の手伝いと、記録の整理を一つずつ減らそうかなって」
「何かあった?」
「何かあったわけじゃないの。予定を空けたくなっただけ」
直人は端末を横へ置いた。
「無理をする必要はないよ」
「うん」
「ただ、せっかくここまで頼ってもらえるようになったんだから、今すぐ減らさなくてもいいんじゃないかな」
美紀は、畳んだ袋の端を揃えた。
「全部やめるわけじゃないよ」
「分かってる」
直人は声を落とした。
「でも、君も嬉しそうだったから」
人に喜んでもらえることは嬉しかった。
活動記録に名前が載ったときも、やり方を教えてほしいと言われたときも、自分に渡せるものがあるのだと思えた。
その気持ちは嘘ではない。
「今も嬉しいよ」
美紀は言った。
「嬉しいけど、減らしたいの」
直人は目を伏せた。
「疲れたなら、まず休んでから考えてもいいんじゃないかな」
「そうだね」
美紀は考えた。
「じゃあ、一つだけ休んでみる」
「いつ?」
「明日」
直人が美紀を見る。
美紀は端末を開いた。
翌日の予定には、補修方法の記録作業が入っていた。
欠席の連絡欄へ触れると、《欠席理由・連絡事項(任意)》と表示された。
美紀は、
《体調を考慮し――》
と打った。
そこまで入力して、文字を消した。
《本日は参加しません》
短く書き、送信する。
端末は、代わりに参加できる人へ確認を送った。ほどなく、一人から引き受けるという返事が届いた。
作業予定から美紀の名前が消え、了承した人の名前が加わった。
直人はその画面を見ていた。
「それだけでいいんだ」
「うん」
直人は、理由の空欄をしばらく見ていた。
「そうか」
美紀も、それ以上は言わなかった。
航の部屋から、ハルの足音が聞こえてきた。
扉が開き、ハルだけが居間へ戻ってくる。
ハルは二人の間を通り、美紀の足元へ伏せた。
美紀は背中を撫でた。
「明日は、航の散歩についていこうかな」
「休むんじゃなかったの?」
「活動を休むだけだよ」
直人は何かを言おうとした。
けれど、今度は何も言わなかった。
「そうだね」
伏せていた端末を手に取る。
画面を開いたものの、直人はすぐには資料へ目を戻さなかった。
美紀はハルの背中を撫で続けた。
自分の名前が消えた予定表は、そのまま埋まっていた。
明日の作業は、美紀がいなくても行われる。
それを寂しいと思う気持ちと、ほっとする気持ちが、どちらも残っていた。




