第十一話 交代する夫婦 (二)
二 役割が終わること
翌日の午後、女性は一人で活動室へ来た。
美紀は、仕上げた鞄を作業台へ置いた。
持ち手を短くし、使わなくなった仕切りは底へ寝かせてある。
「一度、掛けてみてください」
鞄を肩へ掛け、鏡の前に立つ。
昨日より位置が高くなり、身体の横へ収まっていた。
持ち手を握り、何度か肩を動かす。
「ちょうどいいです」
「重いものを入れると、少し下がるかもしれません」
「それくらいなら大丈夫だと思います」
蓋を開き、底へ留められた仕切りを確かめる。
「きれいに残してくださったんですね」
「また必要になるかもしれないので」
美紀は答えた。
「次にご主人が使うときも、この形なら戻せます」
女性は仕切りへ触れた。
「あの人が、また使うとは限らないんですけどね」
「次も交代されるのではないんですか」
「役割は交代します。でも、そのときに同じ活動へ戻るかは分かりません」
鞄を肩から下ろした。
「あの人が外の側へ回ったのは、五年くらい前です。今の活動は続いていますけど、やり方も人も変わっています」
「次に外へ出るとき、同じ活動へ戻りたいとは言っていないんですか」
「まだ、何も決めていません」
底へ留められた仕切りを指で起こす。
縫い目に引かれ、途中で止まった。
「でも、残しておきたかったみたいですね」
昨日、仕切りに触れていた男性の手を、美紀も覚えていた。
「長く使っていたものですから」
「そうですね」
仕切りを元へ戻す。
「私も、同じことをしました」
「同じこと?」
「自分が家にいる側だった頃のやり方を、なかなか手放せなかったんです」
女性は椅子へ腰を下ろした。
活動室には、ほかに誰もいなかった。隣の作業台では、道具の点検が行われている。金属の部品が音を立て、順番に箱へ収まっていった。
美紀も、作業台の向こうへ座った。
「最初に交代したときは、何日分もの予定を整理して渡しました」
近所の人が訪ねてくる曜日。
親族と食事をする日。
二人で育てていた植物の手入れ。
夫が困らないように、細かなことまで端末へ残したという。
「でも、ほとんど必要ありませんでした」
「ご主人が覚えていたんですか」
「覚えていないものもありました。でも、分からなければ聞けば済みますから」
夫は、自分なりに近所の人と付き合い始めた。
女性が話したことのない人とも話し、以前とは違う日に食事をし、植物も別の方法で育てた。
「最初は、間違っているように見えました」
女性は笑った。
「私がやっていたときとは違う、と何度も言いました」
美紀は、昨日の二人の会話を思い出した。
前と今では、違うの。
女性は鏡の中で夫へそう言っていた。
「ご主人は、どうされたんですか」
「聞いてくれました。最初のうちは」
「最初のうちは?」
「そのうち、聞かなくなりました」
声に、責める響きはなかった。
「聞かなくても、できるようになったんです」
近所の人も、夫へ直接連絡するようになった。親族との予定も、夫が決めることが増えた。
女性が外から戻ったときには、自分の知らない話がいくつも続いていた。
「楽になりました」
女性は言った。
「外の活動へ集中できましたから」
美紀はうなずいた。
「でも、寂しかったんですか」
女性は驚いたように、美紀を見た。
それから笑った。
「そうだったと思います」
鞄を持ち上げ、膝の上へ置いた。
「私がいないと困ってほしかったわけではありません」
「はい」
「困らないでほしいから、交代したんです。どちらか一人しか分からないことを、家に残したくなかったので」
持ち手の新しい縫い目を指でなぞる。
「役割を渡すのは、思っていたより簡単でした」
美紀は、その言葉の続きを待った。
「でも、相手の中で自分の役割が終わるのは、少し怖いんです」
道具を収めた箱が閉じた。
活動室はまた静かになった。
「終わってしまうんでしょうか」
美紀が尋ねた。
「分かりません。戻っても、前と同じではないでしょうね」
「それでも、交代するんですね」
「はい。交代しなければ、相手がいないと続かないものが増えていきますから」
美紀は、自分の家のことを考えた。
移住する前も、生活AIが家のことを支えてくれていた。
けれど、利用できる支援の範囲を変えるときや、急に予定を変更するときには、そのたびに申請や確認が必要だった。
美紀一人では手続きを進められず、直人に連絡することも多かった。
この国では、自分の体調に合わせ、自分で予定を変えられる。直人へ理由を説明し、代わりに連絡してもらわなくてもよい。
それを直人が喜んでいることも、美紀は知っていた。
「交代して、よかったと思いますか」
美紀が尋ねた。
「思います」
女性は迷わず答えた。
そのあとで考える。
「でも、よかったことと、怖くないことは、同じではないんでしょうね」
立ち上がり、鞄を肩へ掛けた。
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
美紀も立ち上がった。
女性は出口へ向かいかけて、足を止めた。
「次に夫が使うことになったら、また長くできますか」
「できます」
「では、このままにしておいてください」
底へ留められた仕切りを、鞄の外から軽く押さえた。
「使わないままかもしれませんけど」
「はい」
「短くした分の布は、どうしますか。次に長くするときのために、こちらで保管することもできます」
女性は少し考えた。
「では、鞄の記録と一緒に残しておいてください」
女性が活動室を出たあと、美紀は作業台に残った糸を片づけた。
短くするために切り取った持ち手の布が、端に置かれていた。
捨ててもよい部分だった。
美紀はそれを手に取り、しばらく見てから、依頼ごとの布を保管する箱へ入れた。




