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途中  作者: 古江 門
第一部

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第十話 何もしない人 (四)

四 終わらないもの


 佐伯と水野が椅子を戻しているあいだ、平井は本を読んでいた。


 航はベンチへ座り直した。


 ハルは横になったまま、目だけを動かした。


「帰らないの?」


 水野が聞いた。


「お母さんが来るって」


 航は端末を見せた。


《今日は少し早く切り上げたので、そちらへ行きます》


「じゃあ、先に戻るね」


 水野は言った。


 佐伯は平井へ向き直った。


「今日は、ありがとうございました」


 平井が本から顔を上げる。


「次がないといいですね」


「はい」


 佐伯は少し間を置いてから、頭を下げた。


 水野も続いた。


 二人が庭園を出ると、さっきまでの静けさが戻った。


 平井は本を読み、航は枝の隙間から空を見た。


 白い雲が、ゆっくり動いている。


「ねえ」


「はい」


 平井は本から目を上げなかった。


「何もしないって、何するの?」


 平井の視線が文字の途中で止まった。


「何をするか、決めないことですかね」


「本は読むのに?」


「読みます」


「散歩もする?」


「します」


「それ、何かしてるよ」


「そうですね」


 航は平井を見た。


「じゃあ、何もしない人じゃないじゃん」


「活動をしていない、という意味でしょうね」


「本を読むの、活動にしたらいいのに」


「どうして?」


「もう聞かれないから」


 平井は少し考えた。


「聞かれないために本を読むのは、嫌ですね」


 航には、よく分からなかった。


 本は、どちらでも同じように読める気がした。


 ハルが大きく欠伸をした。


 航も空へ目を戻す。


 さっきの雲は、少し形が変わっていた。


「何もしないのって、いつ終わるの?」


 平井も空を見上げた。


「終わらないかもしれないね」


「ずっと?」


「ずっとかもしれません」


「飽きたら?」


「別のことをします」


「それも活動にしないの?」


「しないと思います」


 航はそれ以上聞かなかった。


 庭園の入口から、足音が近づいてきた。


 ハルが身体を起こす。


「航」


 美紀が生け垣の向こうから現れた。


 歩く速さは、いつもより少し遅かった。手には、布と糸の入った袋を提げている。


「お母さん」


 航が立ち上がると、ハルも走りだそうとした。


「待って」


 航はリードを短く持った。


 美紀はハルの前へしゃがみ、頭を撫でた。


「待たせたね」


「活動、終わったの?」


「途中で帰ってきたの」


「具合悪い?」


「少し疲れただけ。決めていたところで終わらせて、続きは別の日にしたの」


 美紀は立ち上がり、平井へ頭を下げた。


「息子がお邪魔していたみたいで、すみません」


「邪魔ではありません」


 平井は本を閉じた。


「いつも、ここで会いますから」


 美紀が航を見る。


「何回か」


 航が答えた。


「ハルが来るから」


「航くんが来ることもあります」


 平井が言った。


 航は何も答えなかった。


 美紀は少し息を整えてから、航の隣へ腰を下ろした。


 平井が、美紀の袋へ目を向ける。


「繕い物をしている方ですね」


 美紀が顔を上げた。


「私を知っているんですか」


「近所の活動記録で見ました。森川さん」


「見てくださったんですね」


 美紀の表情が、わずかに明るくなった。


「趣味で始めただけなんです」


「今は違うんですか」


「活動として登録しています。依頼を受けたり、やり方を残したりしていて」


 美紀は膝の上の袋を整えた。


「今日は、どこを手伝ってもらうか、一緒に確かめていました」


「何かしている人なんですね」


 平井が言った。


 美紀の口元が、少し緩んだ。


「まだ、それほどではありません」


 否定する声は、嬉しそうに聞こえた。


 平井は、閉じた本へ目を落とした。


「趣味だった頃と、今とでは、どちらが好きですか」


 美紀の笑みが止まった。


「どちら……」


「最初は趣味だったと言っていましたから」


 美紀はすぐには答えなかった。


「今は、いろいろな人に喜んでもらえます」


「それは、今のほうが好きということですか」


 美紀は袋から出ていた糸を中へ押し戻した。


「役に立てるのは、嬉しいです」


「好きかどうかではなく?」


 美紀の手が止まる。


 庭園の外から、鳥の声がした。


「前は、そんなことを考えていませんでした」


 やがて、美紀は答えた。


 平井はそれ以上聞かなかった。


 航は母の顔を見た。


 困っているように見えた。


「お母さん、繕い物好きだよ」


「航」


「だって、ずっとやってる」


 美紀は少し笑った。


「そろそろ帰ろうか」


 航はハルを立たせ、リードを持ち直した。


 美紀もベンチから立ち上がる。


「今日は、ありがとうございました」


 平井へ頭を下げた。


「私は、何もしていませんよ」


「航と一緒にいてくださったので」


「隣にいただけです」


 美紀は何か言おうとして、やめた。


 庭園を出てしばらく歩いたあと、航が尋ねた。


「お母さんは、前と今、どっちが好き?」


 美紀の足が少し遅くなった。


「急に聞かれても分からないよ」


「好きなのに?」


 美紀は肩に掛けた袋へ触れた。


「好きなことが大きくなると、前と同じではなくなることがあるの」


「嫌になる?」


「嫌ではないよ」


「じゃあ、好き?」


 美紀は少し笑った。


「だから、まだ分からないの」


 航には、好きか嫌いかなら、どちらかのように思えた。


 けれど、美紀はもう答えなかった。


 ハルが道の端で足を止める。


 二人も立ち止まった。


 ハルはしばらく地面の匂いを嗅ぎ、何も見つけなかったように歩きだした。


 二人も、そのあとをついていった。


 その日の夕方、佐伯は記録・参加支援室へ戻った。


 平井との面談記録を開く。


 停止希望が残っているにもかかわらず、今回の確認が作成された経路を開き、佐伯は眉を寄せた。


《生活上の支援 希望なし》


《健康上の支援 希望なし》


《活動紹介 希望なし》


《定期確認 停止を申請》


 必要な欄は埋まっていた。


 その下に、今後の支援方針を記す欄がある。


《支援方針》


 空白のままだった。


 佐伯は入力欄へ触れた。


《本人の現在の生活を尊重し――》


 佐伯はその文を読み返し、消した。


 次に入力する。


《地域内に緩やかな人間関係がある》


 航とハルの姿を思い出した。


 平井は航を支えているつもりではなかった。


 ただ、同じ場所に来て、隣に座っていた。


 佐伯は、その文字も消した。


 端末が確認を求める。


《支援方針が入力されていません》


 佐伯は、空白の欄をしばらく見ていた。


 それから何も入力せず、記録を閉じた。


 欄は空白のまま残った。

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