第十話 何もしない人 (一)
一 本の人
読書庭園は、公園の奥にあった。
低い生け垣に囲まれた中へ細い道が伸び、その脇にベンチと背の低い木が並んでいる。図書館から借りた本を、そのまま庭園で読めるようになっていた。
航は入口へ入ると、ハルのリードを短く持ち直した。
「走らないでね」
ハルは道の端を嗅ぎながら、迷わず奥へ進んだ。
庭園の一番奥、木陰のベンチに、今日も同じ人が座っている。
膝の上に本を開き、片手でページを押さえていた。横には細い飲み物の容器と、布の袋が置かれている。
航は、その人の名前を知らなかった。
何をしている人なのかも知らない。
いつ来ても本を読んでいるので、心の中では、本の人と呼んでいた。
ハルはその人の足元まで行き、靴の周りを嗅いだ。
本の人が顔を上げる。
「こんにちは」
「こんにちは」
ハルがベンチへ前足をかけようとした。
「だめ」
航がリードを引くと、ハルは地面へ戻った。
本の人は、隣に置いていた布の袋を反対側へ動かした。一人分の場所が空く。
「座る?」
「うん」
航はベンチの端へ座った。
ハルは二人の足元を行き来したあと、航の靴へ身体を寄せた。
本の人は、またページへ目を戻した。
航も庭園を眺めた。
木の枝が風に揺れている。少し離れたところで、返却箱の蓋が閉まる音がした。
しばらく、二人とも何も話さなかった。
航は、隣の本をのぞいた。
細かな文字が並んでいる。絵はなかった。
「それ、何の本?」
「遠いところへ行った人の話です」
「どこ?」
「ずっと北です」
「寒い?」
「とても」
「雪ある?」
「あります」
航は本の厚さを見た。
「その人、帰ってくる?」
本の人は、ページの間へ指を挟んだ。
「まだ、そこまで読んでいません」
「分からないの?」
「分かりません」
「もう、けっこう読んだのに?」
開かれているところは、本の半分より少し後ろだった。
「そうですね」
「ぼくだったら、先に見る」
「最後を?」
「うん」
「見てもいいと思います」
止められると思っていたので、航は少し困った。
「でも、見ないの?」
「今のところは」
「どうして?」
本の人は、挟んでいた指を少し動かした。
「まだ、途中を読んでいたいからです」
航には、よく分からなかった。
最後まで読めば、帰ってきたかどうかが分かる。途中で止めておく理由はないように思えた。
ハルが立ち上がり、植え込みへ鼻を近づけた。
「ハル、そっちはだめ」
航もベンチから降りた。
リードを軽く引くと、ハルは反対側の道へ歩き始める。
「じゃあね」
「はい。また」
航はハルのあとを追った。
庭園の入口から、二人の人物が入ってきた。
佐伯佳乃と水野遼だった。
佐伯は航を見つけると、少し驚いた顔をした。
「航くん」
「こんにちは」
「今日は一人ですか」
「ハルと一緒」
航が答えると、佐伯はハルへ目を向けた。
「そうですね。二人ですね」
水野も航へ軽く手を上げた。
二人は航の横を通り過ぎ、庭園の奥へ進んだ。
その先にいるのは、本の人だった。
佐伯はベンチの前で立ち止まった。
「お時間をいただき、ありがとうございます」
本の人は、ページへ挟んでいた指を抜き、本を閉じた。
「こちらこそ。わざわざ来てもらって、すみません」
航は足を止めた。
佐伯たちが、この人を知っているとは思っていなかった。
ハルも立ち止まり、三人のほうを見ている。
「行くよ」
航がリードを引いた。
けれど、ハルは動かなかった。
本の人が、ベンチの空いている場所を手で示した。
「いつものところにいて構いませんよ」
佐伯が航を見た。
「今日は、少しお話があるんです」
「ぼく、じゃま?」
佐伯が答えるより先に、本の人が言った。
「この子はいて構いません」
ハルが聞こえたように、ベンチへ戻っていく。
「普段から、ここに来ますから」
佐伯は、航とハルを順に見た。
それから、閉じられた本の置かれたベンチへ目を向ける。
「そうですか」
佐伯はそう答えたが、航には、何に納得したのか分からなかった。




