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途中  作者: 古江 門
第一部

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第九話 名前のない壁画 (三)

三 残すもの、残さないもの


 翌日の昼前、義一の端末へ連絡が届いた。


《壁画の制作記録について、確認したいことがあります》


 送信元は、記録・参加支援室だった。


 修正された作業者の姿勢や操作方法に、義一から聞いた内容が使われている。そのことを資料提供として記録してよいかと書かれていた。


 義一は了承の欄を押さなかった。


《作者本人と話す》


 そう返した。


 支援室は、保存手続きに必要な範囲で預かっていた連絡先だけを使った。壁画の公開記録から、作者の現在へたどったわけではなかった。


 午後、壁画の前へ行くと、佐伯佳乃と、先日話した人物が待っていた。


 今日は袖に塗料はついていない。


「榊さん、お時間をいただいてすみません」


 佐伯が頭を下げた。


 義一は隣の人物を見た。


「やはり、おまえが描いたのか」


「はい」


「なら、あのとき言えばよかっただろう」


「聞かれませんでしたから」


 前と同じ、落ち着いた声だった。


 義一は、体調に問題がないことと、今日は軽い確認だけにすることを確かめてから、壁画を見上げた。


 中央の作業者は、右足を引き、機械の正面を避けて立っている。添えられた手も、義一が話したとおりだった。


「直したところは見た」


「ほかにも違うところがあれば、聞かせてください」


「今日は、その話で呼んだんじゃないだろう」


 佐伯が端末を開いた。


「この壁画を、壁面の更新後も残してほしいという希望が出ています」


 表示には、塗料の種類、下地の処理、補修の手順が並んでいた。


「以前の確認とは別に、保存という新しい利用と、より長い期間の保管について、もう一度選んでいただく必要があります」


「保存に必要な情報は、すでに提出していただいています。ただ、修正した部分には、榊さんから伺った内容が含まれています」


 義一は作者を見た。


「自分の名前は残さないのに、人の名前は残すのか」


「榊さんから聞いたことを、私が考えたことにはしたくありません」


「絵を描いたのは、おまえだろう」


「絵は残します」


「誰が描いたかは残さん」


「はい」


 義一には、その分け方が分からなかった。


「描いたことを隠したいのか」


「隠したいわけではありません」


 作者は壁画へ目を向けた。


「この絵を描いた人として、その先まで続けたくないんです」


「その先?」


「名前が残れば、描いた人として次のことを求められます」


「断ればいい」


「断り続けなければ、終われません」


 作者は静かに続けた。


「前に、小さな案内図を描いたことがあります。そのあと、会う人ごとに次の絵の話をされました」


「嫌だったのか」


「描いたことまで嫌になりそうでした」


 佐伯が作者欄を開いた。


「公開される表示から名前を外し、記録室の中だけに残すこともできます」


「必要ありません」


「あとから、制作時の判断を確認できなくなるかもしれません」


「判断は残します。私が答え続けなくてもいい形で」


 佐伯は入力欄へ触れかけた指を止めた。


「材料や手順だけでは、誰が何を考えて描いたかまでは残りません」


 作者が佐伯を見る。


「それを知るために、私の名前が必要ですか」


 佐伯はすぐには答えなかった。


 義一が尋ねる。


「絵を直すための記録は足りているんだろう」


「はい」


「なら、なぜまだ名前を聞く」


 佐伯は、空白の作者欄を見た。


「名前がなければ、そこにいた人まで、最初からいなかったように扱われることがあります」


「絵があるだろう」


「絵を描いた人がいたことと、その人が誰だったかは別です」


 義一は眉を寄せた。


「生きていたことまで、この壁へ残す必要はない」


「壁だけの話ではありません」


 佐伯の声が、わずかに強くなった。


 作者が静かに尋ねた。


「残りたくないと言っている人まで、残す側が説得するんですか」


 佐伯の指が止まった。


 空白の欄をしばらく見たあと、端末を閉じる。


「すみません。必要な確認から外れていました」


 作者は何も言わなかった。


 佐伯は壁画へ目を向けた。


 作業者の手、搬入口の車、明るすぎる床を順に見る。


 やがて、もう一度端末を開いた。


「名前を残したくないのは、描いたことを消したいからではなく、その記録が今後のあなたへついて回るからですね」


「はい」


 佐伯は、入力しかけていた作者欄を消した。


 空白になった枠の下へ、新しい項目を作る。


「では、何を資料にし、どこを想像で補い、何を描かなかったかは、作品の記録として残す。あなたの名前や現在の活動履歴とは接続しない」


 佐伯は作者を見る。


「それなら、どうでしょう」


「ほかの記録から、私の名前へ戻されませんか」


「あなたの同意なしに接続できない形にします」


 作者はしばらく壁画を見ていた。


「それなら、残します」


 佐伯がうなずく。


「お名前は接続しないままで?」


「はい」


 義一には、まだ納得できなかった。


 誰が描いたか分からなければ、間違いがあったとき、誰へ聞けばよいのか分からない。


 それが、義一には落ち着かなかった。


 ただ、作者が消したいのは、描いた事実ではなかった。


 描いた者として、これからも扱われ続けることだった。


 佐伯が義一へ向き直る。


「伺った技術的な内容を作品記録へ反映することと、榊さんのお名前を資料提供者として接続することは別です。お名前も残してよろしいでしょうか」


「残せ」


 義一はすぐに答えた。


 作者が義一を見る。


「答えられなくなったあとも、名前は残ります」


「だから残すんだろう」


 佐伯が端末を操作した。


 制作記録へ、新しい項目が加わる。


《作業工程に関する記憶提供 榊義一》


 作者の欄は空白のままだった。


 その下には、別の記録が作られている。


《制作時の判断記録》


《参照した資料、修正箇所、描写しなかった範囲を保存》


《制作担当者との接続なし》


 作者が義一へ尋ねた。


「ほかにも違うところがあると言っていましたね」


 義一は搬入口に並ぶ車を指した。


「この位置には止めん。入口をふさぐ」


「資料写真では、ここにありました」


「荷下ろし中ならな。待っている車は裏へ回す」


 作者は壁画と資料を見比べた。


「裏側は、写真に残っていませんでした」


「わざわざ撮らんからな」


「待っている人も、止まった設備を直している人も、資料にはほとんどいませんでした」


 壁画の中では、人も機械も働き続けている。


「残っていた場面だけをつないだら、こうなりました」


 義一は、もう一度壁画を見た。


 作者が昔をきれいにしたのだと思っていた。


 だが、残された写真のほうが、最初からきれいな時間だけを選んでいたらしい。


 覚えているのは、機械が動いていた時間だけではない。


 部品が届かず、手を止めて待ったこと。


 原因が分からないまま、停止した設備の前に立っていたこと。


 交代の者が来ず、遅れて休憩へ入ったこと。


 誰かが持ってきた冷たい飲み物を、機械の陰で飲んだこと。


 写真に残すほどの出来事ではなかった。


 だが、そういう時間を抜けば、働いていた一日は別のものになる。


「全部描けばいいというものでもない」


 義一が言った。


「はい」


 作者はうなずいた。


「だから、何を描かなかったかも残します」


 義一は、作者名の空白を見た。


 自分なら、名前を残す。


 作者は残さない。


 やはり同じ考えにはなれなかった。


 それでも、その空白が何を拒んでいるのかは、前より少し分かるようになっていた。


 数日後、壁画はもう一度修正されていた。


 搬入口から離れた場所に、待機中の車が一台加わっている。


 そのそばでは、作業服の人物が壁へ背を預け、水を飲んでいた。


 設備の前には、腰を落とし、床の下から聞こえる音を確かめる者も描かれている。


 明るすぎた床には、台車の通った跡が増えていた。建物の出口には、仕事を終えて外へ出る者が一人描き足されている。


 どれも壁画の中心ではない。


 近くまで寄らなければ、気づかないほど小さかった。


 義一が見ているあいだ、一人の女性が壁画の前で立ち止まった。


 中央の大きな設備ではなく、壁際で水を飲んでいる人物を長く見ている。


 女性は制作記録を開かなかった。


 しばらく絵を見たあと、そのまま通り過ぎていった。


 何を見ていたのか、義一には分からなかった。


 義一は制作記録を開いた。


 作者の欄は変わっていない。


《制作担当 接続情報なし》


 その下には、新しい記録が加わっていた。


《公開資料には、設備の停止中、待機中、休憩中の風景が少ない》


《稼働中の場面だけでは、当時の作業全体を表せないと判断した》


 さらに下には、義一の名前が残っている。


《作業工程に関する記憶提供 榊義一》


 義一は、自分の名前をしばらく見た。


 名前があるからといって、そこに書かれていないことまで伝わるわけではない。


 どの工場で、誰と働き、何を嫌い、何を面白いと思ったのか。文字だけを見ても、誰にも分からない。


 それでも、自分が話したことを、誰かが考えたことにはされたくなかった。


 義一は表示を閉じた。


 描かれている工場は、義一が働いていた場所ではない。


 作業者の顔も、自分とは似ていない。


 それでも、機械へ添えられた手や、止まった時間を過ごす人間の姿は、前よりも知っている風景に近かった。


 義一は壁画の中央を見上げた。


 名のない者が描いた作業者は、機械の正面を避け、いつでも身体を引ける位置に立っている。


 あれなら動かせる。


 少なくとも、そこはもう間違っていなかった。

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