第九話 名前のない壁画 (一)
一 違う手
公園へ着いたとき、航が来るはずの時刻まで、まだ少しあった。
義一は入口の見えるベンチを選び、足元へ袋を置いた。
犬用の手押し車に使う部品を見に行くだけなら、航を待つ必要はない。一人で共同作業所へ行き、合う物を選べば済む。
それでも、今日はこの時間に来ると聞いていた。
義一は端末で時刻を確かめた。
公園へ着いてから、まだ三分しか経っていなかった。
遊具のほうから子どもの声がするたび、入口へ目を向けた。小さな犬が通路を横切ったときには、腰を浮かせかけて、違う犬だと気づいた。
義一は袋の口を開いた。
短い金属棒と、以前の留め具が入っている。家を出る前にも確かめた物だった。
手押し車の枠は、ほとんどできている。あとは車輪の横へ留め具を取り付け、重さをかけても軸がずれないか試せばよかった。
ハルを実際に乗せるのは、それからだ。
航は、できたらすぐに乗せようと言うだろう。
義一は袋を閉じ、もう一度時刻を見た。
約束の時刻を過ぎたわけではない。遅いと思う理由はなかった。
背もたれへ身体を預けたところで、公園の入口にハルが現れた。
小さな身体が一度立ち止まり、辺りを見回す。
義一を見つけると、耳を揺らして走りだした。
その後ろを航が追ってくる。
「走らないで」
ハルはさらに足を速めた。航もリードに引かれるようについてくる。
義一は、さっきまで見ていた端末を閉じた。
「走るなと言っているのは、おまえのほうじゃないのか」
「ぼくは引っぱられたの」
ハルは義一の足元まで来ると、前足を靴へかけた。
「汚れる」
そう言いながら、義一は背中へ手を伸ばした。
航は息を整え、ベンチの横に置かれた袋を見た。
「今日は直す?」
「部品を見るだけだ」
義一は、いつもどおりに答えた。
公園の反対側へ進むと、住宅の間に大きな建物が増えていった。以前は工場や倉庫が並んでいた一帯だった。
今では共同作業所や保管施設として使われているが、広い搬入口や低い建屋には、昔の形が残っている。窓の少ない壁や、荷物を受け渡すための高い床も、そのままだった。
義一が働いていた工場とは別の地域だ。
それでも、門の脇に店があり、その後ろに集合住宅がある配置には覚えがあった。工場が町から切り離されず、音も人も外へ漏れていたころの並び方だった。
今は、建物の中からほとんど音がしない。
通路の先で、何人かが壁を見上げていた。
倉庫の側面に、大きな絵が描かれている。
工場と、その周囲の町を描いた壁画だった。
搬入口に止まる配送車。作業服を着た人々。建物の中では、産業用ロボットが部品を運び、その横で人間が操作盤を見ている。工場の外には、飲食店や集合住宅も描かれていた。
航が足を止めた。
「昔の町?」
壁画の横に、短い説明が表示されている。
《この地域に工場と商業施設が共存していた時代の風景を、保存映像と住民記録をもとに再現したものです》
義一が若かったころにも、自動で動く設備はあった。搬送も検査も、すでに多くが機械に任されていた。
絵の中の町は、義一にとって遠い時代のものではない。
「今と似てる」
航が言った。
「建物はな」
描かれた人々は、誰もが落ち着いた顔で働いていた。
床にも作業服にも汚れはなく、搬入口の車は同じ間隔で並んでいる。機械も人も、決められた速さで動き続けているように見えた。
壁画の中央には、大きな設備を手動で操作する作業者が描かれていた。
義一は足を止めた。
「違う」
「なにが?」
作業者は右手で取っ手を握り、左手に端末を持っている。
その位置では、身体が設備の正面へ入りすぎていた。何かあったとき、逃げる方向がない。
「手が逆だ」
航が壁画へ近づいた。
「右と左?」
「立つ場所も違う」
義一は袋を地面へ置き、右足を半歩引いた。身体を設備の正面から外し、左手を伸ばす。
「先に、こっちへ手を置く」
「機械に?」
「ああ」
「どうして?」
「動きが手に来る」
航は義一のまねをして、壁へ手をつけた。
「何も来ないよ」
「壁だからな」
少し離れたところにいた人物が、こちらへ近づいてきた。
上着の袖に、青い塗料がついている。
「その設備を使ったことがあるんですか」
「同じ物ではない」
「似た設備を?」
義一は壁画の作業者を指した。
「少なくとも、こんな立ち方はしない」
その人物は、絵と義一の足元を見比べた。
「手を置くのは、この辺りですか」
義一が示した場所は、壁画の作業者の肩より少し下だった。
「もっと低い。肩を上げたままでは続かん」
「表示を見る前に、手で分かったんですか」
「表示に全部出るとは限らん」
「何が違うんでしょう」
「音も、振動も、いつも同じではない」
「異常が出る前に?」
「出てからでは遅いこともある」
義一は左手を壁へ添えたまま、右手を少し浮かせた。
次に触れる場所を探すような、昔の癖だった。長くしていなかったはずなのに、考えるより先に身体が動いた。
材料の送りが悪くなれば、音が短くなる。軸がずれれば、手や床へ伝わる振動が変わった。
「異常なら、止めればいいんじゃないの?」
航が言った。
「止めれば済むとは限らん」
途中で流れを切れば、内部に残った材料が固まることもある。前後の設備へ負担がかかる場合もあった。
「止める前にも、見ることがある」
人物は端末よりも、義一の手と足の位置を見ていた。
やがて壁画へ目を戻す。
「ありがとうございました」
「礼を言われることはしていない」
「間違っているところが分かりました」
「直すのか」
人物は少しだけ間を置いた。
「直せるところは」
そのまま壁画に沿って歩いていった。
航が背中を見送る。
「絵を直す人?」
「さあな」
義一は袋を持ち上げた。
共同作業所へ向かいながら、もう一度だけ壁画を振り返る。
工場は明るく、整っていた。
似た建物も、似た設備もあった。
だが、義一の知っている工場は、あんなふうにすべてが同じ速さで動いてはいなかった。
「昔は、こんな町だったの?」
航が尋ねた。
「似てはいる」
「違うの?」
「こんなにきれいではなかった」
「大変だった?」
「楽ではなかった」
「嫌だった?」
義一は少し考えた。
熱気のこもる午後もあった。原因の分からない停止が続き、誰かと言い争った日もあった。帰っても機械の音が耳から消えないこともあった。
「嫌な日もあった」
それだけ答え、先へ歩いた。
嫌だったことと、無意味だったことは違う。
その言葉は、口には出さなかった。




