第八話 通過主義者 (二)
二 できる人に任せる
美紀が玄関を開けると、水野は小さく頭を下げた。
「急にすみません」
「どうぞ」
水野は居間へ入り、食卓の端に広げられた布を見た。
「明日直すものですか?」
「はい。ほつれた場所を、依頼した方と確認しながら直す予定です」
美紀は布を少し寄せ、水野の前に席を空けた。
航は向かいに座ったまま、途中の宿題の上へ鉛筆を置いている。
水野は端末を開き、変更された予定を表示した。
「まず、確認する前に予定を変えたことは、こちらの手違いです。すみませんでした」
「依頼した方も、驚いていました」
「はい。先に提案を送り、了承をいただいてから変更するべきでした」
予定には、美紀の名前と、見覚えのない名前が並んでいる。
「この方は、どういう人なんですか?」
「少し前に、布を扱う活動へ参加したいと登録された方です。ただ、これまで一度も選ばれていません」
水野は、美紀の名前が並んだ活動記録を開いた。
衣服の補修、袋の縫い直し、日よけの調整。最近の記録には、依頼者から指名されたことを示す印がついている。
「森川さんには、一度頼んだ方から、次の依頼が来ています。その記録を見た別の方からも選ばれています」
「それは、問題なんですか?」
「問題ではありません。丁寧にやってもらえた人へ、もう一度お願いしたいと思うのは自然です」
航が画面をのぞく。
「じゃあ、なんでその人も来るの?」
水野は、記録の少ない名前を指した。
「この人は、やったことがないから選ばれない。でも、選ばれないと、やったことがある人にもなれないんだ」
「でも、最初はみんな、やったことないよね?」
「そうだね。誰かと一緒に始める人もいるし、一人で始める人もいる。でも今は、一人で任せられる人のほうが選ばれやすくなっている」
美紀は、布のほつれた部分へ目を落とした。
「この方に、直してもらうんですか?」
「全部を任せるつもりはありません。森川さんに見ていただきながら、できるところだけ一緒にやってもらえないかと考えました」
「どこをしてもらうかは?」
「森川さんに決めていただきます。難しければ、最初は見てもらうだけでも構いません」
「見てるだけでもいいの?」
航が聞く。
「まずはね」
「それで、できるようになる?」
「見ただけでは、ならないかもしれない。でも、次に何をすればいいかは分かるかもしれない」
美紀は、明日使う糸の箱を見た。
誰かに見られながら作業することには、少し気を使うだろう。説明しながら進めれば、普段より時間もかかる。
それでも、自分が最後に確認すれば、仕上がりに問題は出ないように思えた。
「私が全部確認するなら、できるかもしれません」
水野が美紀を見る。
「一緒に参加していただいても大丈夫ですか?」
美紀はすぐには答えなかった。
予定を勝手に変えられたことには、まだ納得していない。
けれど、自分が断れば、その人はまた何もできないままになるのかもしれない。少し手間が増えるだけなら、自分が引き受けたほうが早い。
「……私のほうは、大丈夫です」
「無理に受けていただく必要はありません」
水野はそう言った。
だが、事情を聞いたあとで断るほうが、美紀には難しかった。
「大丈夫です。私が横にいれば」
水野はうなずいた。
「ありがとうございます。では、依頼した方にも説明して――」
玄関から、帰宅を知らせる音がした。
扉が開き、直人が入ってくる。
「ただいま」
「おかえり」
直人は靴を脱ぎながら、居間にいる水野へ目を向けた。
「水野さん?」
「急にお邪魔しています」
直人は鞄を置き、食卓へ近づいた。
「何かありましたか?」
「お母さんのところに、やったことない人も来るんだって」
航が答えた。
「明日の活動に、もう一人参加してもらえないかという話なの」
美紀が補う。
直人は水野の前に表示された予定を見た。
美紀の名前の隣に、知らない名前が並んでいる。
「この方が、明日一緒に行くんですか?」
「まだ決定ではありません」
水野が答えた。
「布を扱う活動に参加したい方ですが、経験が少なく、これまで選ばれていません。森川さんと一緒なら、参加できないかと考えました」
直人は予定から、食卓に広げられた布へ目を移した。
「これは、明日直すもの?」
「うん」
「依頼した方は、美紀に頼んだんだよね?」
「そうだけど、私が最後に見れば、仕上がりは変わらないと思うから」
「もう引き受けたの?」
「私のほうは大丈夫だって言ったところ」
直人はすぐには何も言わなかった。
もう一度、予定に加わった名前を見る。
「依頼した方にも、説明したんですか?」
「これからです」
水野が答えた。
「参加方法を相談し、了承が得られれば確定します」
「先に美紀へ話したんですね」
「はい。森川さんが受け入れられないなら、依頼者の方へ提案する必要もないと考えました」
直人は美紀を見る。
「本当に大丈夫なの?」
「説明しながらだと、少し時間はかかると思う。でも、私が横にいるから」
「そうじゃなくて」
直人はそこで言葉を切り、布の端に残るほつれを見た。
美紀は材料を選び、依頼した女性とも直し方を相談している。女性はそのやり取りをしたうえで、美紀に任せたはずだった。
「美紀が大丈夫かどうかだけの話じゃないでしょう」
美紀は直人を見る。
「どういうこと?」
「頼んだ方は、美紀に直してほしくて依頼したんだよね」
「うん」
「知らない人に経験を積ませてほしいと頼んだわけじゃない」
水野が姿勢を正した。
「練習の場にするつもりはありません。森川さんが仕上がりを確認し、問題のない範囲だけ参加してもらう想定です」
「でも、頼んだ人から見れば、自分の物に、頼んでいない人が触るんですよね」
「はい」
「それを決めるのは、美紀でも支援室でもないと思います」
水野はすぐには答えなかった。
美紀も、布へ目を落とした。
自分が引き受ければ済むと思っていた。
けれど、その布は、美紀の物ではなかった。
「その通りです」
水野は、しばらくして答えた。
「依頼者の方が決める前に、参加させることはできません」
水野は予定の画面を開いた。
美紀の隣にあった名前が消え、訪問時刻も元へ戻る。
「まず、予定を戻します」
「私、一緒に行ってもいいって言いましたけど」
美紀が言った。
「それは、森川さんの分だけです。依頼者の方の返事にはなりません」
水野の言葉に、美紀はうなずいた。
直人は、名前の消えた予定を見た。
「それでも、依頼した方には提案するんですか?」
「はい」
「断られるかもしれないのに?」
「そのときは、今回は参加できません」
「だったら、最初から別の活動を探したほうがいいんじゃないですか」
「別の活動でも、同じことが起きています」
水野は、その人の記録を画面に残した。
「経験のある人が選ばれる。それ自体は自然です。ただ、それが続くと、最初の一回がなくなります」
「それは、依頼する人には関係ないでしょう」
「はい。その負担を引き受ける義務はありません」
「それでも、依頼した方には提案するんですね」
「選択肢としては、出したいと思っています」
直人は食卓の布を見た。
「人の依頼を、次の人の入口にするんですね」
「そうならない方法があれば、そのほうがいいです」
「練習用の物を用意するとか」
「それで始められる人もいます。ただ、練習の記録より、実際の依頼を受けた記録のほうが、次につながりやすい」
「だから、目の前の依頼へ入れる」
「森川さんと、本人と、依頼者が受け入れるならです」
水野の答えは変わらなかった。
直人は少し息を吐いた。
「ずいぶん、通過主義者なんですね」
部屋の中が静かになった。
航は直人を見た。
通過主義者という言葉は、学校でも聞いたことがある。けれど、今の父の言い方は、少し怒っているように聞こえた。
水野は怒った様子を見せなかった。
「そう見える仕事なのかもしれません」
「目の前の人より、次の人を見ているように見えます」
「どちらかだけを選ばないようにしたいんです」
「今回は、目の前の人へ聞く前に予定を変えた」
「はい。失敗しました」
水野は予定の下に、新しい表示を加えた。
《共同参加を提案予定》
「依頼者の方へは、森川さんが仕上がりを確認することと、断っても予定は変わらないことを伝えます」
「それで断られたら?」
美紀が尋ねた。
「元の予定どおり、森川さん一人で行っていただきます」
「その人は?」
航が聞いた。
「今回は行けない」
「また、何もないまま?」
「今回はね」
水野は、その人の記録を閉じた。
「でも、本人と相談して次を探すよ」
「また、だれかに聞くの?」
「うん。今度は、予定を変える前に」
航は、美紀一人に戻った予定を見た。
名前は消えていた。
それでも水野は、もう次の話をしていた。




