第七話 老人の家 (三)
三 できること
居間へ戻ると、背もたれを少し倒した椅子が用意されていた。
義一はそれを見て、隣の木の椅子へ座った。
「そっちなの?」
航が聞く。
「柔らかいと立ちにくい」
美紀は窓から差し込む光を弱め、義一の前へ水を置いた。
《水分補給をしてください》
義一は表示を見たが、すぐには手を伸ばさなかった。
台所には、朝使ったらしい鍋と焼き網が残っていた。
「朝ごはん、ご自分で作ったんですね」
美紀が言う。
「そうだ」
「休むように言われたあとですか?」
「起きたときは動けた」
「それから部品も運んだんですよね」
義一は水を一口飲んだ。
「少し動かしただけだ」
「少しずつ重なったのかもしれません」
「何もしなければ、身体はもっと動かなくなる」
義一は台所へ目を向けた。
「何でも任せていたら、自分がまだできるのかも分からなくなる」
航は作業場のほうを見た。
「車も?」
「料理も、掃除も、車もだ。使わなければ、できなくなったことにも気づかん」
美紀はすぐには答えなかった。
自分の手を見てから、静かに言う。
「私は、できない日に任せてきました」
義一が美紀を見る。
「食事も、掃除も、移動もです。前は、自分でやらないことが増えるたびに、戻れなくなる気がしていました」
航は母の顔を見た。
美紀が家のことをほとんどできなかった頃を、航も少し覚えている。
「でも、任せたから休めました。休めたから、また自分でできることも増えました」
「それは、あんたの場合だ」
「そうですね」
美紀はうなずいた。
「榊さんとは違います。でも、自分ですることと、誰かに助けてもらうことは、きれいに分けられないと思います」
義一は水の容器を持ったまま、何も言わなかった。
「今日はできないと決めても、明日からずっと任せることにはなりません」
「明日できるかは、明日にならんと分からん」
「だから、明日また決めればいいんです」
義一は顔を上げた。
美紀の言葉を確かめるように見たあと、残っていた水を飲んだ。
《水分補給を確認しました》
家のAIが知らせる。
航は台所を見た。
「夜ごはんは、自分で作るの?」
「そのつもりだ」
《本日は自動調理を推奨します》
「AIが作ったほうがいいって」
「聞こえている」
義一は調理台の鍋を見た。
しばらくして、壁の表示へ手を伸ばす。
「夕方になったら、汁と飯を用意しろ」
《主菜を追加しますか》
「豆腐があれば入れろ」
《承知しました。夕方に調理を開始します》
航は義一を見る。
「任せたね」
「今日はな」
義一は木の椅子へ背を預けた。
「明日は?」
「明日決める」
美紀が少し笑う。
義一はそれに気づいていたようだったが、何も言わなかった。
玄関から短い音がした。
《訪問者が到着しました》
すぐに、扉の外から男の声がする。
「義一さん、入ってもいいですか」
「ああ、入れ」
「義一さん、部品を持ってきたぞ」
義一は目を閉じたまま答えた。
「遅い」




