第七話 老人の家 (一)
一 いつもと違う老人
次の日の放課後、航は鞄を置くと、ハルの首輪を手に取った。
「公園に行ってくる」
食卓で布を広げていた美紀が顔を上げた。布の横には、直す場所を示した写真と、糸の入った小さな箱が置かれている。
「車の続きを見るの?」
「うん。でも、ハルの散歩が先」
昨日、課題用紙に書き直した言葉を、航は思い出した。
《ハルと散歩する》
「暗くなる前に帰ってきてね」
「分かってる」
「おじいさんがいなかったら、待たずに帰ってくるんだよ」
「うん」
航は首輪の金具を上から押し、横からも確かめた。
「大丈夫」
待ちきれないように尻尾を振るハルを連れ、家を出た。
道の端へ鼻を寄せていたハルは、公園が近づくと少しずつ足を速めた。
「走らないよ」
航が声をかけると、ハルは一度振り返り、早歩きのまま入口を抜けた。
いつものベンチには、老人が座っていた。
足元に工具の鞄があり、犬用の手押し車がベンチへ立てかけられている。昨日つけた二本の持ち手も、そのまま残っていた。
「おじいさん」
航が呼んだ。
老人はすぐには顔を上げなかった。
ハルが靴のそばへ鼻を近づけても、いつものように手を伸ばさない。
航は老人の前へ回った。
「今日、直さないの?」
老人の目が、少し遅れて航へ向いた。
「来たのか」
「うん。どこが悪かった?」
「まだ見てない」
航は手押し車と老人を見比べた。
昨日なら、航が来る前に確かめていそうなことだった。
「具合悪いの?」
「少し休んでいただけだ」
老人はベンチの端へ手をついた。
立ち上がった身体が、すぐに横へ傾く。
航は思わず上着をつかんだ。
老人はベンチの背へ手を置き、そのまま座り直した。
「触るな」
「倒れそうだった」
「倒れてない」
「でも、まっすぐじゃなかったよ」
老人は何も答えなかった。
航は腕の端末を開いた。
「何をしてる」
「お母さんを呼ぶ」
「呼ばなくていい。少し休めば戻る」
老人はいつも、壊れていないか確かめろと言っていた。何もなければ、それで終わりだとも言っていた。
「呼んで何もなかったら、それで終わり、でしょ?」
老人は顔をそむけた。
航は美紀の名前を押した。
呼び出し音が一度鳴り、画面に美紀の顔が映った。
「どうしたの?」
「おじいさんが立ったら、横に曲がった」
「曲がった?」
「少しふらついただけだ」
老人が画面へ向かって言う。
美紀の表情が変わった。
「いつもの公園だね?」
「うん」
「転んではいない?」
「転んでない」
「胸が痛いとか、息が苦しいとかは?」
航が老人を見る。
「どう?」
「ない」
「立たせないで、そのまま待っていて。五分くらいで着くから」
「来なくていい」
「一人で帰れますか?」
老人は答えなかった。
「何か変わったら、すぐ呼んでね」
「分かった」
通話が閉じた。
航は老人の隣へ座った。
ハルは二人の足元へ伏せ、老人の靴に顎を乗せた。老人はしばらくそのままにしていたが、やがてゆっくりと背中へ手を置いた。
五分もしないうちに、公園の入口へ移動車が止まった。
美紀は水の入った容器を持って降りてきた。
「変わりない?」
「ずっと座ってた」
美紀は老人の前へしゃがんだ。
「気分はどうですか?」
「少し疲れただけだ」
「今の体調を確かめるために必要な範囲だけ、健康情報を確認してもいいですか?」
老人は面倒そうに息を吐いた。
「勝手にしろ」
「確認してよいという意味でいいですか?」
「そうだ」
美紀が端末を向けると、健康確認の表示が開いた。
《本人確認のため、氏名をお知らせください》
老人は画面を見たまま黙っていた。
「名前だって」
「そこまで要るのか」
「ぼく、おじいさんの名前知らないよ」
老人は小さく息を吐いた。
「榊義一」
「さかき、ぎいち?」
「そうだ」
「おじいさん、義一っていうの?」
「今さらか」
「初めて聞いた」
「初めて言ったからな」
《今回の体調確認に必要な健康情報だけを、一度確認します》
名前を知っても、老人の顔や服は何も変わらなかった。
それでも航には、さっきまでとは少し違って見えた。
《今朝、休息を勧める通知が出ています》
《通常より高い身体負荷が記録されています》
美紀が義一を見る。
「今日は何をされたんですか?」
「朝飯を作って、部品を少し動かしただけだ」
航は手押し車の横に置かれた金属の部品を見た。
「これ?」
「家から全部運んだわけじゃない」
「休んでって言われたあと?」
義一は答えなかった。
《緊急性の高い異常は確認されていません。帰宅後の休息と水分補給を推奨します》
美紀は持ってきた水を差し出した。
「榊さん、少し飲めますか」
義一は受け取り、一口だけ飲んだ。
「家までお送りします」
「一人で帰れる」
「公園では立ったときにふらついたんですよね」
「少しだ」
「少しでも、航だけでは支えられません」
義一は航を見た。
航は義一の上着をつかんだときのことを思い出した。倒れてきたら、きっと支えられなかった。
「手押し車も車に載せよう」
「ここに置いていけばいい」
「今日は直せないよ」
義一はしばらく手押し車を見ていた。
やがて端末を開き、移動車へ荷物の回収を頼んだ。
手押し車と工具の鞄は、後部の搬送台へ載せられた。義一はベンチに座ったまま、車輪に重さがかからない向きだけを指示した。
それから、ゆっくり立ち上がる。
美紀がすぐ横へ寄った。
「一人で歩ける」
「分かっています」
「なら離れろ」
「倒れたときに届くところにはいます」
義一は何も言わず、移動車まで歩いた。
航とハルもあとに続く。
《行き先をお知らせください》
義一は窓の外を見たまま答えた。
「家へ」




