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途中  作者: 古江 門
第一部

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第六話 この国のふつう (五)

五 楽しいだけ


 家へ戻ると、直人が食卓に皿を並べていた。


「おかえり」


「ただいま」


 航はハルの足を拭き、鞄から課題用紙を取り出した。


《将来、誰に何を渡したいですか》


 その下には、


《犬の車を作る》


 と書かれている。


「学校の課題か」


 直人が紙を見た。


「うん」


「犬の車は、今日も作ったのか?」


「押すところがついた。でも、まだ右に曲がる」


「原因は分かった?」


「車輪の片方が固かった。少し直したけど、まだ曲がる」


「そこまで自分で確かめたのか」


 直人は感心したように言った。


「航は、物を作ったり、仕組みを考えたりするのに向いているのかもしれないな」


「向いてるって?」


「これから上手になれるかもしれないということだよ。将来、そういう活動を選ぶこともできる」


 航は課題用紙を見た。


「犬の車を作る人になるってこと?」


「それも選べるというだけだ」


「ぼく、犬の車をたくさん作りたいわけじゃないよ」


「でも、作るのは楽しかったんだろう?」


「うん」


「なら、ほかの物も作ってみれば――」


「作るのが楽しかっただけだよ」


 直人の言葉が止まった。


 美紀が鍋を食卓へ運んできた。


「楽しかっただけでも、いいんじゃない?」


「悪いとは言っていないよ」


 直人は答えた。


「好きなことが、先につながるかもしれないと思っただけだ」


「先につながらなくてもいい?」


 航が尋ねた。


「もちろんだ。今から決めることじゃない」


 航は美紀を見た。


 食卓の端には、閉じた裁縫箱と、直してほしい物の写真が映った端末が置かれている。


「お母さんも、最初は楽しかっただけ?」


「布を直すこと?」


「うん」


「そうだね。家の物を直すのは、前から嫌いじゃなかったよ」


「それが活動になったの?」


「直してほしい人がいて、私もやってみようと思ったからね」


「じゃあ、楽しいことは、いつか活動にするの?」


 美紀は椅子へ座った。


「しなくてもいいよ」


「大人でも?」


「大人でも」


「ずっと楽しいだけでも?」


 美紀は少しだけ間を置いた。


「それでもいいと思う」


 直人は何も言わなかった。


 否定もしなかった。


 航は課題用紙へ目を戻した。


《犬の車を作る》


 公園へまた行きたいとは思っている。


 右へ曲がる車を、まっすぐ進むようにしたい。


 でも、それを将来も続けたいのかは分からなかった。


 航は消しゴムを持った。


 書いた文字を、端から消していく。


「それでよかったんじゃないのか?」


 直人が尋ねた。


「車は作るよ」


「では、どうして消すんだ?」


「宿題に書かなくても作るから」


 消しゴムの粉を手で払うと、《犬》の文字があった場所に、鉛筆の薄い跡だけが残った。


 航は鉛筆を持ち直した。


 授業の最初に書き、消してしまった言葉を、もう一度書いた。


《ハルと散歩する》


 食卓の下で、ハルが顔を上げた。


「それは、誰かへ渡す物ではないな」


 直人が言った。


「うん」


「先生に、問いと違うと言われるかもしれないぞ」


「でも、ぼくがしたいことだから」


 航は答えた。


 直人は紙を見たまま、しばらく黙っていた。


 やがて、小さくうなずいた。


「それなら、自分で説明すればいい」


 美紀が鍋の蓋を開けた。


 湯気が広がり、課題用紙の端をわずかに揺らした。


「ごはんにしようか」


「うん」


 航は紙を食卓の端へ寄せた。


《ハルと散歩する》


 その言葉は、誰かへ渡す物にも、将来の活動にも見えなかった。


 それでも航は、もう消さなかった。

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